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   「安心」を再定義してみる 
   02.01.2014
           多項式での表現 要素の掛け算と関数系




 東日本大震災以来、日本人の「安全・安心」が大きな個人的検討課題になっているが、このところ他の国の状況との比較を語るべき機会が増えている。

 そのため、日本語での表現だけでなく、英語での表現が必須である。やはり、日本語のもつ解釈の多様性が一つの限界になるからである。

 今回は、そのような検討の途中経過を書いてみたい。



C先生:米国、英国が主な対象国だが、これらの国からの訪問者などがいる場面で、若干の意見を述べる機会が増えている。そのために、日英のプレゼン資料を作ることになるけど、どう英訳するかが大問題。なぜならば、まずは、「安心」という言葉の英訳が難しい。

A君:「安心」は、どうやら日本あるいは東アジア独特で、西欧系の言語には、安心にぴったりの言葉が無いとされていますね。

B君:ハングルでは、「幸いだ」という言葉が、安心したときに使われるという。
http://blt3.1af.net/article/241922642.htmlに、

これは直訳すると『幸いだ』という意味になります。こちらは主に安心した時に使われる言葉です。

 とあるが、他の文例を見ると、「安心」とはどうもちょっとニュアンスが違う。

A君:中国語では、
http://www.cjcci.biz/public_html/enter_zhongwen_backnum01.html#19
によれば、「安心」を表現する言葉としてはべつの漢字である「放心」が近く、「安心」には悪い意味があるとのこと。

B君:しかし、いずれにしても、韓国、中国には、「安心」と全く同じだとは言えないだろうが、それに近い単語が存在しているということだと見れば良いのだろうか。

C先生:本日の主たる目的は、向殿先生などがよく言われる式、

 安心=安全x信頼  (1)

をできるだけ拡張して、他にも安心を実現しようとしたときに、必須の項目があるかどうかを検討することだ。

A君:まず、第一項の「安全」は、なんらかの定義をすれば、物理的に測定が可能な量かもしれないですが、実際にはかなり難しい。なぜなら、使用者側の知識のようなものが影響してしまうから。

B君:どんな機器でも誤った方法で使用してしまったら、事故が起きる。だから、「安全」にも使用者のファクターが大きい。

A君:使用者の心理的な要素もあって、例えば、非常に独特な色使いをしている機器があったとして、非常時に押すボタンが「緑色」といった機器があると、使用者が押し間違う可能性が非常に高い。

B君:誤使用の確率を高めるような機器だと言える。したがって、安全を考えるときには、使用者の心理を理解する必要があるが、その心理は、比較的表層に近い部分の心理だとも言える。

A君:「安全」は、使用者の心理への対応を若干は含むけれど、まあまあ物理的な要因で決まる。場合によっては、物理要因として他の項目から分離独立をさせて置きたい。これは最初の項目として確定しておいて良さそうですね。

B君:1式の安全は、まあまあ物理的要因だとしよう。それなら「信頼」はどうか、ということになる。

A君:「信頼」という言葉は、何を信頼するのか、ということが問題になります。例えば、横断歩道を渡るとき、すべての運転手が常に100%の注意を払っていて、また、すべての車のブレーキが100%完璧であれば、横断歩道ではねられるという確率はほぼゼロ。

B君:確かにそうなのだけど、日本での歩行者のかなり多くの人が、他の車とその運転手を全く無視した行動を取るようになった理由が良く分からん。

A君:それは、別種の「信頼」かもしれないのですね。運転手とか車の整備状況とか、「他」に対する信頼であるとすると、100%信頼するのは間違いですから。

B君:そんな気がする。その手の人の「信頼」は、恐らく「自己信頼」、英語だとSelfconfidenceなのかもしれない。

A君:自分に不利なことはまず起きない。しかも、例え、ここで自動車との接触事故を起こしても、治療費・補償費を払って貰えば、それでも良い。それよりも、そんな細かいことに気を払うのだ。自己を喪失し、他を過度に配慮した状態になるだけだ。もっと自由にやりたい。ということなのではないですか。「自己信頼」よりも、「どうでもなれ信頼+我儘至上主義」、さらに言えば、「やれるものならやってみろ主義」なのかもしれないですよ。

B君:そうかもしれない。「やれるものならやってみろ主義」の人は、事故にあったとしても、現在の職場には迷惑は掛けない、もしくは、掛けたってしょうがないということを確信している人とも言えるので、一般的な安心の議論からは除外すべき人々なのかもしれない。

