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  3.11で変わった価値観   05.01.2011 

      V後藤新平 基本思想を考える



 これで50日が経過した。東京の空を見ている限りでは、何も変わっていないようにも思える。しかし、3.11直後に、心の底で蠢く大きく重い塊ができて、徐々に、形になってきたことは紛れもない事実である。

 その塊には発声機能があり、「やはり根本的に変えなければならないのではないか」、とはじめから叫んでいた。しかし、原発とか津波災害の復旧とか、目前に大きなブラインドが下がっていて遠くが見えないような状況で、先を見通す知的な作業をする妨げになっていた。


一体、何を変えなければならないのだろう

 それには、3.11以前、日本を覆っていた閉塞感の最大の原因は何だったのだろうか。この原因を明らかにする必要がある。そして、それを打ち破るために、変えなければならないのだ。

 この答えは簡単に見える。一言で言えば、「エゴ」・「過信」では無かったか。今の自分だけ、あるいは、自分達だけが良ければ良い、しかも、それができる、という考え方であったと思う。

 そのエゴも、自らの経済的・政治的なメリットという極めて直裁的なことだけが重視されたエゴであった。また、現体制を維持するためのエゴ、すなわち、既得権の継続というエゴであった。

 それと同時に、金持ち・力持ちが経済的・政治的に見せる頭ごなしの所作も、非常に嫌なエゴに見えた。

 これらを変えなければならなかった。エゴ思想の基本には何が有るのか。「頭ごなし」の所作には、自らの力の「過信」がある。その割には、お金を持った株主、投票権をもち、納税者である選挙民にはペコペコする。

 「企業は株主のものだ」。これはある程度正しい。しかし、株主は明日にでも株主でなくなることができる。しかし、社員はそうはいかない。企業の寿命も長い。

 長期保有の株主のみを優遇すること仕組を作らないと、少なくとも長期的な投資戦略が必要な製造業は持たない。

 短期的な利益を上げようとすれば、リストラとコストカットを行うのがもっとも簡単である。これだけをやるのなら、社長に才能などはいらない。

 無能な社長にとって、「企業は株主のものだ」という考え方は、自己防衛のために大変便利なものだったのだ。

 選挙民については、20年程度の長期的な視点から、何が共通の利益なのか、この議論をすることが必要だった。

 選挙制度を変える必要がある。「やはり2票制にして、1票は今の貴方のために、もう一票は20年後の日本のために」。2年前のエイプリル・フール以来、そう主張している。

 この制度を導入すると、もっとも変わることが、政治家は20年後の公約を述べなければならなくなることである。

 このようなエゴは、どのような発想が基本になっているのだろうか。それは、恐らく、「コスト偏重」、「効率主義」、「力任せ」、「短期的」、「視野狭窄」、「硬直性」、「既得権維持」、などなどであろうか。

 「過信」については、権力をもつことがいかに危険なことであるかを再認識した、ということだけにしておきたい。

 今回の大地震と津波という自然の力に直面すれば、その「過信」は本来ならば揺らぎ、崩れ落ちたはずなのだが。


 結論:「エゴ」・「過信」に付随する基本的な発想を多少なりとも変えるということが基本的な方向性である。


「東日本大震災+原発暴走」

 そこに、3.11大震災+原発暴走の事態である。

 大震災、特に、大津波がもたらした教訓は、「いくら高い津波でも、完全な防潮堤を築けば、制御できる」、、、、、ことはなかった。完全制御は単なる幻想であった。

 自然の力は、人間の力をときに完璧に上回る。台風などでもその力を見せつけられることはあるが、やはり、インドネシア、四川、ハイチ、東日本と続いた大地震は、やはり人間の力を遥かに超える力を見せつけた。

 次はフィリピンか?? あるいはチリか?? それとも東京か????

