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環境学とは何か シンポジウム計画 06.14.2003 ![]() |
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現在、9月10日にシンポジウムを開催すべく、個人的に努力をしているところである。そのシンポジウムとは、「大学における環境学研究と教育の体系化に関するシンポジウム」(詳細は、文末に)というもので、問題意識としては、現在、環境学が何かという議論もなしに、したがって、結論もなしに、研究・教育が行なわれている。これは、大学としてのクライアントである学生諸君にとって重大な状況で、入学しても期待を裏切られる可能性が高い。「大学で環境をやりたい」、と思う高校生が考えている環境学と、「環境関連学科・学部」で行なわれている教育との間に、相当な乖離があるだろうからである。
このシンポジウムに興味をお持ちで、参加ご希望の方は(大学関係者に限らず、あらゆる方々のご参加を希望しております。特に、学生を受け取る企業サイド、学生を送り込む高校や受験産業、さらには、ジャーナリストなどのご参加をお待ちします)、メールで申し込みをお願いします。当日の会場の状況によっては、事前申し込みをいただいた方だけにご参加いただくことになる可能性がありますので、念のため、当日受付時に使用する申し込み番号を返信いたします。 C先生:本日の話題「環境学とは何か」。この質問に唯一無二の正解がある訳ではない。ただ、ある種の合意を目指すべきことのように思える。「そもそも、環境学が大学になぜ必要なのか」、といった議論を真正面からやる機会が無いのは、不十分の極みだ。 A君:大学における環境学というと、環境の名前を冠した大量の学部、学科、大学院などができました。しかし、そこでどのような教育が行なわれているのか、といえば、そもそも環境学の専門家が教育をしている訳ではなく、旧来の学問分野の一部が普通に教えられているだけでしょう。寄せ集めで、環境学ができる訳ではないのです。 B君:この問題は、個人的にも責任がある問題ではあるが、絶対的な正解というものはもともと存在していないので、建設的な議論が出来にくいと感じている。要するに、現状に囚われ、それを正当化するような議論がまかり通りがちだということだ。 C先生:環境問題にとって共通の特性なのだが、解決の道が見えても、現在の自らの状況にとって不利だと、それを認めないというのが通常のやり方。特に企業を中心としてなのだが、大学においても、自己都合型環境主張とでも言うものが、蔓延している。 A君:ということは、環境学が何故必要なのか、今後、どんな問題を解くことに必要だから、こんな学問体系が必要なのだ、という現状を切り離した議論を行なうべきことになりますね。 B君:最近、環境の識者がよく言う、未来からのバックキャスト型のアプローチというやつだ。 C先生:個人的には、バックキャストだけでは駄目で、フォーキャストとバックキャストとの適切な組み合わせが必要だと思う。しかし、確実なことは、現時点で本当に必要な環境問題は、未来の問題だということだ。だから、環境学は未来を取り扱えるかどうか、という検討が重要だと思う。いずれにしても、日本に限って言えば、過去の環境汚染・健康影響の問題はかなりの解決を見た。 A君:そこに大きな誤解があるのではないですか。世の中の多くの環境学の議論に、未だに水俣病が出てきます。しかし、今後、水俣病の教訓が生きる状況というものは、少なくとも日本の状況から言えばありえない。勿論、途上国に日本の経験を伝達するという意味からは重要ですが。 B君:実際そうだろう。環境問題にとって重要な認識は、過去の問題解決の手法は過去の問題にしか使えないということだ。なぜならば、環境問題は、人類にとって、未体験の問題が本当の問題だからなのだ。未体験の問題を解こうというのが、環境学の最大の課題なのだから、解決方法も恐らく未知の方法にならざるを得ないのだ。 C先生:水俣病も、また、カネミ油症も、全く同じ事態が今後起きることはない。恐らく、想像もできない局面で、何かが起きる。