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 2009年を振り返る   12.27.2009
     
  あわせて日本の国民性を考える




 この1年、世界全体で様々なことがあった。日本全体では、政権交代だったろう。

 日本の将来の見通しを明るくするという意味からは、政権交代が必須な時期に来ていたのは確かだ。しかし、単に、政権が交代しただけは不十分で、これと同時に、もっと本質的な変化がこの日本全体で起きないと、かえって活力のない妙な国になるの可能性がある。実際、何か起きるだろうか。歴史上重大な変更を実証する過程にある。

 なぜ日本は発展しない国になったのか。それは何かが欠けているからなのだろうか。色々と考えてみるのだが、やはり、日本の国民性が変わった。基本的な発想法が、もはや発展できない形のマインドに変更された(?)ことが大きいのではないだろうか。

 資源もエネルギーも、食料も自給できないこの国では、人材が国を支える唯一の資源である。いつまでたっても、日本の未来を支えるものは、恐らく科学技術である。すなわち科学技術立国以外に生きる道はない国である。「これは自明だ」などといっても、自分がそれを支えるという覚悟だ、という威勢のよい発言は聞こえない。本当の意味の科学技術立国を制度的に支えるという仕組みがない。むしろ、新しい発展が起きることによる、既得権益の喪失を問題にする人が多い。さらに言えば、責任を回避することが上手な人が出世し、そのため、元気な若手が育たない。

 なぜ、そんなことになってしまったのか。様々な機会に様々な人々とこの問題について議論をしてみたのだが、その原因は、やはり、「すでに、人口も減少し始め、ハングリー精神が不要な程度にまで成熟した社会ができたから」、ではないか。すなわち、歴史的な必然なのではないか、とも思う。

 社会が成熟することは、文明にとって一つのゴールである。だから、それはそれで良いとする。これも考え方の一つである。しかし、同じ結論になるとしても、もっと明るく、成熟社会を楽しめば良いではないか。なぜ、そうならないのだろうか。なぜ、犯人捜しだけに熱心な国民になってしまったのだろうか。その犯人も、主犯かどうか不明の場合もあり、別のもくろみによって犯人にされてしまう場合もある。そのもくろみとは、多くの場合、政治的なものである。

 2010年の予算がどのように決まったか、新聞が様々な解析を行っていた。しかし、その中に看過できない記事があった。誰かが「それでは次の選挙が戦えない」という言葉を吐いた、という記事である。どうやら、次の選挙に勝つために国家予算が決められているのである。国民全体のために良いからという理由で国家予算が決められていないとしたら、これは何なのだ。

 話がずれた。2009年を総括するという意図で、日本の国民性について、最近の考えをまとめてみたい。



C先生:そんな訳だ。本日の主題は、なんと日本の国民性だ。これが現在の日本を作っていることは確実だ。しかも、今後の日本という国の行く末を決めるのも、この国民性だ。

A君:景気が悪い。この景気の「気」というものが、結局のところ、「考え方」ですよね。考え方が収縮型になれば、景気が悪くなって、拡張型になれば、景気が良くなる。

B君:しかし、現時点での最大の問題である地球の有限性を考慮すると、拡張型とは言っても、資源を大量に収奪するようなものであっては、持続可能性との矛盾が出る。

C先生:「持続可能性との矛盾」ということの意味を充分に理解した上での拡張型の考え方になることが、今後の発展のために不可欠。これが、2010年の本HPの主要課題になるように思える。