 いやな冗談は別にして、これまでの思想、「自然を征服し支配する」には「過信」がある。それなら一体、何に切り替えれば良いのだろうか。

 ここでの提案は、「共存・適応:単一・巨大から分散・冗長へ」である。追加として、その実現には、「リスクの適正な定量化のスキルが必須」。


「対地球(含む津波)  適応・共存:単一・巨大から分散・冗長へ」

 「答え」はかなりシンプルである。地球と「共存し適応する」以外には無さそうである。共存するということは、敢えて正面から戦わないことではあるが、同時に、逃げ出さないということを含む。

 これを認めるとして、どうやったら具体的な対応ができるのだろうか。その答えも比較的シンプルで、「単一・巨大から分散・冗長へ」という対応になるのではないか。

 宮古市田老地域の防潮堤は「単一・巨大」であったが、この1枚で町を守ることはできず、もろくも敗れた。

 現在、バーチャル後藤新平で提案している津波受け流し型街区の思想は、「共存しかつ適応する」策である。しかも、海岸に高潮などを対象とし、通常の高さの津波には対応できる防潮堤、防潮林、そして、住居は受け流し型、という分散・冗長性を持たせたい。

 先日、新聞に報道された復興案、すなわち、「漁村であっても、高台に住んで、車で漁港に通う」という考え方は、どうも逃避的な思想のように見える。しかも、安全性が確保されている訳でもない。


図:朝日新聞(4月28日か?)からの引用図


図:本HPでの提案「漁業主力型」を若干変更。学校は高台に、また、住居近くに高齢者用農地。津波受け流し型街区のコンセプトは変わっていない。住宅は3階の空中回廊で連結し、バリアフリー化も同時に行われている。

 今回も主張しているが、2050年には、引退年齢が78歳になる。労働人口が不足してしまうために、その年まである程度自分で稼がないと、社会保障なども成立しないからである。

 朝日に掲載された宮城県の設計事務所による提案のように、高台と海との中間の高度に農地を置いて、そこまで車で通い、農作業をやるという考え方は、高齢者向けではないように思える。そもそも万一のときに逃げられない。

 農地と居住地、漁港と居住地は、近い将来、高齢者が重要な労働力を提供していることを考えると、やはり近接していることが条件なのではないか。

 すなわち、「時の流れを十分に読み込んだ基本思想」を作るべきである。


「対原発 単一・巨大から分散・冗長へ」

 福島第一にある原発は、「単一・巨大」思想の典型であった。しかも悪いことに、「単一・巨大」思想の産物を、6基も単一地点に集中してしまった。一旦ある地域が原発を認めると、その後起きることとしてやむを得ないことではあったのだろうが、最大の誤謬でもあった。

 なぜ単一・巨大思想が蔓延ったのか。これは、明らかに経済的なエゴが原因だった。単一・巨大にすることによって、コストカットが可能になる。これは、現在の大量生産システムに置いては真実である。電力についても、やはり真実である。

 加えて原発の場合には、遠い将来になるかもしれないが、絶対に必要な最終処分のコストを本当に計算に入れていたのかどうか疑わしい。エゴを追求するときには、「自らの責任ではない」として長期的な視点を意図的に失うことが、最良の対処法だからである。

 今回、東北において生産されている工業用品が不足している。これも実は、ごく通常の生産財も、「単一・巨大」にすることによって、利益を出せる構造にするという思想が招いた事態である。

 そして、「単一・巨大」にすることによって、様々なリスクが発生することは、無視されてきた。

 「単一・巨大」に対して、「分散・冗長」で対応することは、正解である。しかし、副作用がでる。それがコストの上昇であり、プロフィットの減少である。

 しかし、ある程度のコストの上昇は、「分散・冗長」によって得られるベネフィット、すなわち、安全保障の質的向上との見合いで、受け入れるか、受け入れないかが決まる。

 「分散・冗長」をもっとも組み込まなければならない分野が、エネルギー供給分野である。これは、次週用として現在準備中である。


「対『想定外』:短期リスクから定量的リスクへ」

 もう一つ、極めて重要なポイントがある。それが、リスクといかに付き合うべきかということである。

 リスクと付き合うには、2つのポイントがあると思われる。
(1)リスク評価のスキル獲得
(2)リスクゼロ思想から離脱

 福島第一の1号機は、1971年から稼働している。すでに40年である。もう完全引退してもよい年頃である。

 このところ、年金生活をしている高齢者を安く使うのは、コストカットの常識である。そのため、年金生活年齢の原発の老骨に鞭打って酷使していたら、今回の事態になった。

 東京電力も、津波のことは気にしていたようである。福島第一に危害を及ぼすような津波の発生確率は、今後50年間で10%と評価していたようである。

 もしも、現在の社長が50年後も社長であると思えば、なんらかの対応をしたに違いない。しかし、将来のリスクを割り引いてしまうのが、利益を生み出すコツでもある。

 もしも今回の事故が無かったとしたら、50年後には、いやいや10年後には1号機は絶対に引退している。当然、現社長としては、なんらかの追加投資をすることは、自らの業績に好んでマイナス点を付けるようなものである。

