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  福岡伸一氏、新たなメディア派の誕生 02.25.2005



 先日、今月の環境で週刊朝日に掲載された福岡伸一氏の記事を見て、感想を書いた。
http://www.ne.jp/asahi/ecodb/yasui/@Week0502.htm#label02212
そのとき、この本は買うまいと思ったのだが、とうとう買ってしまった。

 「もう牛を食べても安心か」 文春新書416、ISBN4-16-660416-3、¥720+税 2004年12月20日第1刷

 結論は、新たな「メディア派学者」の誕生と言えるだろう。この種の学者の最大のメリットは、実は、「(本人が)印税を稼げること」である。それ以外に、社会的なメリットは無い。実質上メディアなので、当然。かなり知識のあるレポータなら、同じトーンの本が書ける。しかし、それでは「学者」が泣く。そこで最後に社会的メリットを出す方法を伝授したい。

 2月26、27日と、東大の研究室の最終解体旅行なので、早めのアップ。


C先生:とうとう本を購入してしまった。まあ、買うまいと思っていたのだが。変心の理由は、『「リスク分析」という欺瞞』、という記述を見つけてしまったからだ。

A君:リスク分析というものの持つ意味が曲解され、喧伝されることは、非常に困ったことですからね。

B君:リスク分析は、色々な言い方ができると思うが、一つは、「ある種の悟りに基づいた人類としての知恵」なんだと思う。

C先生:本の概要をまず説明してくれ。

A君:書評がWebに出ていないかな、と思ったら、いくつか出ていますね。
群馬大学中澤助教授
http://phi.med.gunma-u.ac.jp/bookreview/isitsafetoeatcow.html
朝日新聞書評欄、宮崎哲弥氏
http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=7636
夕刊フジ
http://www.yukan-fuji.com/archives/2005/01/post_1385.html
日刊ゲンダイ
http://www.bookreview.ne.jp/book.asp?isbn=4166604163

B君:本の中身を紹介するのは不要のようだ。中澤先生のHPに解説があるから。それに、このHPは、将来とも消えないだろうから。いずれにしても、そこに、目次からはじまって本の中味の解説がある。最初の方では、ヒトという生命と栄養の関係が解説されている。この部分に限れば、もしも、「命は流れである」という言葉が新鮮に響くのならば、読んでも良いと思われる。

A君:ヒトの命に何一つ完全に固定的なものは無くて、流れの中に存在しているに過ぎないのは事実。数ヶ月前と今の自分は、分子的に全く異なったものになっている。シェーン・ハイマーという学者は、それを「動的平衡」と呼んだ。

C先生:我々の考えかたも当然同じ。ヒトの命を流れとして把握するということ、そして、その命の流れの連続性に乗って未来に受け継がれるものが、哲学であり芸術であり、そして科学であり技術である。場合によっては、生き方である。これらは広義の情報である。その情報を新たに作り、次の世代に伝達すること、これがヒトの個人に課せられた使命である。この使命は、寿命というものが数10年であることによって、より重要度を増す。なぜならば、その限られた時間内に努力をする必要があるから。

B君:個人の命は、流れの中に一瞬存在する泡のようなものに過ぎない。これは古くからの日本人の死生観。今は、どうもそう考えていない人が増えたような気がするが。

A君:現代の日本という国は、やはり奇妙な国ですからね。もっとも、先進国はそんなにも違わない。ほとんど全部の先進国が変なのかもしれない。

B君:何をもっとも変だと思うのか説明しないと。

A君:それは、命というものの絶対的な重要性が過度に評価され過ぎていることでしょうか。確かに、命は重要なんですが、ヒトの死亡率はもともと100%なのだから、その重要さは有限であるはず。

B君:関連して変なのが、自我というものが無条件に重要だという主張。これもある程度事実なのだが、生まれてすぐの赤ちゃんに自我というものがある訳も無くて、「自我は、努力して、社会との接点の中で徐々に形成され、そして徐々に価値を持ってくる」ものであり、先験的に価値があるものではないはずなんだけど、そんな考え方が無い。

