-------

    「気候正義」が書名の本 その2  05.12.2019
       懐疑論に見る「科学」への理解不足



 前回に引き続き、「気候正義」宇佐美誠編著の第2章以降について、取り上げたいと思います。この本は、すでに「その1」でご紹介したように科研費(2014〜2016)の成果として発刊されたものです。文系の場合、科研費の成果というものがどのようなものになるのが望ましいのか、全く理解していませんが、少なくとも、気候変動という科学的な根拠を有する現象を対象とする場合には、議論をする時点における「科学的な根拠の正当性」がどのぐらいあるのか、といった議論が根底にあるべきだと思うのです。それには、最低限、一人の気候変動について知識のある自然科学者を、アドバイザー的に加えるべきだったのではないかと思います。
 そんなことを強く思ったのも、本日、重点的にご紹介するこの本の第4章、「未来世代に配慮すべきもう一つの理由 森村進」は、哲学者として気候変動のような問題に取り組むときに、そのスタンスがそれこそ「根底」から問われる記述で満ちていると思うのです。これが今回の議論の中心となります。
 ちなみに、この本の編著者の宇佐美誠先生は、この9月に行われるEcoLeadサマースクールに、講師としてご登壇いただけることになりました。ご期待下さい。


C先生:前回の記事では、第1章を紹介したけれど、それはヘンリー・シュー教授によって1993年に書かれたものだった。この時代、気候変動の自然科学は、まだ存在していなかったに等しい。理由は、「地球が大きすぎるから」だ。

A君:まさに、その通りですね。地球全体の気候を物理的に表現する数式としては、流体一般を扱うもので、ナビエ・ストークス方程式と呼ばれるものです。その基本はニュートン力学における運動の第2法則に相当するもので、運動量保存則そのものです。大変に複雑な式なのですが、解析的に解を求めることはできません。そこで使われるのが「数値シミュレーション」で、「数値流体力学」とも呼ばれます。ナビエ・ストークスの方程式だけでは不十分で、連続の式、エネルギーの式、状態方程式など、これらは、理学的な正当性がすでに認められている数式ですが、それらを組み合わせて、細かく分割された地球を対象として、数値的に解く方法です。これで、気温や空気の流れなどを長期間に渡って予測するのです。

B君:数値シミュレーションは、対象となる流体を多数の部分に分けて計算を進めるものなので、現時点では、スーパー・コンピュータが使われるが、ヘンリー・シュー教授がこの論文を書いた1993年におけるコンピュータと言えば、まだまだ能力は非常に低かった。すなわち、地球全体の数値シミュレーションは、ほぼ不可能だった。なんといっても、地球とは海、森林、砂漠、山岳地帯などなど、熱力学的に全く違う構造が細かく混じっているものなので、いくつものセルに分けて計算をしなければならない。

C先生:いわゆるスーパーコンピュータが無いと、地球全体の計算をすることなどはできなかった。気候シミュレーション専用スパコンとして、日本で最初に導入されたのが、2002年のことで、JAMSTECに入ったNEC製のSX−5ベースのシステム。41T(テラ)FLOPSの能力であった。2012年に2代目として導入されたのが、NEC SX−9Fで、その計算能力は、131TFLOPS。コンピュータの頭脳であるCPUは32個が使われていた。現時点では、やはりNEC製のスパコンであるが、5120ノード(1つのノード=4コアのCPUと64GBのメモリ)を搭載し、演算性能は1.3P(ペタ=1000テラ)FLOPSと300倍以上になった。まあ1993年というと、Windows95よりも前だから、推して知るべしなのだ。インターネットも先駆的な時代で、電子メールは有ったけど、他はまだまだといった状況。

A君:その後、京都議定書の時代(2008年まで)を経て、ちょっと中だるみ状態があったけれど、パリ協定で一気に、気候変動問題が人類共通の問題になった。

B君:しかし、どこの国でも若干似たような状況はあったけれど、日本という国は、一般社会における科学リテラシーが先進国の中では最低レベルなので、武田邦彦のような単純なウソにも騙されてしまった人が多数発生した。

A君:一般社会であれば、それでも仕方ないのですが、文系であっても、人文科学者、あるいは、社会科学者なのだから、自然科学的な結論に対しても、敬意を払うべきでしょうね。敬意は言い過ぎかな。結果を科学的に見たとき、どのぐらい合理性が高いかどうか、という認識をすべき、ぐらいの意味です。

B君:武田邦彦は化学系の企業人であったけれど、元々はプラスチックの自己修復などを研究していた。したがって、自分が書いた本が嘘に満ちていたことは、当然、分かっていた。しかし、わざわざそれを書いたのだ。あの手の本があれほど売れると、最初は思っていなかったのだと思うけれど、余りにも良い商売であったと同時に、一部に盲目的支持者も出現し、有名人として祭り上げられたために、あんな一生になってしまったのだろう。多くのメディアの自然科学理解力がゼロだったのが、もっとも残念だったことだ。

