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メディアは「安全」を報道できるか 03.05.2005
03.07追加 |
| | 3月2日の午後、化学物質円卓会議が開催された。今回のテーマは、「メディアにおける化学物質問題の取り上げ方について」というものであった。 C先生:化学物質円卓会議が何か、については、環境省のHPをまず、ご覧下さい。毎回、かなり多数の傍聴者が来るのが特徴。 今回は、第13回で、配布された資料も公開されている。 A君:まず、小出さんの発表から見ましょうか。皆様も、上記URLから、小出さんの配布資料をご覧になりながら、お読み下さい。 B君:A君は、出席したのか。 A君:一応、業務の一部ということで、出席させてもらいました。 C先生:この円卓会議の面白いところは、配布資料がすべて公開されるだけでなく、多少時間は掛かるが、しゃべったことがすべて議事録になって公開されるところ。議事録も、上記URLから見ることが可能だ。 A君:さて、まず、小出さんの発表です。この円卓会議では、だれもが「さん」付けで呼ばれます。社会的なポジションを背負っての発言ではなくて、個人の資格での発言をすることがルールだからでしょう。 B君:ここまでの話を聞いても、何が言いたいのか不明だな。情報伝達ということについて、社会一般が進歩したことを言いたいのか、それとも、輸送業を代表として取り上げているが、一般に企業というものが、一般市民に対して、情報の伝達が重要であることをより真剣に考え始めているということだろうか。 C先生:このたとえ話の真意については、実は、良く分からなかった。恐らく、こういうことだろう、という想像はした。車掌が情報を修正しながら、伝達するというところに意味を見出したのではないか。自信は無いが。 A君:ということで次に行きます。式が出てきます。 Facts:情報の量と質 B君:これも難しい。特に、Ethicsがどうして、相対性理論と関係するのか、良く分からない。 C先生:どうも、Ethicsに関して、深い意味があるとも思えなかった。重要なのは、すべてが掛け算であること。すなわち、どの一つの項目が欠落しても、Risk Communicationはゼロになってしまうということのようだった。 B君:common senseは兎に角として、どうしてchoiceがEthicsに入るか、といったことは余り考えなくて良いということですかね。 A君:次のスライドが、そのcommon
senseの説明ですね。 B君:これが常識か。やはり、我々の常識とは大幅に異なる。多少書き換えてみるか。 A君:個人的には、化学物質の常識とは、この5項目だけでは充分ではないと思う。毎回言っていることをまとめると、次の項目を追加するべきなのでは。 (6)物質が毒になるかどうか、それは、摂取量によって決まる。 A君:ということは、先ほど(6)〜(14)に上げたことは、常識という同じ日本語では括られても、英語で言えば、Literacyといった訳語になりますね。 B君:小出氏のCommon Senseが常識であるとしたら、それは報道を出す側の話。A君のLiteracyはその報道を受ける側の話。 A君:受け手だけでなくて、報道を実際に行う側にも、(6)〜(14)のようなLiteracyが無いと、偏った報道になると思うのですよ。 B君:それは我々側の理屈であって、NHKのような報道をする側にとっては、社会の常識と合致した情報だけを流すことが、自己防衛のためにはもっとも有効な方策であることに間違いは無い。 C先生:我々の立場は、「メディアは真実を伝えるべきだ」ということなのだが、公共放送などは、まず、何が真実かは良く分からないと考える。そして、自らの常識に照らして、その範囲内で報道を行う。こんな解釈も可能で、これがその機関のスタンスだということになのだろう。 A君:なるほど。 B君:そのNHKの報道のスタンスというものだが、化学物質関係の場合には、「あまり文句を言われない」ということが判断の基準の一部に組み込まれている。すなわち、「行政と専門家を攻撃しておくのが無難」というスタンスが組み込まれている。 A君:企業を攻撃すると、結構反撃が来るでしょうからね。本来、NHKは、国民の受信料で運営しているのだから、企業の「不法ではないが不合理な行動」を指弾することを自らの判断でもっと行えばよいと思うのですが。 