A君:持続可能性とは何か。これが分かるには、やはりある程度の経験を持ち、悟りの境地に入らないと、無理な部分があるのでは。

B君:今年の後半から議論を始めた持続可能性と継続可能性の違いということを理解することは可能だろうが、その理解を行動に繋げるところまで行ける人は本当に少ない。

C先生:このHPでの持続可能性の議論は、結構過酷だから理解したくても理解しにくい。
 「持続可能性は、個の問題ではない。なぜならば、個には有限の寿命がある。個人にしても、企業にしても組織にしても。特に、組織の寿命は、個人の寿命より短い可能性もある。しかし、地球とヒトとの関係は、持続可能にならなければならない。となると、個は、次世代の個に何かを伝承しないと、有限の寿命のものの集合体は、持続可能性にはなり得ない。それは何か。
 どう考えても、その何かが物質的・金銭的なものではないだろう。場合によると物質的な形態は取る可能性はあるが、それは見かけ上であって、本当は、違うだろう。
 となると、哲学的なもの、価値観のようなもの、知恵のようなもの、宗教のようなもの、精神的なもの、科学的知識のようなもの、未知の挑戦課題のようなもの、などなどではないか。これらは、いずれにしても、大脳の産物である。
 すなわち、大脳の中味だけが、次世代に伝達可能で、それが「持続可能性」の鍵である。個自身の寿命を長くする必然性は、いかに大脳の中味を増強して、次世代に伝えるべきものを増やすかという一点にのみ存在する」。

A君:「一部のエリート集団だけが、大脳の中味を次世代に伝達すると、それは、非常に歪んだ情報が伝達されることを意味し、持続可能性にとっては、不利益である。
 金融工学などは、もともとは知的な遊戯が現実社会に悪い形で実装された例ではないかと思われる」。

B君:「すべての人が、自らの後継者を意識し、その後継者が、その次の後継者に何を伝えるべきかを考えることが、持続可能性にとって必要な行為である」。

C先生:その際、意識しなければならないことが、やはり、日本人の国民性なのではないか、ということで、今回の主題に繋がる。

A君:2009年までの50年は、日本の歴史にとって、非常に重大な50年だったですね。戦後、急速な経済発展を始めたころから、公害を克服し、世界第二の経済大国になって、そしてバブルという異常な経験もした上で、成熟した社会を作った。

B君:成熟したのか、まだなのか。これをどうやって証明するのか、と言われれば、それは「リスクを冒すか」どうか。

A君:日本では、「リスクは冒すもの」ではなくて、「リスクはゼロにするもの」なんですよ。すなわち、成熟してしまった。

C先生:その通りだろう。「リスクは冒す」が普通だ。それはチャンスと裏腹だからだ。これが、世界の大多数の国での考え方だ。
 たとえ話をする。1万年以上前のことだ。マンモスが外を歩いている。このマンモスを殺せば、その村の食料事情は、しばらくの間安泰だ。すなわち、大きなチャンスだ。しかし、このマンモスを殺すには、戦わなければならない。戦いで誰かは傷つくだろう。これはリスクだ。
 「リスクを冒す」ということは、目の前を歩いているマンモスを食料にするチャンスに挑戦することなのだ。

A君:もしも、このチャンスを逃すと、餓死をするリスクがある。となると、リスクのトレードオフを考えてチャレンジする人が出てくる。しかも、英雄的な働きをすれば、食料の分配が多くなる。

B君:ところが、水田耕作をやっていた日本人は、そのようなチャレンジをしないでも、なんとか食料を得ることができた。飢饉になれば、大きなリスクだが、それはすべての人が均等に受けるリスクだった。自分だけではない。

C先生:リスクを冒せばリターンは大きいかもしれない。しかし、リスクを冒さなければリターンは無いが平等な社会ができる。これが、大昔の日本社会だった。現時点の日本では、チャレンジするチャンスも無くなりつつあるのかもしれない。

A君:西欧人は、夜、居間でも靴を履いているのは、狩猟民族の末裔という伝統を守っているからでしょう。日本人は、家の中で靴を履く習慣がないが、それは水田耕作をやっていたから、という話は、恐らく本当のように思える。