したがって、過去の方法論をいくら議論し、それを身に付けたところで、その未知の問題の解決には役には立たない。 A君:ダイオキシン問題のときに、学者の一部が行なったことは、ある意味で水俣病の正義を、全く異なった状況であるダイオキシン問題に適用しようとした、という過ちから出たともいえるのかもしれません。 B君:環境ホルモン問題のシーア・コルボーンと「沈黙の春」のレイチェル・カーソンを同質だとして評価する向きがあるが、あれも間違いだろう。世界の状況が全く違う。孤立無援のカーソンと、メディアやある種の学者集団の支持を得たコルボーン。 C先生:要するに、もしも環境学が未来を取り扱うものだとするのならば、過去の経験が活かせないのが、環境学の宿命だ、という理解は環境を研究する、教育する人間にとって必要不可欠な認識だ。 A君:「未来・未来」というと、五月蠅いと言われそうですが、それにも訳があるのですよね。そもそも、環境問題の根源は、「人間の生産活動」にある訳で、その生産活動が地球のある能力を凌駕してしまうと、起きてくるのが環境問題。水俣は、生産活動による排出が地域の環境容量を人間活動が超した。 B君:そして、今では、人間活動が地球全体の環境容量を超そうとしている。要するに、人間活動の規模と、人口の両方が拡大傾向でしかないから、環境問題は、どんどんと未知のフェーズに入っていく。 C先生:途上国は、先進国の歩んだ道をそのまま辿ると、過去の同じ過ちを犯すということは分かっていながら、やはり完全に同じではないものの、似た道を辿る。そこには、「人間の欲望」なる御しがたい怪物がいて、他の道を選択させないからだ。しかし、人類全体としてみたときには、ある種の経験はあるので、本来、解決できなければおかしいのだが。 A君:人間の欲望という本能・本性が勝つか、大脳・理性が勝つかという永久の問題になるのですがね。。。 B君:いずれにしても、先進国がこのまま進むなら、人類は未知の環境問題に遭遇することになる。すなわち、環境学にとっては、この未知の問題をどのように予測し、有りうるリスクを回避するために、何にどのように取り組むかという問題がもっとも重要だろう。 A君:だから「未来・未来」ということになる。 C先生:未来の問題であると、社会科学・人文科学にはかなり苦手な対象領域だということになってしまう。ここに、「文系からの直球勝負」なる帯をつけた本がある。「環境学の技法」石弘之編、東京大学出版会、2002年4月発行、ISBN−13−032112−9である。この本を読んでみて、やはり、文系にとって環境学は困難な対象でしかない、ということを強く認識した。なぜならば、文系の学問体系は、「過去から遡って現在までを解析」することによって、「過去の偉人の業績の上に、自らの業績を積み上げる」ことを目的とするからだ。それに対して、理系の学問体系は、「過去の学問体系では説明不能な問題を発掘」することによって、「過去の業績を否定し」、「新しいところに業績を積む」ことを目的とするからだ。理系の人間にとっては、過去からの離別が必須の価値観なのだ。過去を基盤としつつ常に未来を見ているのが理系。 A君:環境学というものの定義を石弘之先生がしていますが、どうもはっきりしないですね。 B君:石先生の環境学の定義の記述の中に、未来が出てこないのがなんとも。技術至上主義という理系の批判があって、それは、理系の自分としても甘んじて受けるものの、何が文系の直球勝負なのか。この定義では、ホームベースの方向を向いた投球になっていないのではないか、という感じをもった。 A君:その本の石先生以外の執筆者は、佐藤仁(東大新領域創成科学研究科助教授=文化人類学)、永田敦嗣(東大総合文化研究科助教授=人文地理学)、リチャード・ノーガード(UCバークレー校教授=農業経済学)、松原望(東京大学新領域創成科教授=統計学)、井上真(東京大学農学生命科学研究科助教授=林学)で、全員が文系とはとても言えないのです。 B君:環境を様々なフィールドで研究するというタイプの研究者が多いように見える。このようなフィールド研究は、すべての学問分野をカバーするというものではなく、生態系と人間との関係での議論に特化すれば良いので、未来を語る環境学とは一線を画すべきように思える。すなわち、従来の学問分野内で行なう研究で良いのではないか。 