A君:「信頼」をSelfconfidenceと訳すべき自己信頼と、他者への信頼に分けて議論をするというのは、正解かもしれないですね。

B君:状況によるな。「原発」を信頼できるかどうか、その大部分は、「原発という技術そのもの」、「それを運用している事業者」、「それを認可する国の組織」、「国」、などの他者に対する「信頼性」があるかどうかが決めることだろう。「自己信頼」が問われるのは、むしろ、これらの組織に所属している人々なのではないか。

A君:これらの組織に属している人々が、「自己信頼」をしているのであることが、他者から信頼を受ける最低条件だということですね。

B君:「提供側の自己信頼」とでもするか。

A君:一般社会における安心の表現は、式(1)が変わって、

安心=安全x提供側への信頼x提供側の自己信頼  (2)

B君:「提供側への信頼」を持てるかどうか、これが一つの、というか最大問題。

A君:これはまさに提供側の問題ですので、ここでは議論しません。しかし、現時点で、行われている郡山市からの避難者の訴訟での国および事業者の主張を聞いていると、これで「提供側への信頼」が獲得できるとも思えないのです。まあ、この事例に限定すれば、裁判用のテクニックとしては分からないでもないのですが。

B君:それはそれとして、「科学的事実」というものが揺らいでいるのも大問題。というのは、提供側がいくら「事実はこうなのです」と説明したとしても、それは「不確実なことでしょう」、という反応がくるようになった。

A君:それは、「提供側への信頼」というよりも、「科学への信頼」を根底から揺るがすことですね。東日本大震災以来、学者と呼ばれる集団に対する信頼性が大きく損なわれました。
 その主たる理由は、恐らく3つあって、一つは、「科学は確実だと言いながら、実のところ、意見が一致しないのだはなぜだ」で、もう一つは、「いわゆる科学のもつ不確実性が、必要以上に強調されたこと」、そして、最後の一つが、「これまでの理科教育が余りにも貧困だったので、一般市民の放射線の知識が皆無だったこと」で、ウソを喧伝する人と正しいことを言う人の見分けが付かない。

B君:本当だ。原発事故を契機として、文科省は、理科教育を変えて、放射線のリスクなどを正しく教える教科書に切り替えるべきだと思う。

A君:科学リテラシーの低さは、世界共通とも言えるのですが、この点はどうなのですか。例えば、日本のアンケートでこんな結果があるようです。国立環境研の青柳みどりさんの結果ですが。
 こんなものです。


放射性物質や放射線への認識

(a) 放射性物質は放射線を出して別の物質に変わっていくので、自然界に永遠に残るものではない。

正しい:19.7%
間違っている:59.6%
分からない:20.7%

(b)普通に生活していても、地域によって若干の差はあるが、世界の平均で年間2.4ミリシーベルトの放射線を自然界から受けている

正しい:53.9%
間違っている:13.4%
分からない:32.7%

(c)人工的な放射線と、自然に受ける放射線では、人体への健康影響に差はない

正しい:30.8%
間違っている:47.1%
分からない:22.1%


B君:これをグラフにするとこんな風になる。当然のことながら、すべて「正しい」が正解。


図1 問題(a)


図2 問題(b)


図3 問題(c)


A君:問題(b)の結果は、まずまずとして、問題(a)、(c)は余りにもあたり前過ぎることなので、報道もされていないことだと思うのです。これが、中学高校での教育のレベルを反映した結果だということです

B君:これを信じてもらうには、原子力の専門家ではない普通の学者、まあ、応用物理学会あたりの協力を得て、普通の学者だとどのような答えになるかをアンケートして、示すことがが良いと思う。

A君:「馬鹿にするな」、と応用物理学会に怒られそうですが、この問題に対しては、正しい:間違っている:分からない=1000:0:0になると思うのです。

B君:いや? まあそうかもしれないが、物理学会だと、999:1:0になるかもしれない。

A君:たしかに。997:1:2という可能性もありますね。問題の提示の仕方が悪いから答えが出ない、といったコメントが付いてくるとか。

B君:まあ、それは誤差ということで、大体、1000:1になっている問題は、実は、すでにゲームオーバー。余程何か新しい発見が無いかぎり、ひっくり返ることはない。しかも、その確率はかなり低いので、それに取り組む人はいない。