B君:ある人の意見では、西欧の住宅では、玄関ドアは内開き。日本の玄関ドアは外開き。これは、内開きの方が防衛に適しているからという。

A君:内開きの玄関ドアなら、内側にバリケードを積めば防衛しやすい、ということですか。

C先生:それはどうだろう。日本のように雨が多いところでは、内開きのドアだと、風が強いとき、ドアの隙間から雨が入ってくる。外開きのドアなら、外板を大きめにすることで、雨の進入を防ぐことが可能だ。
 いずれにしても、靴の話と、家でも靴を履いているから西欧にはコタツがない、という話は、今年何回使ったことやら。

A君:話を戻しますが、昔、日本という国で怖いことは、「リスクを冒すこと」だった。しかも、リスクを冒して何が本当に怖いかというと、結果的に、何か利益を得たとしても、それが原因で「村八分」にされることだった。

B君:日本社会の最大の特徴が、「村八分」を嫌がることだったというのは、事実だろう。「村八分」と「穢れ」というものは密接に関連している。何かチャンスに挑戦して成功しても、それが「穢れ」と他の人の目に映ると、これは最悪のことだった。そのために、チャンスがあっても挑戦しない。要するに目立たないことがもっとも正しい戦略だった。

A君:この感覚がまだ現代にも継続している。そして、国民全体を「いじめ体質」にしている。目立つものを異質だと捕らえ、かつ、穢れだと考えていじめるのだ。メディアは、日本国民のいじめ体質を良く知っているので、どんな記事が売れるかを、こんなことを含めて適切に判断して、全体の論調を決めている。

C先生:「村八分」、「穢れ」、「いじめ体質」。この3つの言葉で、昔の日本社会のことなら当然だが、現時点の日本社会のいろいろな事態が説明できてしまう。これは困ったものだ。

A君:スパコンの事業仕分けの後の反応なども、どうにも「村八分」で説明ができるような気がしますね。

B君:科学技術予算を減らしても良い、などというと、いきなり「村八分」に合う。

C先生:個人的な話で恐縮ながら、最近の立場は、明らかに科学技術予算を取る立場からほど遠いものになった。言い換えれば、村八分が怖くない立場になったので、色々とはっきり言えるのだが、現在の科学技術予算の配分方針には、賛成しにくいところがある。

A君:スパコンの事業仕分けの結果について、ノーベル賞学者が大挙して意見を述べていましたが、その場にいなかったのが、益川敏英氏、白川英樹氏、田中耕一氏だったのでは。

B君:この三名の方々のノーベル賞の栄誉を受けることとなった業績は、科学技術予算の配分とは全く無関係なところで生まれた。

A君:確かに。科学技術予算のお陰で生まれた日本のノーベル賞は、と言えば、小柴昌俊氏のカミオカンデによるニュートリノの検出ぐらいでしょうか。野依良治氏の場合は、1991年以降多額の研究費を受けていますので、なんとも判断が難しいですが、ノーベル賞の獲得には、多くの受賞者にとって、多くの研究費を必要とした訳ではなかった。

B君:しかし、もしもそれを発言したら、「村八分」にされる。

A君:さる会議の某有力メンバーがそれを発言して村八分になりかかったとか。

B君:例の1件90億円の研究費で話題になった最先端研究開発支援プログラムも、現在、平均35億円ということになっていて、どの研究に対して多めにするか、などということを決定するのが難しい状況。これについても、妙に削減に関与しようものなら、「村八分」が待っている。

A君:悪平等的分配になるのでは。

C先生:それにしても、「最先端」の90億円が研究者個人にとって、どのような意味があったのだろうか。ゴア元米国副大統領がノーベル平和賞をとって、何が変わったのか、というとそれまでの講演が1ステージ1000万円だったものが、2000万円になったという。もちろん、ゴア副大統領にとっては、そんなものはいくらでも良いのだろうが、米国人にとっては、その講演料が個人の格を決めるものなので、重要なのだ。

A君:「最先端」の場合にも、研究費の額が研究者の格を決めるものだという考え方の人も多かった。

B君:実際に、最初から90億円が必要だったという研究などは無かったのでは。どのプロジェクトにも、企業がかなり大幅に関与しているので、いくらでも使う気になれば使えるのも事実だが。