 当然、1号機に投資をすることは意図的に避けたのだろう。それなら、社長自身が早く引退すべきであった。

 本来あるべきシステムを考えると、社長への功労金などは、退職時に支払うべきではないのである。10年後に社長をやっている人が、10年前の社長が何をやったかを評価し、それによって、功労金を支払うべきである。

 それなら、想定外の津波が起きる可能性をどのように判断すべきなのか。東京電力のリスクというものは、津波であれば、(被害金額+補償金額)×発生確率である。

 そして、比較すべきは、そのリスクを回避するために必要な投資額であろう。

 今回の原発事故による補償金額を4兆円とする。50年以内に想定外の津波が起きる確率を10%とすると、4000億円。それを50年間に均等に割り振れば、年間80億円である。

 ところが、リスクというものは、最悪のエンドポイントというものを考慮しなければ、正しい判断はできない。すなわち、確率は10%であっても、もし起きてしまえば、4兆円を支払うことになる。

 東京電力の平成21年度決算によれば、売上が4兆8千億円。純利益が単独では1023億円である。4兆円とは、40年分の利益に相当する。

 東京電力の固定資産は、29兆円である。しかし、減価償却をすでに21兆円程度行っているので、正味資産は8.5兆円程度である。

 4兆円の支払いを迫られるようなリスクは、とても東電の規模をもってしても対応できるものとは思われない。となると、このような巨大なリスクに対しては、10倍程度の割増を考えるべきだったのではないか。すなわち、年間800億円のリスクを背負って、仕事をしているようなものだったからである。

 しかも、リスクの性格から言って、10年後には、リスクは25%アップし、25年後には、リスクは50%アップする。

 中越沖地震のときに、柏崎刈羽原発で痛い目をみた経験を活かすという発想に立ち、福島第一の1号機、2号機ぐらいは、早く止める決断をすべきだったのではないか。さらに、3号機、4号機も、想定外の電源喪失を避けるための投資をすべきではなかったか。

 投資金額は、関西電力が総額1000億円程度の原発暴走リスク対策を行ったようなので、同程度の金額で済んだのではないだろうか。



次回に「エネルギー供給政策」を。

 「単一・巨大」から「分散・冗長」がもっとも必要なこと。それがエネルギー供給政策だろう。

 日本人の特性として、「0か100か」、というものがある。今回見られる様々な反応も、多くが余りにも条件反射的である。さらに言えば、感情的になるか沈黙するかの二者択一しか行われていない。すなわち、冷静な検討がない。大脳を使っていない。

 今回の原発事故は確かに未曾有のものである。だからといって、すぐに風力だ、太陽だ、海洋だ、ということにはならない。地熱と中小水力に着手することは現時点でも可能だが、風力をどこにどのぐらいの規模で入れるか、太陽光をどう進めるか、太陽熱発電もやるのか、さらには、天然ガス供給網と電力供給網との共存はどのようにすべきか。将来の機器の発展を予測した上で、どのような分散型が適切なのか。もっとも重要な省エネにしても、何年後にどこまで可能なのか、などなどを決めてから、電力網の再構築をすべきなのだ。

 さらに、これはかなり長期的な検討になるだろうが、化石燃料後のエネルギー源は、自然エネルギーだけなのか。リスクが極限まで低い分散型の原発などというものがあるのか。しかし、ウランの資源にも限界があるから、ほとんど意味を持たないのか。このようなことも最初から危険だと決め付けたゼロ査定ではなく、議論をすべきである。

 要するに、まず、様々な準備をしつつ、徐々に切り替える以外に方法はない。 どんな順番でやることになるのかを、議論すべきなのである。

 やはり、それには、基本方針を、まず、共有すべきだと思われる。