A君:その中では、文系の代表と思われるノーガード教授の文章には、やはり過去の薀蓄が多いです。経済学が未来をどう切るかといった観点からは書かれていません。 B君:松原教授の記述は水俣病で、それなりに興味はあるが、やはりこの手法が未来のどのような状況で使えるのか、となるとやはり疑問。1956年頃から始まった水俣病が、解析のために最適な例だと考えたにしても、この文章が2002年に記述されるのは、未来の時点で本当に問題が起きたとしたときは、間に合わないことを示しているように思える。 A君:石先生の「環境学の技法」はどうも、「フィールド研究を環境学だとしたときの技法」であり、「文系からの直球」ではないようです。社会科学はいかに切り込むか、と言うには、法学、行政学からの記述が無いと。 B君:さらには、現代日本社会への切り込みが無いのも不満が残ることろだ。 C先生:石先生によると、「環境学はあらゆる学問の環からなる」という考え方があるらしいが、これを認めると、単なる雑学を環境学と呼ぶことに過ぎない。未来を予測し総合的な対応を取るには、雑学でも博学でもなく、目的をもった体系的な知識の蓄積を大脳内部に構築することが必要で、この体系的な知識の蓄積を環境学と呼ぶべきだ。具体的には、もし環境学を学ぶとしたら、文系教育、理系教育をまず、それぞれのスタンスでやって、それから、文系の学生には理系の、理系の学生には文系の知識を構造化して与え、個人の大脳の中で、それらの知識が調和した振動を起こすようになって、未来問題に対して総合的な判断を行いうるようになり、究極の解から、当面の解までを提案できる能力を身に付けることだと考える。 A君:文系、理系どちらかの教育を受けて、そして、最後には、総合学をやる。しかし、大学の四年間という教育期間内での環境学教育は不可能となりませんか。 B君:大学初年級から3年までは、通常の文系、理系の教育を受ければ良いと思う。しかし、4年で何かそんなニュアンスを持たせるにしても、時間が不足か。特に、就職活動や大学院受験、さらには卒論研究などをしていたら。 C先生:大学院教育、特に、一旦社会に出た人向けの教育を行なうのが、もっとも効果的かもしれない。 A君:いずれにしても、環境学が一人の大脳の中にある程度納まるように構造化されることが必要。 B君:「構造化」というが「美しい単純化」といった方が分かりやすい。理系の学問は、例えば、量子力学だったらシュレディンガーの方程式、流体だったらナビア−ストークスといった式の形で表現されて、比較的簡単に理解できる。問題が解けるかどうかと言われれば無理だが、理解は可能だと思う。 A君:もし、この理論が正しければ、文系が環境学を教えるのは、主として理系の教育を受けた学生に教えるのだから、美しく単純化して分かりやすい体系にしてもらわないと。 C先生:「持続可能性の向上」をキーワードにした環境学の体系化の取り組みが重要なのは、まあ、世界的な認識であり、動向だからということで良いだろう。別名、「持続可能型環境学」の構築だ。「生態学」も、「自然保護」も、環境学としての取り組みは、「持続可能性」の範囲内にして行い、それ以外は、固有の学問体系に戻ってやれば良い。工学・理学だって同じで、廃棄物も、上下水道も、温暖化も既存の学問分野の中でやって、「持続可能性」に関わる部分だけを総合環境学としてやればよい。 B君:要するに、同じ目的、今の場合だと「持続可能性」を目的として持った人の集まる場を作って、そこでやるのが「持続可能型環境学」。そうでなくて、環境的題材を自分の巣穴に持って帰ってやるのなら、それは、それぞれの学問としてやるべきだ、ということが主張。こんな主張は有っても良いだろう。 A君:分かるような気もしますが、一部には反対がありそうな気がします。 C先生:持続可能性のように、人間社会を将来をどのように考えるかという中心的命題を議論するには、環境の全域についてある程度以上の見識をもち、当然ながら、共通言語をもった人が集まる必要がある。単なる寄せ集めによって環をいくらつくっても、時間を浪費するための会議にしかならない。 そんな思想を表現すべく、作成した図が、次のものだ。
