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  「下流志向」から何を読み取るか 02.25.2007
     



 「下流志向」内田樹著、講談社、ISBN978-4-06-213827-7、1400円+税を読んだ。現時点で学校で起きていることの実態を、そのすべてではないだろうが、見事に説明している本のように思えた。
 これが事実だと仮定したら、一体、今後どのような対策を取れば良いのか。教育再生委員会に、そんな解が出せるのか。

C先生:これまで、戦後の日本が発展した最大の理由は、日本人が勤勉で、向上心に満ちていたからだ。しかも、一部の人々がそうだったのではなく、大多数がそうだったからだ、という説明が行われてきたように思える。

A君:もしも「下流志向」が日本人のメンタリティーのかなりの割合を占めているとしたら、将来どうなるのか。そんな心配をしているのでしょうね。

B君:著者、内田氏は、1950年生まれ。団塊の世代と言えるでしょう。フランス文学者。フランス現代思想、映画論、武道論が専門とか。映画論だと、蓮見元東大総長もそんな感じだったが、武道論などというものがあるのを知らなかった。

C先生:少なくとも教育が専門という訳ではないようだ。だからこそ、分かりやすい論理構成になっているとも言えるのではないか。

A君:ただ、ここに書かれていることは、氏のオリジナルという訳ではなくて、佐藤学、苅谷剛彦、諏訪哲二、山田昌弘、各氏の著作を読んで、筋立てを作ったようで、内田氏も、「受け売りばかりで、私の創見と呼べるものはほとんど含まれていない」と謙遜して述べている。

C先生:われわれは、その各氏の著作を読んだ訳ではないので、本書の内容について検証するとか、反論するとか言う、創造的な記述ができる訳ではない。感覚的な議論に終始することをあらかじめお断りするしかない。

B君:ただ、なんとなく、納得できる論理立てだったということは言える。著者の文章力のためかもしれないが。

A君:それでは、内容について、若干の説明をします。
第一章 学びからの逃走
第二章 リスク社会の弱者たち
第三章 労働からの逃走

という三章からなって、第四章は、質疑応答になっています。それも当然で、この本は、著者が箱根の旅館(?)で5時間にわたって講演をした内容を元にしている。

B君:5時間はすごい。しかし、5時間の講演の中身をそのまま本にすると、実は、こんな文章量ではない。だから、テープ起こしをしてたとすると、相当な量がカットされたものと思われる。

A君:それぞれの章は、いくつかの話題から構成されています。いくつかの観察結果が記述されていて、それがすべて論理構成上つながっているという訳ではないですね。

B君:第一章の最初の話題は、「新しいタイプの日本人の出現」、学習しないこと、労働しないことを「誇りに思う人種の登場」が中身。それは何故か、という導入部。これが論理構成上必要か、と言われるとそうとも言えない。それに引き続き、「勉強を嫌悪する日本の子ども」、「学力低下は自覚されない」、「矛盾と書けない大学生」、「わからないことがあっても気にならない」、「世界そのものが穴だらけ」、「オレ様化する子どもたち」、「想定外の問い」といった観察結果が並ぶ。

A君:少しずつ論理構成上必要な話題も出てくるのですが、もっとも重要なのは、さらに先で、論理的に重要な項目を歴史順に並び替えれば、「不快貨幣の起源」がもっとも先ということになりますか。

B君:そこから説明しよう。「下流志向」の起源は、なんと、父親の給与が銀行振り込みになったことにあるという。そのため、母親にとって生活費へのアクセスが保証された。生活費を、感謝をして、父親から受け取る必要が無くなった。そして家庭内で起きたことが、「自分はこんなにも我慢している」ことを武器に他の家族と戦う方法。すなわち自分の「不快感」を貨幣にして、提供されるサービスなどと「等価交換」をするというやり方が発明された。