C先生:そろそろ本題に戻ろう。第4章の記述でもっとも問題なのは、何なのだ。

A君:まず、著者の基本的なスタンスの説明として、以下のようなことが書かれています。
 <現在世代の利己的な政策や天然資源の濫用や環境破壊によって、未来世代の人々を窮乏に追いやってはならない>という考慮は、人道主義というだけでなく、正義の名の下にも提唱できる。

B君:まあ、その通り。続きだ。ただし、未来世代に保障すべきものは、ある一定の福利であって、現代世代と同等あるいはそれ以上の福利でない、という説、これを「十分説」と呼ぶようなのだけれど、それを支持するとのこと。

A君:そのようなスタンスも、ある意味であり得る。さらに少々詳細に記述すれば、「十分」の内容は、「将来世代に保障されるべきものは、あれやこれや特定の資源ではなくて、暮らし向きの一定の水準である」と考えている。しかし、「『暮らし向き』をいかに理解すべきか、それ以上書かなかった」、としています。

B君:なるほど。これが、基本的な思考の基盤をなしているのか。地球上の人口は増加する傾向だが、人口が増えれば増えるほど、一人当たりの取り分は減るに決まっている、という考え方なのかもしれない。

A君:いや、それについては、「将来の世代の人口は一定である」を前提として議論をしていると書かれています。多分、人口が増えれば、一人当たりの取り分減るという考え方だと言えるのでは。

B君:気候変動の正義については、基本的思想はどのようなものなのだ。

A君:まず、「気候変動に関する未来の予測が特に難しいのではないか」、と決めつけていますね。その理由として、「科学者の間でも論争があるようだ」と記述しています。予測が正確だったら、困るからでしょうが。

B君:これは問題だ。確かに、「科学者にも気候変動懐疑派という異端が存在していた」のも事実。しかし、過去形だ。現時点ではほぼ消滅している。異端の大部分は、気候変動関連課題ばかりに研究費が行くのが気に入らない、という感情を持っていた人々で、自然科学系は研究費があって初めて研究ができるので、この思いは非常に強かったのだと思う。

A君:C先生みたいに研究費に困ることのなかった人は、恨まれますね。

C先生:確かに、必要最小限はあったな。

B君:しかも、C先生は、2003年に東大をプイと辞めた。定年までまだ年数があったのに。

C先生:国連大学と東大を自分の中に両存させることはしたくなかったからだ。私のように単純な頭脳構造の人間には、「複数の組織への忠誠」は、もともと難しいのだ。

A君:話を戻して、筆者が指摘するもう一つの気候変動の難しいところは、人類全体に同じように影響する訳ではないところ。例えば、寒冷地で生活が難しかった人は、それでメリットを得るかもしれない。恩恵が語られることが無いのはおかしい。すなわち、気候正義論は、世代間正義だけでなく、グローバル正義の問題でもある。

B君:哲学というのは、そういうものなのか。一般的な考え方であれば、メリットを得る人と困窮する人を1:1で考えることはしないのでは。当然、困窮する人に重点を置いて考える。これが環境学では基本中の基本だと思うのだけれど。それは、環境学が公害対策学からスタートしたからだというためではあるけれど。

A君:メリットはおこぼれとして取り扱うことで良いと思いますね。気候変動の場合には、デメリットが大部分なのだから。そして、最後の開き直りとして、次のような表現をしていますね。「私は気候問題の専門家でないから、地球温暖化論争について特定の科学的立場は取らないことも強調しておきたい」

B君:このような表現を記述すること自体が最悪で、自然科学に対する甚だしい誤解をしている証明だ。自然科学は哲学と違うので、勝負が明確に付いてしまう場合が99%なのだ。そのため「特定の科学的立場」などは、元々存在しないのだ。「正しい」か、「間違っている」か、「未知・未定状態」か、この3種類しかない。世界的に見れば、すでに、地球温暖化の予測可能性に関する論争は、2010年に「未定状態」も終わった。結論として、その時点で、温暖化否定論者はぶっ飛んで消えたのだ。世界的に見ると、わずかに残っていた懐疑論を最後に吹っ飛ばしたのが2015年のパリ協定だった。ただし、日本の中では、そんな感覚を持てなかったのは、「気候正義」という言葉を理解しようとしない人々が多かったからだろう。

A君:「気候正義」は日本人が理解するには難しすぎる語感がありますからね。そもそも、日本人は正義について語らない方が無難だと思っていますから。

B君:加えて、宗教的な背景が全く違う。日本の宗教の代表を大乗仏教だとすれば、「誰もが必ず救われる教義とはどのようなものなのか」、というある意味で、関係者が商業的な成功を目的とした解を探した結果が、現在の多様な仏教になったのだということでしょうから。

