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  「評価をすること」と「推理力」   03.02.2009
     



 筆者が環境の分野に入りこんだのは、製品の環境負荷を分解して探るというライフサイクルアセスメント=LCAのような研究を始めたことであった。1987年から6年間続いた「人間環境系」と呼ばれていた当時の文部省プロジェクトにおいてである。

 日本はLCAということでは先進国である。日本におけるLCAの勃興を象徴する出来事は、1992年に筑波で第一回エコバランス国際会議が開催されたことである。

 世界全体として見れば、LCAはそれほどメジャーな存在ではない。その理由であるが、LCAは、製品やサービスの環境負荷を「総合的に評価」する方法論だということになっているが、「総合的に」とは何か、また「何を」総合的に評価できるのか、ということになると、極めてあやふやだからである。

 3月5日に、北九州市において行われる日本LCA学会研究発表会において、基調講演を行うことになっているが、何をしゃべるべきなのか、という問題意識で、今回は、このHPを書くことにする。



C先生:そんなわけで、LCAという話題を中心に、となると環境関係ということにもなるが、「評価すること」をもう少々全般的に議論をしてみたい。

A君:「評価すること」は、このところの日本での「流行」の一部でしたね。なんでも評価評価評価。それには結構エネルギーが必要で、評価される側はもちろんのこと、評価する側も大変で、よく評価疲れなどという言葉が飛び交っていたようですね。

B君:評価をするということになると、どうしても定量的な評価、すなわち、数字を使っての評価をしたくなる。そして、10点満点なら、9.0点は、8.9点よりも優れているという評価をやりたくなる。

C先生:大学の教官の業績の評価も、どんどんとそんな方向に向かってしまった。1年間に、インパクトファクターの高い雑誌に何報の論文を掲載することができたか、ということで業績が評価されるようになった。

A君:評価をはじめると、やはり数字でくっきりと評価したくなる。

B君:インパクトファクターを重視しすぎると何が起きるか。それは、すべての研究者の価値観が同じになってくる。理工系とは言うものの、一般に、理系の雑誌の方が、工系のものよりもインパクトファクターが高い。となると、すべての理工系の研究者が理系の研究をやることになってしまう。

A君:NatureとかScienceといった有名雑誌を目指すと、やはり「新発見で目立つこと」が条件になりがちなので、研究の方向性がそちらに向かう。

B君:社会に存在している新しい問題について、その解を提供するといった方向に関心が向かわなくなる。

C先生:大学も社会的存在なので、その果たすべき役割は多様なものがある。大学の最大の使命は、人材を社会に供給すること。研究であれば、社会の発展に有用な解を求めることであって、新発見をすることだけが大学の役割ではない。社会はもともと多様であるから、社会に対応する大学はもっと多様であることが重要なのだ。しかし、ある単一の指標だけを使った評価を行うと、大学のもっとも重要な特性であるべき多様性が失われる。

A君:インパクトファクターとは別に、論文の被引用数で競うという方法もある。

B君:多数の研究者によって引用される論文は、それはそれなりの価値がある。しかし、極論をすれば、研究がほとんどされていない領域の研究をやっていると、引用をするのは自分だけといった状況も生まれ、逆に、研究者が多い研究分野であれば、被引用数も多くなる。

C先生:最高の研究者というのはどのような研究者かという話をしたとき、皆がまあ合意できるのは、「その研究者が生きているときには、誰もその研究の価値を理解できなかったが、死後その研究が大々的に評価されたというケース」ではないか、ということ。そのぐらい先進的な研究を行っていた研究者が最高の研究者なのではないか、ということは、恐らくほぼ合意事項だ。

A君:もしそうだとすると、論文すら採択されないので、最高の研究者は、誰にも評価されないで死ぬことになる。

B君:やはり評価をするということは難しい。

C先生:評価軸という言葉があるが、評価軸を1本にした評価というものは、単純だし大変便利なものだが、しばしば誤りを犯すという結論になる。インパクトファクター重視も、被引用回数も、どうも合わせて1本の評価軸にすぎないように見えるのだ。

A君:さて、LCAというものは何を評価軸にしてきたのですかね。

B君:基本的には環境を構成する要素からなる多数本の評価軸であるはず。

A君:環境問題というものは、地球上における人間活動によって起きる。これは、様々な形態を取るので、評価軸はまともに取り扱えば、非常に多様なものになってしまう。

B君:環境を本当の意味で理解しようとすると、地球のすべてと人間のすべてを知る必要がある、と言われる。

C先生:それは現在存在している学問をすべてマスターすることなので不可能なのだが、環境を本当の意味で知るためには、確かに、かなり広範な知識を必要とすることは事実。
A君:しかし、このところの大学の状況から言うと、広範な知識を身につけるという動機付けはほとんどあり得ない。

