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  環境倫理学は死んだ!のか   03.02.2002



「異議あり! 生命・環境倫理学」 岡本裕一朗著、ナカニシヤ出版、
  ISBN4-88848-737-5、\2600

 やはりすでに2刷になっている。朝日新聞の威力だろうか。買うべきか、買わざるべきか、それが問題だ、と悩んだのことは、今月の環境の2月9日号で記述した。

 この本は、題名から想像できるように、第T部、第U部からなり、第T部が「生命倫理学はいらない」、そして、第U部の第4章からが、「環境倫理学の袋小路」となっている。


C先生:概要をざっくりとカバーしてみようか。

A君:まず序説。環境倫理学の基本的なスタンスとして、「人間中心主義への批判」と「地球終末論を描く」という特徴を挙げています。これは、環境倫理学が「キリスト教的な枠組み」に支配されていることと同義であることとしています。

B君:そして、最後に「環境」が国際的な政治戦略の中で位置づけられているイデオロギーの一つだとしている。

A君:それでは、順番に。まず、第4章で、「人間中心主義で悪いか」と開き直るのです。すなわち、非「人間中心主義」とは何か。

B君:そして、いきなり倫理学の限界の提示。倫理学とは、これまで、(1)他者との関係において、(2)自己との関係において、人間の行為のあり方を解明することで、場合によっては、(3)神という人格との関係を付け加える場合もある。ところが非「人間中心主義」となると、人間以外のことを取り扱うことになって、それがそもそも、倫理学の枠組みを超している。

A君:そして、非人間として、(1)動物、(2)生物全体、(3)自然、を挙げて、それをどのように取り扱うのか、という議論になります。

B君:ビーター・シンガーの「動物の開放論」が紹介される。この話は結構面白い。シンガーは、「動物にもパーソンと呼べる種を殺してはならない」、「昆虫を殺すことは構わない」と述べているらしい。そして、これって、新たな差別主義を導入することで、結局、人間中心主義と変わらないのではないか。

A君:その後、アルネ・ネスの「ディープ・エコロジー」と生態系主義の話になって、有名なネスも、「人間は生活するために他の生物に対して、一定の「殺害、搾取、抑圧」を行なわざるを得ない、ことを認めている。

B君:そして生態系主義者が「生態系を守れ」と主張するとき、「現在の生態系の保護」を訴えるのは、結局「人間の存続」のためではないのか?

C先生:環境倫理学の大御所は、ご存知、加藤尚武先生(現、鳥取環境大学学長)だが、その著書、「環境倫理学のすすめ」(丸善ライブラリー)によれば、環境倫理の主張は3種類ある。(1)非「人間中心主義」、(2)世代間調停、(3)地球全体主義。

B君:人間中心主義と非「人間中心主義」の違いは、どのように説明すべきか。
C先生:加藤先生の例え話だ。「ある孤島に漂着した人間がそこに生息する絶滅危惧種を食べるべきか、といった極限状態になったとき、食べてしまった人間を罰するべきか」。答えは無い、としている。むしろ、そのような状態にならないようにするのが、現代社会の務めだとしている。

A君:しかし、まあ、罰するのは不可能でしょうね。

C先生:ところが、その話は、実は加藤先生の本に出てくるものではない。簡単にしてしまったものだ。本当の話は、こんなものだ。「ある孤島に漂着した人間がそこに生息する絶滅危惧種の鳥を捕まえて食べようとするのだが、すばやい鳥で捕まえられない。島を見回っているときに、世界自然保護局が設置した鳥の捕獲装置を見つけた。ところが暗証番号でロックしてあって動かない。そして何故かそこに電話があるのだ。電話で助けを呼べば普通なのだがそうはしない。なんと、その電話を掛けて捕獲装置を動かすための暗証番号を教えてくれというと、『その島に何人いるのだ。一人だけなら教えない』、と言われてその人は餓死してしまった。さて、この世界自然保護局は有罪か無罪か」、という話。

