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   社会学者は気候変動をどう見るか 08.21.2016
       「気候変動政策の社会学」という書籍
               




 昭和堂というところから出版されたこの本の編著者は、長谷川公一、品田知美の両氏である。その一人長谷川先生からの著書が贈呈されたので、返礼のかわりに、書評を書くことにした。次に示す目次の通りである。

気候変動政策の社会学: 日本は変われるのか
単行本 2016/6/22
  長谷川 公一 (編著), 品田 知美 (編著) 2700円

目次
 第1章 世界の中の日本 ジェフリー・ブロードベント、佐藤圭一
 第2章 政策形成に関わるのは誰か 佐藤圭一
 第3章 メディアはどう扱ってきたか 池田和弘
 第4章 規制的政策はどう制度化されたのか 辰巳智行、中澤高師
 第5章 産業界の自主的取り組みという気候変動対策の意味 野澤敦史
 第6章 気候変動問題はいかに原子力と連結されたのか 品田知美
 第7章 温暖化懐疑論はどのように語られてきたのか 藤原文哉、喜多川進む
 第8章 日本は気候変動と戦っているのか 池田和弘
 第9章 脱炭素社会への転換を 長谷川公一



C先生:まずは、最初の第1章の記述にあるのだけれど、日本の政策に対して強い影響力があるのは省庁・審議会だというデータが出てくる。どうやら米国に比べても影響力が高いらしい。しかし、気候変動対策については、米国と比較するのはほとんど無意味だと思う。なぜならば、米国の気候変動の科学観は、キリスト教の一部の思想によって大きく歪められている。共和党の大統領候補の一人だったクルーズ氏は、その例だ。それに対して、日本の場合には、論理的な説明を自分で作り出せないという国民の特性があって、その意味では政策決定に対する国民の科学性が世界の先進国の中でも、最下位に位置するという統計もあるぐらい。
 いずれにしても、返礼のために、ここで書評を書くことにするけれど、果たして、褒める書評になるかどうか。

A君:審議会の進め方ですが、そこにどのような基礎的データが出てくるか、これが大きいですね。まあ信頼できると思われるようなデータが出てきて、それに基いて、今後の方向性が議論されるという、一応、論理的な形は取っていますね。一方、反原発派のように、先に結論があって、その結論のためならば、「ウソの真実」を創造するといった手段をとる団体が、その対極ですね。このような態度は、日本国民の「科学リテラシーの低さ」を最大限活用しようとするもので、ある意味で、日本国民を侮辱していると思うのですが。

B君:「ウソの真実」の例として典型的なものを上げないと、理解されないのでは。

A君:「カリウム40の自然放射線は、自然物であるゆえに無害」というのが典型ですか。高エネルギーの電磁波という意味で両方とも危険であって、自然物か人工物かという区別は何もないのです。

B君:そこまで言うと、いささか問題かもしれないが、例えば、エネルギー政策から原子力を取り除くことについては、特に、現時点で稼働している第三世代の原発については、早晩、そうなるだろう。第三世代は、エンリコ・フェルミが見出した熱中性子線による核分裂を利用しているのだけれど、そのために、マイナーアクチノイドという、使用済み核燃料の最終処分を非常に難しくしている同位体が生成してしまうという根本的な欠陥がある。これを防止するには、高速中性子を使うことで、マイナーアクチノイドの生成を止めるという方法があるのだけれど、現状の日本には、このような第四世代あるいは第五世代と呼ばれる新しい炉を作る開発力は無い。第四世代になって、初めて本物の安全性が実現できる、となるのだが、現状でも溜まる一方の使用済み核燃料を処理するためにどうしても必要なことが、その処理のための高速減容炉のような設備、まあ、1990年代に発生したゴミの埋め立てを回避するための高性能な焼却工場のような性格になってしまうけれど、これを新たに開発する以外に、方法はないのかもしれない。しかし、反原発派は、このような具体策を一切考えない。