A君:言い換えれば、自我と我侭というものの区別ができていない教育がおかしい。

C先生:話が大分ずれてしまっているな。話を命に戻して、日本という国のヒトの寿命に関する考え方は、こんな風ではないか。ヒトの寿命は本来1万年!である。しかし、不幸なことに、様々な要因によって短くなり、長くても120年程度になっている。理想的な食べ物を食べ、サプリメントを上手にとって理想的な健康を実現すれば、1万年まで生きられるのに!!!

A君:寿命は本来1万年?!? BSEによる日本人の寿命の短縮が9000年ぐらいあるということでしょうか。

B君:それはいくらなんでも言いすぎ。やはり不健康な食と生活習慣が命を9000年分縮め、BSEが縮めるのは、まあ100年程度だと思われているのでは。

C先生:生命を流れとして見ると起きがちな一つの誤解が、理想的な食べ物、サプリメントを理想的に摂取して健康を維持すれば、全く新しい体に戻れるということ。すなわち、寿命が1万年だと思えること。ところが、生体内で老化を司る情報は、遺伝子の中に記憶され、流れの中で、次の細胞に伝達される。だから、いくら流れの中に命があっても、ヒトは情報によって老化する。

A君:そう言えば、この福岡先生の本の中に、動的平衡論から老化をどう考えるか、説明が見つからなかったですね。索引が無いので、見逃した可能性も否定はできないですが。

B君:このあたりの議論が、リスク論の根幹を形成している。先ほど述べたように、「ある種の悟りに基づいた人類としての知恵」がリスク科学なのだ。その悟りは、「ヒトの命とは流れの中に存在する最高でも120年程度の有限の現象」ということ。

A君:もう一つ悟りというか、理解が必要なのではないですか。地球生態系も流れとして理解することも可能だが、「地球の地下資源の枯渇は、地球生態系の流れの外にあり、人工的かつ絶対的なものである」。この表現法が不適切なら、「枯渇速度は、地球生態系の再生速度を数万倍上回っている」、でも良いですが。

B君:現時点のような「枯渇性資源を多用している人間活動は、有限である」ことを強く意識すべきで、それが現時点でのヒトという生物が、余りにも無駄なことをすべきでない理由。

C先生:福岡氏の本の、p233から「おわりに−平衡の回復」という部分がある。そこに、稚拙としか言いようの無い地球観が述べてある。「自然が開始したリベンジ」、といった言葉もある。なぜリベンジされるのか、ということを解釈させてもらえば、地球の限界を意識せず、自分の今の「生」を100%保全したいという福岡氏流の考え方に対して、地球からのリベンジがされていると考えるのがもっとも妥当。BSEなど、多くの事象をリスク科学的に取り扱い、もっと重要なことを見つけ優先順位に基づいて対処する、という態度が有限の地球上に存在するヒトの義務だと思うが。

A君:『「リスク分析」という欺瞞』という記述がp229に有りますが、確かに、ここは本書の中で最悪ですね。まず、「私たちは、すこしでも危険なものは避け、できるだけ安全なものを食べたいと願う」。これが市民共通の願望だとしています。これはある程度までは市民の特性として当然のこと、なのですが、BSEのリスクを問題にするなどということは、通常の範囲内を超していると思わないのでしょうか。

C先生:リスク科学を否定したい余り、こんな市民を甘やかせる口当たりのよい表現を持ってきたのだろう。

B君:福岡氏もメディア型の遺伝子を持っているようで、一般にその特徴とは、
(1)リスクを総合的に(比較しつつ)見ることはしない、
 =だからBSEのリスクは重要
(2)安全・危険の二元論である、
 =未知だから、今後とも、BSEは危険
(3)安全を確保するのは、行政の責務、
 =だから、全頭検査は続けるべき
というのが福岡氏の主張。

