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    初登場:「気候正義」が書名の本 その1  
       2014〜2016年の科研費の成果 05.05.2019

               



 恐らく、こんな書名の本は出版されないだろうと思っていたところ、なんと出版されていることが、「10連休だし何かチャレンジに値する新ネタ本はないか」と探していたときに、発見してしまいました。もっと頻繁にAmazonの図書は探検の対象にすべきでした。

『気候正義:地球温暖化に立ち向かう規範理論』
  宇佐美 誠編著 2019年1月20日初版


 著者の宇佐美誠教授(1966年生)は、京都大学大学院地球環境学堂所属で哲学がご専門。2011年には、NHK Eテレで「白熱教室JAPAN」に出演されたようです。NHKに記録が残っているか、と思ったのですが、見つかりませんでした。
 Wikiによれば、こう書かれています。「名古屋大学法学部の学生だったとき、正義や善などについての価値判断には正解がなく、その判断をする人にとってだけ正しいという相対主義にもともと立っていたが、だんだんと疑問をもつようになり、哲学の勉強を進めた。そして、ある日、価値判断に正解がないとは言えないのだと確信した」。
 対話型講義の実践者としても知られていて、東京工業大学での講義の一部がNHKで放送された後、単行本になったとのこと。Amazonでは、中古品しかないですが、「その先の正義論」という書名です。
 京都大学で環境倫理学・哲学と言えば、加藤尚武先生には、色々とお世話になりました。非常に面白い講義をして下さる先生で、国連大学のときには、サマースクールの講師もお願いしました。
 本日の記事ですが、とても、この本の全部をご紹介するわけにはいかない分量です。
 そこで、第1回として、全体の構成と、第1章のヘンリー・シュー氏の「生計用排出と奢侈的排出」(奢侈のシは、実はこの字ではない旧字による記述ですが、変換できません)だけを取り上げます。それでも終わるかどうか。


C先生:このようなタイトルの本、要するに、「気候正義」という言葉がタイトルに含まれる哲学書が日本で出版されるとは思わなかった。なぜなら、パリ協定の「気候正義」は、もちろん、哲学的と言えばその通りなのだけれど、それ以上に非常に宗教的なにおいがするのだが、その哲学部分だけを切り離すことは可能だとは思うものの、なぜか、非常に「価値論」に偏りすぎるような気がしていたからだ。「価値論」は勿論、どのような対象についてもありうるのだけれど、「気候変動対応」は、「地球を守る」ということとほぼ同義だ。さらに詳しく記述して、「気候変動の要素である温室効果ガスという人工物の正と負の価値をどう見るか」という議論をしていると、「地球を守る」という単純な「気候正義のマインド」からどんどんと遠くなってしまうのではないか、となんとなく思っていたからだろうか。

A君:まずは、著者のスタンスを理解するために、ヘンリー・シュー氏の履歴からご紹介。この本には、著書しかでていないので、英文のWikiでチェックしたものです。
 Henry Shue(1940年生まれオックスフォード大学、マートンカレッジの政治学・国際関係論の名誉教授。その前は、コーネル大学のHutchinson Chaired Professor(倫理学とPublic Life)。
 著書・編著に、Climate Justiceというものが、2014年、2018年にあります。

 Wikiには記述されていないのですが、この本での主張を読むと、米国の温暖化対策に対して、厳しく批判をする学者の一人のようです。トランプ大統領に対して、どのような態度なのか、当然厳しいのだと思いますが、その記述が出てくれば、非常に楽しみ。

B君:最初に批判の対象になっているのが、残念ながらトランプ大統領ではなくて、クリントン大統領。実は、この論文が書かれたのは、宇佐美先生の序文にあるように、1993年だ

A君:なんだ、そうか。1993年ですか。1992年のリオのサミットの翌年ですね。これで地球環境問題の重要性、特に、気候変動の重要性が初めて一般に知られるようになった重要なイベント

B君:リオのサミット以前となると、1987年のブルントラント委員会の「持続可能な開発(Sustainable Development)」が国際的に共通の標語だった。色々な解釈はあるとは思うけれど、我々の認識としては、このときに問題になっていた非持続可能性の具体的な対象で最大のものは、石油ではなかったか

A君:それは恐らく明らかで、2006年ぐらいまで、石油は枯渇する、あるいは、枯渇まで行かなくても、良い油田の開発が不可能になって、石油価格が高騰する、すなわち、石油ショックが再現される可能性が高い、と考えられていた。

B君:ある意味で、1979〜1980年の石油ショックを引きずった認識に基づく議論が続いたという訳だ。石油ショックでは価格が7倍ぐらい上昇したので。

A君:そのため、このタイトル、生計用排出と奢侈用排出になっているとも考えられますね。要するに、ブルントラント委員会的な言い方をすれば、未来世代は、生計用の石油すら入手が難しくなるのに、現代世代は、贅沢=奢侈のために石油を使って良いのか。

B君:議論が、複数ある温室効果ガスのすべてを対象にするのか、あるいは、特定のガスに絞って議論すべきか、ということから始まるのも、その時代を反映したものと言えるだろう。