A君:気候変動についても、2050年頃、製鉄とセメント製造で、排出許容量である20%を使ってしまうので、それ以外のエネルギーは、電力か水素になっているということすら、この本の著者の一部は分かっていないように思えるのです。この説明は実に簡単で、化石燃料の直接燃焼には、そこで発生するCO2を処理することができないと許容しがたい。したがって、分散型の化石燃料使用は、全部ダメ。自動車もダメ、家庭の灯油もダメ、事業所のガスもダメ。

B君:エネルギー供給の長期的な全体像をイメージするのは、実は、非常に難しい。特に、そのリスクと絡めて議論をしようとすると、大体4つの要素、よく言われる安全S+3つのE(Energy Security、Economic Efficiency、Environment)があって、多目的関数系ということになる。このバランスを考えることが必須なので、どのように情報を整理し、論理的な議論を進めるべきかということを理解するだけでも、非常に難しいのだ。そうでなくても、日本人はリスク対応が世界的に特殊であることは、在日米国大使だったライシャワー大使が、「タイフーンメンタリティー」という言葉で、この自然災害だらけの国の国民性を表現した。

A君:要するに、天災に対しては、「諦め」と「忘却」をツールにして対応するしか方法がないので、そうなってしまう。

B君:しかし、こと「人災」になると、「穢れ」という言葉がピッタリくるような反応になる。福島第一原発事故は、すべての事故調が「人災」であると判定している。本来であれば、「人災」なのだから、「人」が考え方を変えれば改善はできるはずなのだけれど、その「人」が「穢れ」ていた人たちであったために、その設備そのものの「穢れ」てしまった。「人」が全員変わらないかぎり、あるいは、その「企業」が消えない限り、「穢れは消えない」

A君:しかも、その「穢れ」は「同類」の機器すべてに対して伝染してしまうのですよね。

B君:実は、誰もが「穢れ」という言葉は決して使わないのだけれど、その最大の特徴は、一旦、「穢れ」でしまうと、決してこの「穢れ」が取れることはないということなのだ。全く新しい名前の機器にならない限り、あるいは、それまでとは全く違う社会的必要性が認識されないかぎり、「通常」の取り扱いを受けることはない。

A君:しかし、まだ一般社会は認識をしていないのですが、「パリ協定」は、これまでの地球温暖化を超えた、人類の生存を掛けた大転換へのチャレンジです。この大転換の実現ができないと、それこそ、東京の下町、大手町、銀座、築地などはすべて海面下になって、太田道灌が作った江戸城が、海を見下ろす高台に建っていた状態に戻る。

B君:ヨーロッパのように、なんとかなる、という主張もしばしばされる。ヨーロッパ最大の武器は、国を超えた強力な電力網。日本という国の地政学的な特殊性とエネルギーというものの本質を理解するための知識は、現在の日本で行われている社会科教育や理科教育の延長線上にはないので、理解されていないかも知れないのですが、全く不可能なことは自明です。

A君:そういえば、C先生の東工大社会人コースの教材の最後の課題ですが、エネルギーの未来像は課題として難しすぎるので、水道の未来像を書けというものでしたね。現在、地方公共団体が主として提供している水道ですが、民間企業が運営主体になったとき、どのような問題が起きるだろうか。水利権のようなものの変化などを想像して書け。

B君:世の中に存在する意識の内で、もっとも危険なことが、「現在、原発なしでもなんとかなっている」、という意識。それはその通りで、化石燃料を大量に輸入して、バンバン燃やしてCO2を出しても良いのなら、今のままで行けると思ってしまうのも、致し方ない。

A君:化石燃料を大量の自然エネルギーで置き換えたとき、「電力の同時同量」という大原則、すなわち、いつでも使用量と発電量が同じでなければならないという電力供給の条件を満たすのは、大変難しい。なぜこんなことが実現できているのかという不思議な現実を理解しなければならない。

B君:今、ある家庭でIHヒータのスイッチをONにした。3.5kWぐらいの消費電力。かなり大きい。昼時とか夕方になれば、近所を含めて、何軒か同時にスイッチが入る可能性が高い。そのとき、どこかから「消費電力が上がっていますよ」、という信号がでて、そして、火力発電所が「分かった、発電量を増やせ」といって増やすのでは、実は、間に合わない