C先生:大分、議論がずれてきたが、本来ここで言いたかったのは、ノーベル賞を増やそうと思ったら、「大規模研究」とか、「選択と集中」というものをやっては駄目。大規模研究は、実用化が近いテーマについての実証的研究が目的。

A君:これまで個人レベルでの大規模研究の例としては、ERATOと呼ばれるJSTの研究があって、1981年から行われている。すでに90人程度に、5年間のプロジェクト期間で20億円程度の研究費が配分されている。

B君:ERATOの初代から、技術の根幹に関わる大物研究者が壮大な活躍をした。そのお陰で、日本の技術が進展したと思われる。

A君:しかし、今のところ、ノーベル賞に結びついたのは、野依先生だけ。今後、大阪大学の審良静男教授あたりが可能性があるか??

C先生:ノーベル賞を狙うなら、ある特異な能力を有する個人を放し飼いにする方が効果的だ。ノーベル賞級の発見など、「たまたま出る」ものなのだ。狙って出せるほど、簡単ではないのだ。

A君:しかし、放し飼いは今の予算システムでは無理。

B君:それはそうだが、ノーベル賞には放し飼いね。本当にそうだろう。

A君:ノーベル賞は確かに科学上の栄誉ですが、今後、日本は科学技術立国をするのだ、と言っても、「○○立国」を経済的に○○に依存すること、と定義すれば、実のところ、科学立国は非常に難しい。技術立国もいささか難しい。これまでの日本は、企業がもっている高度な擦り合わせ技術で立国してきた。

B君:プリウスなども、ハイブリッド車という発想は昔から有るので、ノーベル賞のタネでは無い。しかし、最終的な擦り合わせ技術でここまで仕上げた。

C先生:2009年の個人的ベストバイも、1位はまあ、3代目プリウスだろうな。日本の擦り合わせ技術の凄さを実感できる製品だった。何回もこのHPで紹介したからもう良いかもしれないが。

A君:いやいや冬寒いプリウスの結果がまだです。

C先生:そうか。実は、3代目プリウスも冬は寒いようだ。熱効率がまたまた上がってしまったもので、いくら排ガスから熱を回収するシステムまで備えたとは言っても、排熱の絶対量が足らないようだ。

B君:それでは寒さを我慢?

C先生:いや。秘密兵器をセットした。45cm角のホットマット(要するに電気座布団)だ。定格消費電力36W。これを助手席にもということで2セット購入。80Wのコンバーターで12Vを100Vに変換して使っている。

A君:それで暖かい?

C先生:3分ぐらいで結構暖かくなる。大腿部を温めると、血流が多いからだろうが、体は結構寒さを我慢できるようになるようだ。

B君:プリウスにシートヒーターの標準化を望んでいたけど、最終的にシートヒーターは、革シート仕様のみになった。残念だった。

C先生:擦り合わせ技術に戻るが、もう一つ、今年の個人的ベストバイ2位と思われるものが、キヤノンの交換レンズだ。といっても、Lレンズ。値段ほど良いのか、と言われると、まあ、評価は個人次第と思うが、画像を拡大して見たときに、そのキレイさというか、名工による工芸作品に接したときのように感心してしまう。しかも、撮り損なうと汚い写真になる。これが怖い。擦り合わせ技術の極地のような製品だ。

A君:何か見本は?

C先生:すでにこのHPの、LEDの記事や、青海湖の記事などに出ているので、ここでは、昨日の夜の月でも示すか。
ここまで小さくすると差がよく分からないが。

写真 12月26日の月。

B君:1位:プリウス。2位:キヤノンのLレンズ。それなら個人的ベストバイ3位は?