A君:それが、トマス・ドレネン対スチュアート&ウィーナーということですか。ドレネンは、恐らく二酸化炭素を主たる対象にすべきだと考えていた。

B君:そんな感じだ。ここから議論開始だ。
2.「国際的正義の枠組み」という章になる。

A君:まずは、正義がたった一つしかないのなら、話は簡単。しかし、様々な課題があるので、最低限、4つの問に分割して、議論を進めるべきだ。これが、シュー氏の最初の主張。
(1)いまだ回避可能な地球温暖化を防止する費用公正配分とは? 
(2)事実として回避可能でなくなるだろう地球温暖化の社会的諸帰結に対処する費用公正配分とは?
(3)どのような富の背景的配分であれば、国際交渉が公正なプロセスとなるようにしうるか?
(4)温室効果ガス排出量の(長期的な、また長期的配分への移行期の)公正配分とは何?

B君:短く表記すれば、気候変動の、A.防止のため、B.被害補填のため、C.国際交渉が公正に成立するため、D.長期的な公正のため、以上4項目の答えとなる「排出可能量の公正配分」とはどのようなものか? 

A君:同じ一つの公正配分のやり方が共通の回答になるとも思えないのですけどね。「正義と不正義」を考察すると一つの回答になるのでしょうかね。

B君:まあ、先に行くしかないのでは。

A君:了解。まずは、A.防止費用の公正配分から。この議論は、最初に確認すべきこととしているのが、大気中のCO濃度が上昇し続けていることは、南極の氷の中の泡の分析から証明されているという、共通認識を構成することから始まります。
 そして、2000年までにCO排出量を1990年レベルまで削減するとしたドイツなどの態度は、米国よりは良いとしています。しかし、1990年レベルといっても、ゼロという訳ではない、と厳しい指摘が来ます。

B君:それはその通りで、排出レベルを1990年レベルに維持できたとしても、当然、大気中のCO量は増えてしまうので、気温が安定化する訳ではない。

A君:こんな記述になっていますね。「自然のプロセスが地球表面温度を上昇させないようにCOを処理できるようり速いペースで、人間活動のプロセスはCOを追加してはならない」。まあ、その通りなのですが、自然プロセスがCOを処理するスピードは、非常に遅い。最終的に、CaCO3(=石灰岩)化すると処理完了なので。半減期は下手をすると万年オーダーであることが、現時点では推測されていますが、この論文が書かれた1993年当時には、まだ、それが分かっていなかった。

B君:いずれにしても、「1990年の排出水準に魅惑的なものなど何もない」と見事に切り捨てている。1990に戻ったとして、だから何なんだ!! なかなかの切れ味だ。

A君:その先に、こんな記述がありますね。「CO濃度を安定化するためには、1990年水準を60%以上下回るまで排出を削減しなければならない(Houthton他、1990)」。この引用論文の結論は、現時点では正しいとは言えないかもしれません。

B君:そうだな。パリ協定がNet Zero Emission=NZEを要求していることを、訳者の注として記述しておいて欲しいぐらいだ。

A君:そうですね。今世紀後半のどこかで実現するというのが、パリ協定の要求事項。しかし、昨年の10月8日に発表されたIPCCの1.5℃シナリオでは、2050年ごろでのNZE実現が条件だということになっていますが、これも、この本の出版が1月20日であれば、注を入れるのが間に合ったのでは。

B君:まあね。気候学者ではないから、仕方ないのかも。いずれにしても、記述されているように、排出量を安定化しても全く無意味であり、大幅に削減しなければならないということは、工業国にとって悪夢であると同時に、世界人口の大部分を占める国々では、CO排出を増加し続けるだろうという指摘がある。今となっては、この指摘は当たり前だけど、1993年時点では、当たり前とは言えなかったのだろう。その先駆性は認めよう。

A君:ここで、奢侈なる記述が出てきて、奢侈の中で暮らしている人が、絶望的な貧困の中で暮らしている人に排出量の削減を求めることができるか、という大問題が出てくる。この答は、Noであることは、国際社会では共通認識だと思うけれど、この1993年の段階では、気候変動問題の本質がまだ一般的知識として伝達されていなかったから、共通認識からは程遠かったと言えるので。

B君:となると、この議論はスキップ可能という結論にして良いのか。いや、そうでもないな。次にこんな記述があるから。
 「理論上は、経済成長は、温室効果ガスをもたらさない自然エネルギーと原子力で代替したエネルギーを供給することで実現できる」。表現は、かなり変えたけどね。

A君:しかし、「実際上、このエネルギー形態は実現できない」となっていますね。まあ、1993年にこれを「できる」と言ったら、それは異常ですけど。そして、中国の石炭の使用を容認するような記述になるのですが、これも現在の中国の経済力を考えると、全く妙な話に読めますね。実際、北京の大気の状態は良くなっていますし。やはり、現実の進化の方が早いようで。