A君:無罪とも有罪とも言えない、が答え。

C先生:正解。そんな状況にならないように、準備をするのが、環境倫理学の立場だということのようだ。

A君:個人的には有罪の方がすっきりする。有罪か無罪かは法制度の話で、これは人間界の話だから、人間の命が掛かったら、それを優先すべきだと思われるので。

B君:どちらかと言えば、我々A、B&Cは、完全なる人間中心主義とはいえないものの、生態系主義者ではない。環境保全を最大限優先するなら、人間が全滅するのがベストなのは分かっているが、それをやってしまったら、その行為を評価する主体も同時に消えてしまうから、無意味だ。環境保全は、それを評価する人間が存在するから意味がある。

C先生:それで、「人類社会の長期持続性」を目標とすることを基本に置いていて、倫理の議論をある意味で避けている。

A君:第5章に行くと、「予言された人類滅亡」ということで議論しています。

B君:この章の内容だが、カーソンの「沈黙の春」、ローマクラブの「成長の限界」の話が中心。

A君:地球全体主義といえるような「環境ファシズム」を取るべきなのか、と疑問を投げかける。「このような問題に対して、環境倫理学は見通しをはっきりとは語らない。いずれにしても、未来予測に対する態度は明確にしなければならない」、と主張している。

B君:本来なら、世代間調停の話がしっかりと語られるべきなのだが、その部分が欠落。

C先生:未来予測について、環境倫理学が態度を明確にせよといっても、それは、むしろわれわれのような自然科学側に責任があるので、環境倫理学側に責任があるというものでもない。

A君:この章では、人口問題について議論をして、この問題についても、環境倫理学は回答を用意できないとしていますが、それもあたり前。大体、人口問題は、環境問題ではないから。

B君:環境問題の上位概念で、人口問題が片付けば、環境問題は自然に解決。人口問題、特に、途上国の人口問題はもともと制御が不可能だから、仕方が無いので、環境問題の解決を目指すのだ。

C先生:それにしても、相も変わらず、「沈黙の春」、「成長の限界」が主役というのでは、どうも時代遅れのような気がする。まだ、定番は無いのだが、世代間調停の話を書き込んで欲しかった。どうも、文系の環境学者の悪いところは、定番から抜け出ないことのように思う。環境倫理も、歴史的な主張の再検討などを全部省略して、正当な議論ができないものなのだろうか。

B君:加藤尚武先生の偉いところは、それをやってしまうこと。歴史的人物の主張は、「後付」で出てくるが。

A君:第6章に行きます。「環境保護にはウラがある」。ここでは、「原子力と環境」とか「ファッションとしての環境」とか、色々と語られますが、最終的には、「国際政治における『脅威』一定の法則」といったところでまとまります。

B君:要するに、環境は様々な人々にとって、「道具」であって「目的」ではないということ。

C先生:その傾向は確かに強い。しかし、本当に環境を目的とする動きも無い訳ではない。ただし、日本のような状況の地域では、世代間調停が主たる問題になるのだが、「今の自分さけ良ければ」なる発想を変えることは容易なことではない。

A君:そこで、仕方が無いから、環境で人々を脅かす人間が多くなる。「脅かさないと分からないだろ」、ということになるのです。残念ながら。

B君:表面上は似たような行為なのだが、脅かすことで、別の目的を達成しようとする人との区別が難しくなる。例えば、有機野菜を買わせようとか、健康商品を買わせようと、あるいは、「万能の浄水器」を売り込みたい、とかいった目的の人も、しばしば「環境で人を脅かす」のだ。

A君:そして、この最後のまとめ、あるいは、本書全体のまとめとして、環境倫理学の課題は、環境ファシズムというイデオロギーに無邪気に乗って「地球を守れ」と叫ぶことではなく、「イデオロギー批判」こそが必要だと主張している。

C先生:この話は、かなり本質的でもあるのだが、薬師院氏の「地球温暖化への挑戦」に同調しているところなどを見ると、どうもものの本質を斜めから見ると面白いという、やや捻くれたメンタリティーの持ち主のように思える。

A君:やはり、読むには値しない本のようですね。

B君:「リサイクルしてはいけない」、「地球温暖化への挑戦」と同列の本のようだ。

C先生:正統的な本では売れない。しかし、それを承知で、このような本を書くのが褒められたものでもない。それに、もともと答えの無い無理難題を突きつけて、「できないだろう。それは無力だからだ」、と結論しているように思える。大体、万能な学問(に限らない)などあるはずも無い。