C先生:やはりGoogleケータイか。日本人の国民性とも関連することだが、ガラパゴスケータイと対極にあるケータイだ。

A君:iPhoneは買わない。電池の交換ができない機器などは買わない。

B君:ところが、docomoのGoogle携帯であるHT-03Aには、予備電池が付いてくる。だから予備電池を持ち歩いて、万一、使いすぎて電池が無くなっても、予備と交換すれば良い。

C先生:その通り。しかし、まだ交換したことは無い。余り使わなければ、電池はまあまあ2日もつことが分かったし、また、USBから充電できるので、なんとかなる場合も多いのだ。

A君:しかし、この機種は、どのぐらい実用になるのですか。機能的には、iPhoneと変わらないとか。

C先生:確かにほとんど変わらない。実用度だが、これまで、どこに行くにもパソコンを持ち歩いていたが、少なくとも、外部の会議に出て3時間ぐらいで帰ってくる場合には、パソコンを置いていくことができるようになった。なぜならば、Googleケータイは、充分以上の役割を果たす。動作も結構サクサクだ。最新の技術である音声検索なども可能だし、なんといっても、Gmailがプッシュで入ってくるのが良い。Googleカレンダーに依存している身としては、安心感がある。使用料が高いことだけが難点だ。

A君:Googleは、やはりやることが壮大ですね。しかし、日本の今の国民性では、Googleのような壮大なベンチャー企業を作り出せない。

B君:これが大きな問題だ。今後を考えると、ベンチャーをどのようにして出現させるのか。

C先生:昨日、東大の片岡一則先生の講演を聴いた。もともとは高分子屋さんで、今は、ドラッグデリバリーをはじめとして、医学部などと幅広い共同研究をやっている。
 講演の後、このような共同研究体制をどうやって築くべきか、という議論が行われたのだが、過去の経験からいって、どうやって共同研究体制を築くという議論は無意味だ。まずは、個人の努力に依存する以外にないのだ。非常に高いところにまで研究者個人が登りつめることだ。それには、多額の研究費よりも、むしろ、研究に専念できる程度の研究費があることが重要。余り研究費が多いと、どうやって使おうかなど、雑念がわいて駄目。これも「研究者は放し飼い」に繋がることだが。
 もしも、研究者個人が相当の高みに登ることができれば、あとは自然に物事が進む。もしも研究成果が何かに使えそうなことならば、誰も放っておかない。
 何かガッチリした仕組みを作れば旨く行くかもしれない。それは、政治の世界ではそうだろう。しかし、ベンチャーを旨く作ることとなると、ガッチリした仕組みはむしろ不要なのかもしれない。
 何が必要なのか。当然のことながら、個人プレーを行う人間を「村八分」にしてはいけない。無視もしないし、反発もしないで、極めて中立に、かつ暖かく見る。もしも助けが必要だと言われたらそれを助ける。こんなホワッとした仕組みが理想的。
 米国には、エンジェルと呼ばれるベンチャーを見守る投資家がいる。失敗しても当然だという態度で助けてくれる。100人のうち、1人が成功すれば、それで充分に儲かるのだから、という訳だ。
 ところが、日本のベンチャーキャピタルはどこかの企業の子会社なので、投資先が成功しないと、自らの責任にされる。担当者はベンチャーに口を出して逆に事業を潰す。
 ここにも、もっと放し飼いの態度が必要。しかも、暖かく見守る目が必要。しかし、できない。

A君:そろそろ結論がでたようですね。

B君:これらいくつもの問題点が、今後の日本の課題であることは間違いなさそうだ。

C先生:そうなのだ。目前の利益や、直接的な効果にばかり捕らわれていては、日本の未来はない。犯人捜しばかりやっていても、ますます暗い社会を作るだけだ。やはり、志を見抜いて、正しいことをやっている人は、正しく評価される社会でなければならない。しかも、暖かく他人を見ることができるような、いささか余裕のある社会ができることが望ましい。村八分やいじめの世界は、最悪だ。
 なんとか改善できるのか。今の日本では、極めて難しいことだ。しかし、なんとか来年には、多少なりとも、良い方向に向かうことを祈りたい。