A君:それが、子どもに伝わって学校の授業にも、その「不快貨幣による等価交換」思想が反映するようになった。

B君:授業などを聞くには我慢が必要である。すなわち、授業を受けることは不快である。だから、「先生、この授業はなぜ役に立つのですか」、という質問をする。なぜならば、もしも教師から自分の価値観に訴えるような好ましい回答があったら、「不快感」との「等価交換」によって、「聞いてあげても良い」、という態度を取るため。

A君:例えば、小学校で最初に「ひらがな」を学習するときにでも、そんな質問をする。教師は、その問いに対して、やはり功利的な回答をしようとこころみる。例えば、どんな役に立つか、人生には必要不可欠だ、などなど。しかし、子どもにとって、理解できる理屈は、6歳の感性にも訴えられるような単純なものだけだから、「そんな授業は要らないよ」、という反応をする子どもができる。

C先生:第一章の「学びからの逃走」の内容は、実は、これだけで充分だな。その他の話題は、この論理を補強する観察結果に過ぎない。

A君:この指摘はかなり鋭いと思われる。ある種のメンタリティーが見事に記述されているような気がする。

B君:しかし、これが学級の何%ぐらいなのか。例えば、公立小学校に限っても、地域差があるのか、時代によってどのように変遷してきたのか、などなどの細かい記述は何も無い。

A君:それだけでなく、今後、どのような対策を取るべきなのか。対策などを取っても効果が無いから無駄なのか。そのような記述が無い。

C先生:対応策として、教師は、「ひらがなを学ぶとどんな良いことがあるのか」、という問に対しては、教師たるもの絶句すべきだ、といった記述もある。勿論、教育とは、あらかじめ予見された効果を生むだけのものではなく、教える側にとっても、教えられる側にとっても、予見できないなんらかのプラスアルファが出ることが、実に、教育に最大の効果なのだ、という主張もあるが、だからといって、このプラスアルファの存在と意味を6歳児にどのように伝えるべきか、あるいは、単に無視すべきなのか、といった具体的な提案がある訳ではない。

A君:この本のスタンスは、心理学的な解剖をすることによって、今後、誰かがより教育の実践の場に役立つような対処法を考え出すときの参考になるだろう、ということのようにも思える。

B君:もともと、教育者を対象とした講演会における講演を元に本が書かれた訳ではないので、当然だと思うが。

C先生:もともと、親の品格が落ちていることによって、子どもの人格が劣化している。親の品格を高くするなど、不可能。もう教育効果がでない年齢に到達している。品格がないということは、自主的に、「国家の品格」(!?!)などという本を読むような親ではないことを意味する。

A君:この本の論理とは無関係に、様々な観察される事例がでてきますが、その中に、「クレーマー化する親」なるものもある。

B君:クレーマーのところで、親がクレーマー化しているのは分かるのですが、プロフェッショナルクレーマーなるものが出現していて、礼服などを買って、使い終わってから、気に入らなかったから返します、と、香水や場合によっては食べ物のシミを付けたまま返品するということを何も思わすにできる、という若者が増えている、などがその観察事例。

C先生:本書の理路には余り関係ないことも、多く語られている。第二章は、「リスク社会の弱者たち」。この章の説明を。

A君:この章は、政府の諮問委員会の一つであった「21世紀日本の構想懇談会」からのメッセージから始まります。かなり長い引用があるのですがどうしましょう。

B君:政府の文書だし、引用しても無駄だとも言えるが、無断引用しても怒られないから、引用しよう。

《所属する場の和を第一に考える日本人の傾向は、先進国の中では貧富の差が少なく、比較的安全性の高い国を生み出すという利点を持った。しかし、個人の能力や創造性を発揮させる場としてはむしろ足かせとなってきた。
 グローバル化や情報化の潮流の中で多様性が基本となる21世紀には、日本人が個を確立し、しっかりとした個性をもっていることが大前提となる。このとき、ここで求められている個は、まず何よりも、自由に自己責任で行動し、自立して自己を支える個である。自らの責任でリスクを負って、自己の目指すものに先駆的に挑戦する「たくましく、しなやかな個である。》