B君:環境の全域についてある程度以上の見識を持つといっても、対象はあらゆる学問領域の全体を意味するので、実際にはかなり難しい。そこで、過去がどうの、という部分はできるだけ切り捨てて、未来を読めるようになるために必要な研究と教育を行なうことがあり得る。そして、その際にキーワードになるものがあるとしたら、それが「持続可能性」という言葉であることは、論を待たない。 A君:John Elkingtonのトリプルボトムライン戦略あたりですか。 B君:あの戦略は、ビジネスがこれまでは経済だけしか考えてこなかった、という大前提に基づいての議論であって、社会全体が持続可能型になる場合に使えるという議論ではない。 A君:要するに、ビジネスが経済的側面だけを考えていたことに比べれば、多少とも社会的側面を考慮すれば、以前よりは持続可能型に近づいたともいえる。環境的側面を考慮すれば、さらに持続可能型に近づいたと見なせるということですか。 B君:持続型を考えるときに、環境的側面だけを考えても現実的な解は出ない。社会的側面や経済的側面も考慮しないと、という言い方は正しいのだが、そのときには、もっと気をつけた表現をすべきだということだろう。 C先生:最近、そんなことをより明確に示す必要があると考えている次第。そこで、こんな図を作った。 A君:現世代の健康リスク中心から、将来世代の資源・エネルギー枯渇によるリスク、生態系壊滅によるリスク、加えて、倫理・哲学面で配慮によって途上国におけるリスクも考える。これらのリスクの合計を最小にするような戦略を考えるべきだ。 B君:やっと我らが「トータルリスクミニマム思想」にたどり着いた。 C先生:持続可能性についての総合環境学と、個別学問分野における環境研究とをある程度分けて考える。そして、持続可能性を語ることができる人材を増やすことが必要不可欠のように思える。そのような人材が育てば、個別学問分野における環境研究からの知識もより有効に活用されるようになるだろう。 シンポジウムの概要 本シンポジウムにご出席ご希望の方は、メールにて申し込みをお願いします。 申し込み先: yasui@iis.u-tokyo.ac.jp 仮題:「大学における環境学研究と教育の体系化に関するシンポジウム」 シンポジウム開催の趣意書 このような情勢を先取りした形で、環境を冠した大学、大学院、学部、学科、研究科、などの設立が相次いだ。今後も増える可能性がある。 しかしながら、「環境」という言葉の意味する領域は、ほぼ学問分野のすべてをカバーするほど広大であって、ややもすると、「何を研究していても環境の研究である」、といった状況を招きがちである。すなわち、「環境」を研究するとは、一体何を目的として研究することなのか、「環境」を学習することは、一体何を理解すれば良いのか。このような議論なしに、我が国の大学では「環境研究と環境教育」が行なわれているのが実態ではないか。 一方、大学において環境を学びたいという高校生の数はかなり多い。そのような高校生が、「何を研究しても環境の研究である」といった理解をしているとは思えない。このような状況を続けると、環境研究・環境教育に対する社会からの理解が得られないばかりか、その必要性にまで疑問符が付くような、極めて危機的状況を招きかねない、と認識すべきだろう。 このような状態を解決するには、大学において環境学にかかわりを持つすべての教授・助教授・助手などが、「環境学とは何か」という大きな命題に対して議論を行なうことができる場を設定し、そして、「環境学を体系化」し、「正しい目的意識をもった研究を実施する」とともに、「環境学を議論できる学会の場での研究発表」を経験し、加えて、構築された新しい環境学体系に基づいた「大学教育用の教材」を作成すべきである。 最終的には、「全国大学環境学研究・教育協議会」のようなものが設置され、継続的に活動が行なわれることが望ましいのかもしれない。 いずれにしても、「環境」という領域を共有している大学人が、共通した意識を形成するために、速やかになんらかの行動を起こさなければならない。 そのため、今回、上記シンポジウムを企画した。 関係各位からの絶大なご支援を期待するところである。 |
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