C先生:まあ色々と言いたいことはあるようだが、小出さん個人の考え方かNHKの考え方か、そのは定かではないが、リスク・コミュニケーションの範囲内に、市民のリテラシーを高めるという考え方が無いことが最大の特徴だと言えるだろう。 A君:ということは、いつまでたっても「染み付いた常識」から市民は離脱できない。 B君:それは、メディアの責任ではない。これがNHKの立場なんだ。 C先生:ただ、それでは、いつでも「染み付いた常識」の範囲内でしか報道が出来なくなってしまう。それはそれで困る。そこで、次のスライドの意味が出てくる。 A君:「メディアの特徴」というものですね。 B君:すべてが分かってから発信するのでは、確かに情報が遅れる。新しい事件も確かに起きる。だから、未完成状態で伝達されることは確かに避けがたい。しかし、しかし、市民社会に「染み付いた常識」があると思えば、それを取り除くこともメディア全体としては、義務なのではないか。 A君:新聞はときどき、そんな特集を組むのですが、テレビでは難しいということでしょうか。 B君:例えば、アンケートを取ると、未だにダイオキシンのリスクが、環境・健康関係で最大の問題であるという結果が得られる。いくらなんでも、現時点でそれは無いだろう。これはテレビが作った思い込みなんだから、テレビが自分自身の責任で解消するということは考えられないのだろうか。 C先生:実は、そんなことを小出さんに質問した。詳しくは、そのうち公開される議事録を参照されたいが、こんな質問をしたつもり。 A君:聞いていましたが、回答は、こんなものだったのではないでしょうか。まず、ダイオキシンが最大のリスクであるという感覚は、市民感覚として妥当なものである。最近、ある特定の書店が特定の学者のダイオキシン本を発行し、それがある程度売れているものだから、メディアとしては、ダイオキシンが危険だという指摘がやりにくい状況にある。 B君:渡辺正先生の、「ダイオキシンの終焉」、日本評論社を意味するのだろう。ただ、ダイオキシンについて「染み付いた常識」が健全だという理解は、いかがなものか。 A君:本当に。あの本がそういう見方がされているとは驚きですね。我々も渡辺先生の主張に全面的同意という訳ではないですが、まあ、「染み付いた常識」の修正過程でこんな本が出版されることは大いに意味があるという見解。 C先生:もう一つ質問した。もしも未完成のまま報道が行われるのが仕方が無いことだとしたら、テレビの報道には誤謬があることが当然のことになる。その誤謬を組織的に正すシステムはあるのか。 A君:回答は、そのような組織は無いし、持つべきだとも思えない、というものでした。 B君:その理由は? A君:確実ではないですが、基本的に個人でモニター的な役割を果たしてくれる人が多いから。 B君:なるほど。いずれにしても、テレビ報道には誤りがつきものである、ということは合意された訳だ。テレビというメディアの持つ報道特性がこんなものだということが市民社会にもっと知られないと。これが先か。今回、円卓会議でこのような議論が行われたことは、意義深い。 C先生:そのような方向性の主張をされたのが、3番目に意見表明をされた上智大学の音さん。メディアリテラシーというものを提唱されているようだ。実は、そんな言葉が使われていることを知らなかった。リテラシーという語は自ら多用しているのだが。 A君:メディアリテラシーの定義ですが、「メディアメッセージを批判的・主体的に読み解く能力」。 B君:メディアの特性をもっと学べということになるか。それはある意味正解。 A君:マスメディアだけではなくて、様々なチャネルからの情報がある現代社会では、メディアリテラシーを持つことが一般市民としてのパスポートのようなものだ。これが、音さんの主張。 C先生:それは同意だ。しかし、最近、メディアリテラシーが低下しているのではないか、と思えるのだ。その理由は、新聞を読んでいない人が増えた。情報をテレビのバラエティー番組でしか取らない人が居る。それ以外の情報源は、携帯電話でのクチコミぐらい。自分でインターネットを触るような人はまだ良いのだが。 A君:質問していましたね。 C先生:日本人のメディアリテラシーは向上しているのか、と聞いた。 A君:音さんは、自信を持って「向上している」と答えていましたね。 C先生:それはその道の専門家としては、そう答える以外に無いだろう。メディアリテラシーの定義にもよる。もしも、インターネットの情報は信用できないものが多いといった判断をもっているかどうか。