A君:これが、スタートだというのですね。

B君:しかし、考えてみれば、それもおかしな話。なぜならば、若者が、こんな政府の文書を読む訳は無い。クレーマー化するような親がこの文章を知っているはずもない。

C先生:若者達が直接的に知る機会を持たなかっただろうということは想像に難くない。しかし、父親は、恐らく職場でのなんらかの変化によって、これを感じているのだろう。ここ数年間に渡って、企業も業績が悪かったもので、社員全員の待遇を改善することができなかった。しかも、株主優先の経営をしないと、株価が下がり、社長を初めとする経営陣の責任を問われる。賃金を低めに保つという経営方針がベストだということになる。そのための言い訳として、成果主義なるものを導入したところが多い。実際に、成果主義が成果を上げたところは皆無といって良いだろう。もともと経費節減が目的なのであって、成果主義なる根本思想を全く理解できない経営者がやっていたことなのだから。

A君:この「たくましく、しなやかな個」のお陰で、すべての個にとって、この社会で生存するリスクは高まった。

B君:ところが、日本人というのは、陸の国境を持たず、国内に民族間の緊張も無いものだから、リスクというものに対処しないでも、また、自分は何もしなくても、生きられるという能天気な思想を持っている。

C先生:リスクに対処するという方法はいくつもあるが、もっとも確実な方法は、リスクヘッジ。様々なリスクに対して平等に対応して、どれが起きてもなんとかなる体制を作る。ところが、これを実行するには、相当な先見性が必要。日本人は、リスクがもともと存在しない、リスクゼロの社会を作ることによって、リスクを回避しようとしてきた経歴を持つのだが、したがって、リスクヘッジは苦手。

A君:そこで、何をするのか、と言えば、「自己決定こそ価値のある行為だ」という理屈を作った。

B君:「自己決定すれば、誇りが持てる」。「その決定事項がなんであろうとも、内容には無関係に誇りが持てる」。という価値観を作った。自ら学習を放棄し、自ら労働を放棄することであっても、それを自己決定をすることによって、誇りを持てる人間ができてしまった。

C先生:これが第二章の理路だ。リスクヘッジの話は、実は観察事項のようにも思える。理路だけを考えれば、21世紀日本の構想懇談会から、自己決定の誇りに直接繋げることも可能だから。すなわち、「たくましく、しなやかな個」は、「自己決定をすることによって達成できる」。「その自己決定の内容には依存しない」。

A君:第二章の話題のいくつかは、まさにそれを示すものですね。例えば、「勉強しなくても自信たっぷり」「学力低下は、努力の成果」、などは、その単純化された理路の結果生まれた態度。

B君:「学力低下は、努力の成果」というものだが、これは多少の説明を要するかもしれない。要するに、「学習の放棄を、一旦、自己決定すると、それを誇りをもって実現するために、授業中の態度をわざわざ悪くするといった行動を選択する必要がある。それは確実に学力の低下に繋がるが、それには、ある種の努力が必要である。例えば、授業中後ろを向いたままで話をし続けるのは、体勢としては、前を向いているよりもつらい」。

C先生:こんなところで良いだろう。第三章は、「労働からの逃走」だ。ここも、自己決定がキーワード。

A君:具体的な観察事例として、次のようなことが挙がっています。
(1)アルバイトの中で優秀な若者に正社員にならないか、と誘ったら、断られた。理由は、正社員になると、辞めにくくなるから。
(2)上司が仕事ぶりを買って、ある若者に、「新しいプロジェクトの責任者にならないか」、と頼んだ。頼まれた本人は、責任あるポストに就いたら自由がなくなるから、といって会社を辞めてしまった。