A君:この文章の次にある記述が、「なるほどこれでこそ哲学者」と言えそうなものです。ちょっと長くなりますが、ポイントをすべてピックアップします。
 まず、温暖化論争を以下の4点に分けています。ちょっと、記述は変更しましたが。
(1)地球は産業革命以後温暖化している。
(2)その最大の原因は、温室効果ガスの排出。
(3)温暖化が極度に進めば、人類は破滅的な事態にいたる。
(4)だから、二酸化炭素排出の大幅な削減といった対策が必要。

B君:すべて当たり前のことだ。すでに議論を要しない。もし、やるとしたら、この結論の不確実性を定量的に表現するとしたら、どのようなものになるか。これぐらい。それは、対応策を決定し、実施する際に、極めて重要な情報になりうるからだ。

A君:この本の執筆の最終段階で、新刊書「オックスフォード・ハンドブック 環境倫理学」を入手したらしいのですが、掲載されている48篇の論文の中に気候変動懐疑論あるいは否定論の議論は言及すらされていない、としていますが、その理由として、「反対者や懐疑論者に対しては、仮に自然科学者ではあっても、気候変動問題の専門家集団に属す者ではないとして無視するのが当然のように語る傾向がある」と述べています。

B君:この誤解は凄いね。「凄まじい」と表現した方が良いかもしれない。自然科学というものの成り立ちを全く分かっていない。反対者や懐疑論者は、科学的に十分な実力を持っていたのか? これが重要な質問で、その答えは、「そうでなかった」。だから「消えた」のだ。誤解についてさらに言えば、文系と理系の違いは実は、極めて大きいということ。さらに、哲学という学問はその中でも極めて特殊な体系のもので、他の学問、特に、自然科学とは学問体系・成り立ちが全く違うということ理解していない。いくら哲学者であっても、ここまでの自然科学音痴は恥ずかしいと思って欲しい。

A君:科学者で懐疑論者であった人物がどのような動機で、あのような発言をしたか、ということは、哲学者であれば、分かるはずなのですけどね。繰り返しですが、自分の研究分野の研究費が減るのが嫌だったから。

B君:哲学者には、このように現実的すぎる動機は分からないのも当然という解釈もありうるけど。一応、弁護したつもり。

A君:その次の記述で最低なことが起きるのです。それは、岡本裕一朗のあの著書、「いま世界の哲学者が考えていること」が引用されているのです。
 ちなみに、この本については、本サイトでも取り上げています。
 いまさら温暖化懐疑論か!? 04.07.2018
「いま世界の哲学者が考えていること」  岡本裕一郎氏の著書
http://www.yasuienv.net/BookOkamoto.htm

B君:ああ、あの人ね。ロンボルグという大物がデンマークにはいて、その後を追っているような感じ。しかし、ロンボルグと決定的に違うのは、科学性がゼロだということ。岡本氏がパリ協定の合意の後にこれを書くのは相当な確信犯。何を確信しているのか、というと、日本に残る温暖化懐疑論者の数を考えると、自分の本が売れると踏んだのでは。

A君:しかし、それも崩れたようですね。特に、TCFDなる組織が、国際的にできたのが、パリ協定が採択された2015年のCOP21でしたが、基本的に、各国の中央銀行総裁とか、財務大臣などが集まって、この組織を作ったので、各国の政府は、今や日本を含めて、当然ながら、CO大幅削減の方向に向いている。当然、企業もこれに右に倣え以外にやりようがなくなった。企業人であっても、温暖化懐疑論者は、もはや生存できなくなったのです。まあ、C先生は、「TCFDの要求は、中小企業には、一種の金銭的パワハラのように見える」と思っているようですが。

B君:先に進もう。もうすぐ終わるみたいだから。次のポイントは、この著者は、未来というものを特別視しないことが分かった。「(3)未来は別の国」という節で、未来割引率は無限であるべきだ、と記述している。すなわち、「遠い未来の世代」と呼ぶものの利益に何の重みも置くべきではない、と主張している。その理由が、ボズナーという人が述べていることだけれど、「公務員は道徳的理想ではなく、現実の選挙民の求めることを行わなければならないからだ」、を根拠としている。

A君:この考え方も極端ですね。まず、公務員の問題ではないのです。選挙民の見方も妙です。現在の日本の政治が情けないのは、このボズナーの考え方に近い政治家が多いから。より正確には、ポピュリズム政治家ですが。それに、「選挙民の要求は100%正しい」という仮定も変ですね。建前としてならあるかもしれませんが。自分勝手な要求をする選挙民の意向にばかり従っていたら、ポピュリズム政治ばかりが蔓延して、世界でときどき起きるような政治的な悲劇が、世界中で確実に発生してしまうでしょう。