A君:それがうまく行くのは、実は、水力とか蒸気タービンと発電機の組み合わせがあるから。発電機の中では、非常に重たいものが、グルグルと回っている。電気が足らないということは、発電機の出力電圧が下がり、そうなると発電機を回すことが重たくなるので、回転数も落ちようとするのだけれど、非常に重いものが回っている慣性力のお陰で、なんとか持ちこたえる。回転数は、すなわち、電気の周波数なので、極めて精度良く測定が可能。周波数の低下を検知したら、蒸気タービンに供給する蒸気量を増やす。これでなんとか同時同量ということが実現できている。

B君:ところが、太陽電池の場合、いきなり雲が太陽を隠すと、発電量が瞬間的に下がってしまう。発電機として同時同量を実現する仕組みがどこにもない。風力発電であれば、多少はマシではあるけれど、慣性力が利く形態の羽根を回している訳ではないので、やはり発電量がゆらぐ。同時同量を実現するのは難しい。そして、その最終結末は、ブラックアウト=大停電だ。

A君:東日本大震災以後、大規模な停電が起きなかったのは、単なる偶然だ。いつ起きても不思議ではなかった。

B君:特に、関西電力圏内はかなり危なかった。なんとか余力を保とうとして、もう寿命が来ているような発電所を再稼働して対応していた。何かが起きて、その連鎖で、次の事故が起きたらアウトだったのだけれど、実際にはなんとかセーフだった。

A君:関西電力は、なんとかもった、ということで喜んでいるようだけれど、これで、日本国民に電力システムなどは、「電力会社が危ない危ないというのはウソだ。もともと安定なものなのだ」、という誤解を与えてしまった。

B君:実際に大停電が起きると、東日本大震災直後では、まだ病院などの非常用電源の整備が充分ではなかったので、大停電による死者がでてしまった可能性が高かったのだ。

A君:現実にそうなると、電力会社だけが攻撃されるという構図か。それも市民のマインドの一部だったかもしれない。

B君:電力会社は、もっと危ない危ないと言うべきだという主張は、もしもそれで何も起きないと、オオカミ少年と言われてしまって信頼を失う、という反応だった。

A君:正に危なかったのですが、今後、再生可能エネルギーの導入量は増やさざるをえないので、停電がいつおきても不思議ではない社会になる可能性が高いことを意味します。そのため、どこかに電気を貯める装置を設置することが必要不可欠になる。電力供給側がその装置を運用するのか、あるいは、消費サイドがその蓄電装置を運用するのかによって、制度は全く違ったものになるけれど、もし、すべての家庭で、自分のところで小規模な発電設備+蓄電装置を持つことになったら、100万円程度投資が不可欠になるだろうと思いますね。

B君:何を信じるかだけど、電力関係の本については、その記述を見たとき、省エネと自然エネルギーだけで気候変動対策が充分に行けると書いてある本は、素人の主張だと思えば良くて、実際には、すべての家庭に多額の投資を強要していると判断すべきなのだ。それが絶対に悪いということではなくて、本当にそういう政策にしなければならないかもしれないのだけど。まあ、著者のスタンスはいつでも問題だ。

A君:どういうスタンスで著書を書いているのか、という意味では、第6章は大問題ですね。どうも、官僚主義が最大の敵であるような書き方です。特に、反官僚主義で温暖化懐疑論の著書を売りまくった武田邦彦だけでなく、同じく反官僚主義の著者、あの広瀬隆を擁護しているようにも読める。

B君:広瀬隆の本を正当に評価するのは、かなり難しい。なぜなら、どこまで事実に基いて書かれているのか、ということを検証するのが難しいから。
 一方、官僚主義だと言ってしまえばそれまでだけれど、一応、科学的に意味のあるデータはすべて集め、そして開示して、それに基づく議論が例えセレモニー的であっても行われるという審議会を全否定してしまったら、この国の将来は、一体、どうなると考えているのだろうか。それこそ、反原発のためなら科学的ウソは正当化されるという一派と同じ世界になってしまう。