これが、メディアリテラシーの有無の評価指標であるのなら、確かに向上しているといえるだろう。しかし、音さんのような定義、「メディアメッセージを批判的に読み解く能力」をメディアリテラシーというのならば、例えば、科学的な常識がどんどんと増えているような現況では、市民は、もっと科学を勉強しなければならないことになる。そんなことは行われていない。要するに、科学・技術情報が増えているということをベースラインであるとえると、メディアリテラシーは、むしろ低下しているのではないか。 B君:その見方が妥当だ。 C先生:大分長くなったので、本当は2番目に意見表明が行われた、竹居さん分に移ろう。 A君:竹居さんの発表資料には、メディア批判がかなりちりばめられていました。例えば、 C先生:随分と思い切った発表をして下さった。 B君:確かに。『ダイオキシンのところで、「100%安全」ならいざ知らず、そうでないなら、訂正的な記事は載せたがらないという心情もありうる』。としているが、これは? A君:ダイオキシンの危険性が、少なくとも「サリンの数倍」ではないことは、分かってきた。しかし、危険性が全く無い訳ではない。となると、これは、毒性があるが、以前報道されていたほど恐れる必要はない、という報道になる。もしも、「ダイオキシンは100%安全」というデータがでたのなら、それは、すべての新聞が大々的に報道するだろうという意味だったと思います。 B君:そんなデータが出ることは有りえない。すべての物質は毒性があって、強いて言えば、心配すべき毒物と、それほど心配しないでも良い毒物があるに過ぎない。どんな物質でも、例え、ビタミンでも「100%安全」などということは無い。ということは、市民社会はいつまでたっても、「染み付いた危険情報」から逃れられない。 A君:その通りですね。ただし、世の中良くできているという部分もあって、市民は「忘却」が得意だから、余り報道されなくなると、ダイオキシンはそんなにも心配しなくて良いのだな、と「染み付いた常識」が訂正される。 C先生:メディアの報道姿勢とそれに対して市民としてできることはこんな状況だ。このことを市民が自ら知ることが、恐らくメディアリテラシー向上の最大の課題。メディアそのものが不要なものではないので、それで市民が不幸だと思わなければ、余り問題はないが、やはりある程度不幸なのではないだろうか。 A君:それには、現状だと市民は自衛するしかない。メディアリテラシーだけではなくて、科学リテラシー・環境リテラシー・健康リテラシーなどを自ら身に着ける以外に方法はない。しかし、それは大変だ。 C先生:そろそろ結論だ。本日の題名、メディアは「安全」を報道できるか、の答えは、ほぼNOであることで確定。となると、将来に向けてなんとかしないと。竹居さんの提案に、「優れた記者を皆で育てて欲しい」というものがあった。これは賛成。今でも多少やっているつもりではあるが、今後、なんとかこの方向に向けて努力してみたい。 3月7日追加。読売新聞科学部の北村行孝氏の発表がGSCNシンポジウムであった。題名は「リスクコミュニケーションにおける新聞の役割」であって、その基本的なトーンは、竹居氏のものとほぼ同一方向であった。印象的な言葉として、「最近、新聞のリスクコミュニケーションは、かなり無用な不安を煽るような方向から変わっている。先日の日本初のvCJD発生の記事についても、不安感が広がらないように、かなりフォローを行った」。 実際その通りだと思う。新聞は、工夫次第で、かなり様々なことができることが実証でき始めているように思える。「キンメダイ風評被害事件」のときにも、新聞はかなり注意深い報道を行っている。http://www.yasuienv.net/KinmeCom.htm 司会をやっていたもので、一つ質問をしてしまった。「確かに、最近変化を感じるが、その変化のきっかけになったものは、何かあるのだろうか」。その回答は、「審議会などの議論がすべて情報公開されてしまう。そのため、情報に対する信頼性が高くなったと同時に、妙なことが書けなくなった」。 情報公開の威力はなかなかなものだ。「キンメダイ風評被害事件」のときも、新聞も録に読んでいないコメンテータの発言が一つの原因だった。もっとも、キンメダイ事件は、徹底的なコミュニケーション方法の検討が始まった、丁度過渡期であったのも事実だが。 |
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