A君:大分前になりますが、フライシュマンやポンズの常温核融合の話で大騒ぎがありましたが、非常にミクロなレベルでは、起きていないとは言えないという話もありますが、まあ、貴金属が溶けるとかエネルギーが得られるというレベルには程遠いので、「あの実験はウソだった」で合意で良いのでしょう。

B君:そして、同じ問題を、メディア関係者1000人にやってもらうことができれば、これは興味津々。

A君:本当。実現できませんかね。どなたか、やっていただけませんか。

B君:ということになると、式(2)の拡張系として、次のように書くべきかもしれない。

安心=安全x提供側への信頼(市民の科学リテラシー)x提供側の自己信頼  (3)

 カッコ内に入った理由は、提供側への信頼は、市民の科学リテラシーの関数であるということを意味する。

A君:それでは次の要素を議論しますか。

C先生:これはすでに言い始めていることなのだが、補償が重要な要素だ。航空機事故と原発事故を比較したときに、気づいたことなのだ。もっとも、この比較は、日本航空のパイロットだった人からの受け売りなのだが。

A君:この図ですか。



図4 航空機事故の推移

B君:航空機事故による死亡者は、決してゼロではない。そんなことを言えば、交通事故による死亡者は未だに日本では年間4000人以上なのだが、ピークは1970年の1万6765名だったので、大幅に減っている。

A君:航空機事故の死亡者と原発の死亡者を直接比較することは、決して良いことではないのです。原発の場合であれば、避難途中で亡くなった方、仮設住宅の住環境のために死亡したと思われる方、自殺者が多いですから。そもそも30万人が避難したということの数字そのものが問題ですから。しかも、本来、ヒトと違って死んではいけないコミュニティーがいくつも死にましたので。

B君:それはそうなのだ。しかし、今回は、その数値の比較というよりも、航空機事故や交通事故があるのに、なぜ航空機や自動車が受けいられているのかがポイントなのだ。

A君:それは、航空機事故であれば、補償が得られること。航空機に乗ることは自分で決めることだから。そして、何回か乗ると、慣れてしまうこと。すなわち、

安心=安全x提供側への信頼(市民の科学リテラシー)x提供側の自己信頼x補償制度x自己選択x慣れ  (4)


B君:かなり拙速ながら、こんな式になった。これでもまだ不足しているものがあるだろうか。

A君:それは、やはりコミュニケーションでしょうか。例えば、安全性を「安全神話」で語る訳にはいかないですから、Level3のPRA(そのうち、本HPで説明したい)といった手法を採用する以外し、それを住民や市民社会に対してしっかりコミュニケーションができるかどうかですね。

B君:提供側の自己信頼、すなわち、自分自身をどのぐらい信頼できているか。これもコミュニケーションの対象だ。

A君:最後の「慣れ」だって、飛行機と違って、自分では体験しにくいものですから、コミュニケーションが不可欠。補償制度も同様かもしれない。

B君:ということは、コミュニケーションは全体に掛け算で良いだろう。

A君:となると、

安心=安全x提供側への信頼(市民の科学リテラシー)x提供側の自己信頼x補償制度x自己選択x慣れxコミュニケーション  (5)

C先生:まあ、現時点では、このぐらいで良いのではないだろうか。

A君:「安心」は、ある人の心理的な状況でも、かなり深層心理に近い。しかも、その人の様々な状況によって影響を受けます。例えば、なんとなく体調が悪いとき、なんとなく元気がないとき、などには、安心をするのが難しい。受け手側の状況というのも入れるべきではないですか。

B君:それは、ある程度当然のことで、コミュニケーションを行う場合には、相手側の状況をできるだけ広範に、かつ、100%考慮することが必要だ、といったことで良いのではないか。

C先生:コミュニケーションの中味として、安全から始まる各項目と相手の状況としておけば、まずまずの式にはなる。

A君:ではそうしましょう。

安心=安全x提供側への信頼(市民の科学リテラシー)x提供側の自己信頼x補償制度x自己選択x慣れxコミュニケーション(それぞれの項目と相手の状況)  (6)

C先生:これで完璧だと言うほどの自信はないが、この式(6)は、恐らく、かなり汎用に使えそうだ。安心だけでは、商品は売れない。その商品のもたらす利便性やベネフィットは、別途考慮することになる。