A君:一方で、原子力村の住民は、かなりの固定観念を持っていて、そのうち、国民は困ってくるから、原子力発電所のリプレースも可能になると思っているのかもしれない。しかし、今後共、廃棄物処理の点で未完成技術である第3世代の原発に依存することは、人類史的にみても、正しいとは言い難い。

B君:個人的には、日本が今の3世代原発に過大に依存することは日本人という国民性を考えると危険だと思っている。各国の気候変動を考えたエネルギー政策が大体明らかになっているけれど、韓国、中国は、やはり原発依存型になるだろう。ロシアは、自国のエネルギーは当面は天然ガスで、原発は、他の国への輸出用だと考えていると思うが、長期的にはやはり原発になるのではないか。

A君:ということは、韓国・中国には大量の原発が、しかも、日本側の海岸線にずらずらと並ぶ可能性が高いことを意味しますね。

B君:そして、原発だって、100%安全ということは無いので、いつか、なんらかの事故を起こすだろう。そうなったとき、日本人の感覚から言えば、その事故の内容をしっかり吟味してリスクの大小を比較するといったマインドではないので、日本国内で動いている原発も同じなのだから、即時停止すべきだ、という極端な意見に対して反対ができない。

A君:それはそうでしょうね。反原発ありきの人は、単に危ないからという理由で押し切るでしょうね。それを押し返すには、「どのぐらい危ないのか」、ということが理解できるだけの、それなりの科学リテラシーが不可欠で、それは一般的日本人では期待薄。

B君:よって、「日本の原発は、中国・韓国の原発事故で止まる」

A君:そして、再稼働には非常に長い時間が掛かる。これは、原子力がこの国では、かなりリスクの大きい発電設備であるということを意味する。要するに、国民性に合わないとも言えるのでしょうね。

B君:他方、すべてを自然エネルギーにするという主張は、この国のように、極東の孤島であって、大陸への送電線を張ることの政治的な妥当性が見いだせない状況では、すべてを不安定な自然エネルギーによる電力にするのは難しい。

A君:ヨーロッパのような多くの国を結ぶ電力網の構築ができないのが、日本の現在の状況。

B君:この大陸への送電線を構築するのかしないのか、という議論が、気候変動政策の社会学としても非常に大きなテーマだと思う。各人がどう思うか。なぜそう思うのか、などなどの議論が必要不可欠だと思う。

A君:2050年には、鉄鋼業、セメント産業を除くと、化石燃料はほとんど使っていない。自動車用にもまず回らない。となると、国内産の電力と、輸入できるのは水素ぐらいで賄う必要がある。

B君:だから、大陸との送電線を作る方向なのか、それとも、やはり回避すべきなのか、といった議論が必要不可欠だという結論になるのだ。

A君:ということは、そのような議論を追加した形で、本書の第二版を作って貰いたいと思いますね。それは社会学ではなくて、政治学だと言われる可能性が高いだろうけれど。

C先生:社会学というものは何か。これは、いつでも気になっていることなのだ。社会学の本のいずれもが、どうも反官僚主義のように読めてしまうのだ。場合によると、反経済界とも言えるが。世界的に見て、社会学というものがそうだとは思わないが、その主張が先に出ていて、そのための理屈が後付になっていると思うと、ページが先に進まなくなる。
 さらに若干追加すれば、社会学という学問は、どちらかというと、社会の過去の動きを解析するという方向が強い。このような性格上仕方がないのかもしれないが、パリ協定を前提とすれば、もっと様々な未来指向の記述が見られても良いと思われる。例えば、パリ協定で2℃だけでなく、1.5℃にも言及されたのは、島嶼諸国などでの海面上昇のリスクの大きさを認識していたからである。すでに、今回も議論されたように、想定される海面上昇は、約7mである。東京で言えば、皇居の近傍まで海面下になる。それが例え数100年後に起きるとしても、どのような責任感をもって、現世代はこれに対処すべきだと考えるのか、これが社会学の本質のように思える。いずれにしても、この大問題に直面して、社会学が変わるのか、変わらないのか、大変に興味がある。寄贈さらた本のタイトルは、「気候変動政策の社会学: 日本は変われるのか」であったが、「気候変動政策の社会学:日本の社会学は変われるのか」ということに興味があるということだ。