B君:そもそも、表現も異常だ。矛盾しているように見える。「選挙民が何を要求しようが、それは100%正しい考え方だ、と仮定する」、と言うべきように思う。しかし、その仮定は正しく無いだろう、という反論をしたい。なぜなら、その要求の元となる情報を、すべての選挙民が把握しているとは言えないから。

A君:そうですね。しかし、逆に、選挙民=衆愚という仮定をしたら、公務員は務まらないかもしれない。しかし、公務員がすべてを決めるというものではないし、まして、哲学者が公務員である訳もない。国立大学のときには、教官は公務員だったけれど。哲学者の発想としては、この世の中をどのように理解し、どのように世の中を変えると、選挙民はより幸福になるか、といったものが含まれるはずなのだけれど、この根本的な発想法をこの著者は否定しているようにも見えますね。

B君:この著者の発想では、哲学者は、世の中を良くしようなどという発想を最初から持ってはいけないのだろう。哲学とは、物・人の本質を洞察する学問だと思うけれど、「世の中を良くしよう」など余分なことを考えたら、物・人の本質が見えなくなってしまう、ということが哲学界の一部には存在する常識の一つなのだろう。

A君:確かに。だからといって、哲学者が自然科学を理解しないでよいという理由はないですね。物・人のうちの人はともかくとして、物の本質を理解することは、自然科学の重要な役割ですから。しかも、物・人の本質に関しては、自然科学的な検討が行われなければ、真実には近づけないし。

B君:地球の仕組みも、地球は複雑系だから、物とは言えないかもしれないが、哲学の対象になることは否定できない。しかし、気候科学なるものがあって、その分野の中では、やはり、1+1=2に相当するような絶対的な約束事があるのも事実。一方、哲学にそのような約束事はあるのか。これが疑問。

A君:よく分からないですが、哲学に哲学者の誰もが認める絶対的真理はないのでしょう。それがあれば、もう考えなくて良いとなるから。これは、哲学者にとっては、まずいことでしょう。誰かが、「これ」は絶対的真理だと言っても、その「これ」に対して、さらに深い考察を行うことで、「絶対的真理」に近づくことができる。しかし、絶対的真理に完全に到達することは、ヒトの特性を考えると、不可能なのだ。これが哲学的アプローチなのでは。

B君:一方、自然科学の場合には、1+1=2は、真理ではなくて、約束事なので、これを疑うのなら、全く別の約束事を仮定して、それに基づく体系をゼロから作らなければならない

A君:気候変動の科学的結果は、やはり、1+1=2の約束に基づいて解明されたものなので、1+1=2の約束の延長線上にあるのです。だから、現時点で、温暖化懐疑論が無くなったのは、単に、それが科学的に間違っていたから。したがって、懐疑論の正当性について、もはや議論をする価値もない。しかし、哲学の分野では、そのような状況になることはなくて、誰かが何かを言えば、常にそれに反論できる。すなわち、自然科学と哲学の世界では、基本的な仮定、すなわち、基本的約束事という概念があるかどうか、が全く違う。これが、哲学者が自然科学を見るときに必要な理解なのでは。

C先生:確かに、そろそろ終わりにして良い結論になったようだ。自然科学の場合には、解析の正確さが問題になって、最初に取り組んだ当初の解析と現時点の解析とでは、誰もが認める正確さの進化があるのが普通だ。したがって、温暖化懐疑論は消滅したのだ。ところが、自然科学の枠組みが哲学とは違うということを理解していないと、問題をいつでも蒸し返す可能性がある、すなわち、哲学の形態と同一視してしまうというミスをしでかす。岡本裕一郎の温暖化懐疑論も、また、この森村進の議論も、自然科学というものが仮定している約束事の存在を十分に理解していないから、このようなことになってしまう。
 環境関係で問題になることは、すべて、裏には必ずなんらかの自然科学が存在していて、それは、ある部分については、その存在を事実として認めなければならないのだ。しかし、地球全体(生物を含む)と人間全体を考えなければならない学問体系なだけに、自然科学的な情報がすべて完備されているという状況を実現することは、実質的に不可能な分野でもある。となると、ある事象について、「自然科学的な確度」がどこまであるのか、ということが分かってからでないと、環境分野を哲学の対象として議論をすることは難しい。
 特に、気候変動問題は、開始当時と比較すると、解析結果の「確度」がほぼあらゆる対象について相当に高くなったのが現時点だ。だから、自然科学者の中で、懐疑論は速やかに消滅した。もともと、自分の研究費が気候変動課題に奪われるという反発から懐疑論ができていたことも、この状況に加味されて、現時点では、懐疑論は消滅したとも言える。
 哲学として、気候変動問題を含めて、環境問題を議論していただくのは、極めて有効だと思うので、是非やっていただきたい。しかし、自然科学というものの成り立ちを十二分に「哲学」してから、取り組んでいただきたい。