B君:これは、自己決定したことであれば、それが結果的に自分にとって不利になる決定であっても構わないと、という考え方。

C先生:この自己決定したことであれば、いかなる場合にも良いことである、ということが社会全体の共通概念であれば、それはそれで良い。しかし、内田氏が言うには、《日本社会は、「自己決定することは良いことだ。これを社会全体で合意しよう」、という自己矛盾のはなはだしい社会である。しかも、「自己決定することは、よいことである」ということについて、社会的合意を政府主導で形成しようとしている。それはどうかなあ、という意見が圧殺されているという倒錯した社会である。「自己決定フェティシズム」と言える。》

A君:無理やり米国の思想を持ち込む。これは、日本社会がかなり無理をしてやっていること。それも、景気がバブル時代のようには行かないこの世の中で、米国的な競争力だけが求められる。となると、なんとかしなければならない。

B君:現在でも、社会全体の合意を政府主導で取り付ける、という多くの努力がなされている。

C先生:今だと、イノベーションだろうか。「イノベーションは良いことだ、日本全体でイノベーションを起こそう」。悪くは無いのだが、イノベーションは、ある確率的現象であって、意図的に起こせるものではない。起きることの邪魔をしないこと、もしも起きそうな気配があったら、それをそっと見守るということがもっとも重要。イノベーションが起きるような雰囲気をもった場と、起こす可能性の高い人材だけを準備すれば良い。

A君:日本型ニートというものは、「自己決定フェティシズム」の成果である。

B君:観察事項としては面白いことが言われていて、例えば、「賃金が安い」と感じる理由は、等価交換が原理原則だから。昔は、仕事の責任の重さのようなもに仕事の格が表現されていて、それは価値があった。しかし、等価交換的には責任だけが重くて割りに合わない仕事。

A君:時間軸の無さが最悪という結論も重要。現時点における等価交換だけで判断すると、時間を経た未来の価値が割引されてしまう。割引率はしかも100%に近い。

B君:贈与という考え方が無い。等価交換だけでは、この社会は動いていないことが理解できない。

A君:ホリエモンをニートが評価したのは、「もっとも少ない労働でももっとも多くの利益を出す」という等価交換主張に合致したから。しかも、「六歳の子どもでも欲しがる理由」だったから

C先生:教育は、基本的に「等価交換」ではない。等価交換的な説明をすること自体、教育の自殺である、という主張は良かった。最近の実学指向も情けない。医者ばかりが志向される。

A君:これで大体終わりですね。第四章は、質疑応答なのですが、最初に、「アメリカンモデルの終焉」なる話題がでてきて、著者の趣味が分かる。

B君:全体的に言って、まあ、非常に単純な理路で、ある部分をクリアーに説明している。その意味では、評価ができる。

C先生:しかし、今後どのような対策を考えなければならないのか、結局判然としない。もう駄目だというのかもしれないが。

A君:もしも父親の給与が銀行振り込みになったことが最初の問題なら、銀行振り込みを止めれば良い、というのは冗談ですが。

B君:親の再教育は不可能。まあ、良い教育を再生するぐらいしか方法は無いが、それが教育再生委員会にできるのだろうか、という問題になると、またまた絶望的になるし。

C先生:この本の感想文などをアマゾンなどで読んでみると、結構評価が分かれていて面白い。一部の元ニートではないか、と思われる読者が猛然と反発をしている。

A君:ニートは、内田氏世代によって作られてしまった犠牲者なのだ、ということのようですね。

B君:団塊世代が、親として本当の責任を果たしたか、と言う問題はある。

C先生:日本の社会全体として、ニートの存在を許容したということもある。ニートが存在できるぐらい、日本という社会のある意味での完成度が高いのだ、という表現もありうる。
 この本の評価に戻るが、まあ、理路が単純なので、分かりやすさは抜群。観察事項を外して、本筋だけを抜き出せば、本HPのようなことになる。本筋だけを知りたいのであれば、本HPを読むだけで、本を買わなくても充分。しかし、観察事項を含めて、いくつかの新情報を得たいというのであれば、お買いになるのも一案。文章も楽しい。