B君:こんな前提での議論が進行し、結論としては、「世界のある一部が、排出量を増加しつつある他の一部よる増加よりも大きな量だけ削減することになる」。まあ、今では、当たり前の結論。これで、「A.防止費用の(公正な)配分」が終了。

A君:次が、「B.被害補填のため」。この課題での最初の記述が、「実は、すでにA.で検討した防止はできないから、被害補填の議論に行く」とあるけれど、確かに、その通り。1993年にこんな記述をできる度胸がすごいかもしれないですね。

B君:そして、この被害補填に対する間違った対応として、「各人が負担」、「成り行きを見よ」があるけれど、「これら二つは間違いだから考えない」、とスッパリ切るのだ。これは、その割り切りがすごい。実際、今となっては、その通りなので。

A君:ちょっと急いで、「C.公正な交渉へ」。その中身は、「資源の背景的な配分」とあるけど、この日本語の意味が理解できないですね。学術用語でしょうか。

B君:よく分からないね。英語では、推測に過ぎないが、What is the background allocation of resources(wealth)? ぐらいなのでは。「背景的」という言葉の使い方が日本語にはない使い方なのだろう。法学の世界ではあるのかもしれないけれど。まあ、「ある国を取り巻く様々な事情によって決まってしまった富の状況が、国同士の交渉における『正義』にどう影響するか」だと思って、解析を始めよう。

A君:一応、そうしますか。二つの国が交渉して何かを決めたとき、交渉の状況が最低限の標準を満たす場合以外は、その二つの国が満足する結果にはならない。もし、不公正なプロセスだったら、結果はダメ。といった記述がありますね。

B君:まあ、雰囲気としては分かるね。次に行こう。

A君:D.排出の配分−−移行と目標ですが、「長期的に公正な排出量の配分とは何か」ということですね。

B君:どうやら「最小限」というのがキーワードらしい。これが正義の第四の基準らしい。しかし、そのためには、何が最小限であるかを決めるということではなくて、究極的な目標を同定することがむしろ有効だということらしい。

A君:その最小限とは、少なくとも、その時点よりも排出量を削減するということだと主張していますね。1993年なら当然のことですね。パリ協定の時代となった現時点で、これで良いと信じる人がいてはいけない今は、NZEを目指す時代ですので。

B君:以上の4つの基準を満たした上で、交渉に臨むべきだという指摘は、現時点でも十分に成立するとは思う。しかし、現実に、その方向性なのか、といえば、トランプ大統領のような統治が行われてしまうと、地球が潰れる方向に向かっていることが確実だ。

A君:それが、トランプ大統領や保守党員の多くが信じるキリスト教福音派の最大の問題点。新約聖書・旧約聖書に書かれていること以外は信じないので。当然、地球では気候変動で人類が破滅するなどと聖書に書かれている訳はないので。

B君:もっとも、最近は、神が作った地球上に神が作った人類が住んでいるのだから、人類が地球の資源をどのように使っても、地球が異常状態になり人類が消滅することは無い、と主張しているようだけどね。

C先生:主要部分はカバーしたようだが、まだちょっと残っているね。

A君:「二つのさらなる問い」という記述がはじまりますね。それは、正義の理論では、「誰に」という問いにほとんどすべての注意を向けてしまって、「誰から」という問いを考えないこと。

B君:確かに。途上国になんらかの補償金のようなものが払われるとなったとしても、それを誰が払うのか、という議論はほとんどされたことがないな。
「二種類の答え」という記述になる。それは、支払者に関するものだということのようだ。なかなか理解が難しいが。

A君:公害関係だと「汚染者負担」の原則というのがありますが、「無過失」だったらどうするのか、これは、確かに問題になり得ます。例えば、気候変動については、その危険性が分かる以前の排出は「無過失」とすべきなのか。

B君:その同類として、農業生産のメタンと、工業生産にかかわるメタンの排出が同じなのか、という問題があるという指摘か。食料生産からのメタンは、ある程度、容認するしかないが、その根拠は完全に正しいのか。

A君:食料生産といっても、嗜好品の生産をしている場合だってある訳で、それは中身によるのでは。米、小麦、じゃがいもぐらいなら良しとするが、苺やマンゴーになったらどうなんだ。

B君:もう一つの要素が、自給生活かどうか。完全な自給生活をしている農家があったとして、最低限の作物しか作らない。しかも、嗜好品的な生産もしないとなったら、これによるメタンの排出は許容範囲内かもしれないということだ。

C先生:大体の問題意識は、良く分かった。しかし、この本は、文章が難しいね。特に、第一章は翻訳文なので、一層、読みにくい。むしろ英語をと思って原文を探したけれど、一部分しかダウンロード可能ではなかった。もしも、どなたか、完全にダウンロードできたときには、是非、その文章を簡単な日本語に翻訳していただきたい。
 まあ、こんなところ、イントロとしては十二分だろう。これから、どのようなロジックの展開になるのか、そして、どこまで本サイトの記事として紹介すべきなのか、それは、次回以降に検討してみないと、分からないね。これが本日の結語ということで。