C先生:フグ毒と狂牛病は違うという主張もあるが、これは面白い。フグ毒は、「時間の試練をくぐりぬけてきた私たちに納得されたリスク」狂牛病は、「人災であり、人為的な操作と不作為によって蔓延した、全く納得できないリスク」、とこのように違う。そして、リスク科学は、リスクのもつこのような歴史的な意味を解読する力は無いと、面白い主張をしている。あたり前なのだ。もともと、リスク科学は「ある種の悟りに基づく生活の知恵」なのだから、歴史的な解釈をする能力は無い。だからといって、それを無駄・無効な科学だと切り捨てるのは不埒である。

A君:福岡氏にその悟りが無いからでは。リスク科学が行う数値化が死者の数であるから、無駄・無効だという主張も妙な話で、ヒトの命は有限で地球も有限である。その中でどんな知恵を働かせるのが良いかという方法論の一つに過ぎないですよね。福岡氏は、一体、それでは、何を判定基準にしようというのでしょうか。その提案が無いですね。

B君:確かに提案は無い。どうも、提案と言えるかもしれないと想像できることはいくつか書いてある。その一つが、検出感度の圧倒的に高い方法論をもっと開発し実用化すべきだということ。そうすれば、もっと安心して牛を食べられるようになる。

A君:ますます、限られた資源、限られた対策能力の中で、地球とヒトとの関係からみて無駄なことが行われそうですね。

B君:研究者としてはそこにメリットがあるかもしれないが。

A君:ただ、福岡氏は、研究費獲得利益誘導型研究者ではないのでは。むしろ、メディア型遺伝子そのものの持ち主なのではないでしょうか。

C先生:そうかもしれない。このようなメディア型の遺伝子をもっている作家の本が、なぜ有害かというと、まず、一見市民の味方であるかごとき擬態を取るところにある。しかし、実は、市民の敵であるのだ。しばしば、メディア型の学者が、市民を人質にとる発言を繰り返したことは良く知られている。例えば、「サリンの2倍」(最近はサリンの数倍)。市民を恐怖感で金縛り状態にするのが、どこが市民の味方なのだ。というと、学問的信念に基づいて発言している、などという言い訳を言う学者もいるが。

A君:もう一つあって、リスク科学がポリティカルな手法である、と断定していますが、政治家・ある部分の行政にとってはリスク科学はポリティカルかもしれませんが、それは、その使い方として正しい方法の一つなのだから仕方が無い。逆にポリティカルな資源(税金)の限界だけが問題にされているところも、視野の狭さですね。やはり、有限な地球地下資源も問題にしないと。リスク科学は、有限な地球と人類にとっての知恵の一つなんですよ。

B君:メディア型遺伝子の最後に、安全を確保するのは、行政の責務だという言い方があるが、これは本当か。ある部分まではそうなのだが、BSEのような非常に小さなリスクまで、行政が確保すべきだということになったら、それこそ、ポリティカルな問題が起きる。

A君:行政は、大枠を決めることはできても、そんなにも小さなリスクをゼロにするような責任は無いでしょう。だから、リスク科学でリスクの大きさを評価する。

C先生:やはりリスク科学のようなものが必要であるという例を述べてみようか。先日、順天堂大学の丸井先生の研究会で、またまた新たな情報を得た。まず、問題だ。中国で感染症で死者が出ているが、それを3位まで上げよ

B君:HIV/AIDSか.......

A君:カンニングをして調べてしまいましたよ。
http://english.people.com.cn/200307/17/eng20030717_120435.shtml
2002年で死者が2228名。もっとも死者が出た感染症が、1位:狂犬病(490名)、2位:ウイルス性肝炎(426名)、3位:結核(372名)

B君:なに。狂犬病だと。しかも、490名だと。日本では無くなった感染症だ。

A君:しかも、中国では、狂犬病は増加傾向にあるようですよ。一方、話題のフグ毒は、日本では、年間6名程度。

C先生:日本のペットの数は増加の一途。ところが、狂犬病の予防注射をしているペットは、50%ぐらいらしい。もしも、日本に狂犬病が入ったら、これは大変なことだ。

A君:確かにBSEどころではない。しかも、狂犬病というのは、別に犬だけが原因ではなくて、中国などでは、コウモリが仲介するようですよ。吸血コウモリが。

B君:トリは病気を仲介できるのか。

A君:駄目です。

B君:さすがコウモリだ。やはりコウモリは、哺乳類なのだな。飛ぶけど。

C先生:この中国の狂犬病が日本に入り込むことと、米国からの輸入を再開したときの日本におけるBSEとどっちが危険なのだ、どちらの対策を先に取るべきなのだ、と質問されたら、福岡氏はいったいどんな方法論を使って比較をするのだろうか。

A君:狂犬病とBSEとでは、病気の意味が違うので、比較はできない、と答える。

B君:狂牛病は未知である。したがって、その質問自体が納得できないと逃げる

C先生:それが、メディア派の限界だ。未知だけど危険、しかし、未知だから評価ができない、だから分析方法の開発が重要では、市民にとってなんらメリットが無い。逆に、市民にとって、未知の恐怖で人質に取られるというデメリットは大きい。

A君:メディアでもないのにメディア派なんですから、メリットが無くても当然。

C先生:確かにそうなのだが、本当のメディアではないメディア派にも有用になる生き方はあるのだ。福岡氏に是非とも薦めたい生き方だ。

B君:それは、メディアではできないことができるからだろう。さて、となると、あれか。スポンサーの縛りか。

A君:そうかもしれませんね。大新聞は、決して大企業の悪口を書かない。それは、もしも書いてしまうと、広告を呉れなくなってしまうから。テレビはもっともっと露骨ですが。

B君:地域で言えば、大阪は、その傾向が非常に強いと言われている。

C先生:松下系のマイナスイオン、シャープの除菌イオン、確かに大阪系なのだ。個人的に、なんとか記事にしたいという記者がときどき会いに来るのだが、まず記事になることはない。それは、やはりメディアの上層部が認めないからだろう。

B君:メーカーも勝手ですからね。マイナスイオンは不確実なことだけど、商売のプラスだから効果が確実のようなことを言って、IH調理器からでる電磁波は、これも不確実なのだが、こちらは絶対に安全だと言い張る。

C先生:「マイナスイオンは、不確実性はあるが、こんなものが健康に効く訳は無い」。「IH調理器の電磁波は、不確実性はあるが、多分無害」、が個人的理解だが。

A君:ということは、「大企業の商品の欺瞞を暴く」といった記事を書くことがメディア派学者が社会的に有用になりうる方法として有力ということですか。

B君:確かに、ほとんど唯一の方法だろうぜ。

C先生:そろそろ結論にしたい。ヒトの命というものを流れの中で理解すること、それ自体はあたり前ではあるが、正しい理解だと思う。しかし、命をもしも流れの中で理解するのなら、命の価値の相対性・有限性の認識が記述されるべきだろう。そうなれば、結論として、リスク科学的思考の合理性が記述されることにならざるを得ない。

A君:ところが、この福岡氏の本は、リスク科学は政治家あるいは行政が使うから駄目だという判断で、完全否定をし、だからといってそれに変わる判断の方法論を提供していない。メディア派にとって、政治と行政を叩いておくことは安全な方法なのです。場合によっては、市民から賛同が得られる場合もあるし。

B君:最後に、地球の平衡の回復とか言いながら、このあたりの記述が、BSEのゼロリスクを追求すべきこととどう関係するのか、これも不明。

C先生:「主張の論理構成がどうも」、というのが私的結論。「やはりメディア派だった」、これが最終結論。