B君:自分の重心を固定しておいた方が有利だからだ。これは、現在の研究費のシステムに問題があるように思える。

C先生:現在の研究費は、古い時代からあった校費というものがほとんどなくなって、その代りに存在しているのが、科研費というような状態になってしまった。

A君:校費というものは、すべての国立大学に対してほぼ平等に配分されていたもので、まあ、効率の悪い使い方だったようにも思いますね。

B君:それで、科学研究費というものが、大学で研究を真剣に行おうとする人々のためのコメになった。

C先生:科研費の仕組みというのは、学問全体をいくつかの箱に分けて、その箱に対して提案書を投げ入れた人々が、その箱の中で審査員も決めて、申請総額に比例した研究費を受け取ってその箱の中で配分するという仕組みになっている。ということは、ある箱の中で有名になることが、その箱の中での生存をするために重要な戦略だということになる。一旦、有名になると、その箱から出ることは生命の危機だということになる。

A君:古い時代の校費というものは、全く使途を限定されないものだから、自由な発想で新しい研究に取り組むことができた。

B君:ということは、科研費にも箱以外の仕組みを組み込めば良いことになる。現在の科研費の枠組みは、過去の枠組みであって、現時点の社会的ニーズに適合した枠組みではない。

C先生:その通り。先日イギリスのサイエンス・カウンシルの一つを訪問して、仕組みなどについて議論をしたが、そこで学んだことの一つが、サイン・ポスティングという方法論。カウンシルが重要だと思うのは、こんな研究分野であるが、現時点では、研究者があまりいない。だから、ここに応募したら良い研究だと評価できれば、優先的に予算の配分をする、という標識を立てること。

A君:特別の箱を作って、そこに予算を積む。そして、その箱は、ときと場合によって大きくしたり、小さくしたりして、研究者を誘導する。

B君:しかし、それには、カウンシルの見識が問われることになる。

C先生:それは当然。しかし、サインポスティングのやり方次第で、どうにでもなる話でもある。やや広目の間口を構えて、かなり自由な研究を公募すれば、それこそ、校費で行う研究と同様に、研究者の自由な発想を生かすことができる。

A君:そんな枠組みが早くできることを切望しますね。

B君:A君よりも、自分が本来切望すべき立場にある。

C先生:最近自分がやっている商売が、ある意味で、研究の配分というものをどのようにすべきか、どこに集中的に出すべきなのか、それとも、広めに長めに出すべきなのか、具体的な研究課題は一体何なのか、ということを考えることなので、なんとか、日本版サイン・ポスティング制度を作ってみたいものだ。

A君:それにしても、今回のこの評価の話は、環境以外でも極めて重要な話ですね。

B君:環境の評価についても、たとえば、企業の製品に対する評価をする場合、トップダウンで評価の枠組みを与えるという方向性もあれば、逆にボトムアップで評価できる枠組みを与えるという方向性もある。

C先生:やっと環境の話に集中できるようになったかもしれない。環境の評価は、すでにさきほど指摘されているように、評価軸は多数ある。しかも、評価軸が多数あるとわかりにくいから、それを1本化しようというインパクト分析という考え方もあった。

A君:インパクト分析とは、例えば、ある製品の環境負荷を評価したとき、地球温暖化に関してはこの程度、人体の健康への影響はこの程度、生態系の健全性についてはこの程度、地球の資源についてはこの程度の影響を与えるとなったときに、この場合だと、4つの評価軸について、重みづけを行って、一本化すること。

B君:入学試験の場合だと、数学何点満点、英語何点満点、理科何点満点とか満点を変えることが行われるが、その満点を決める行為みたいなものが、重み付けと呼ばれる行為。
C先生:その重みづけをどうやるか、となると、これには正解は無い世界なので、どうやって正しいということを主張するか、という問題に取り組むことになる。

A君:こんな問題を解く場合、方法としては大体2〜3種類あって、世間の総意のようなものを正しいと見るやりかたと、エキスパートの見解を正しいと見るやりかたがある。これは似たような方法。別のアプローチとして、個人の見解を反映できる方法論を提供する、というやり方が有りますね。だから2〜3種類という記述になる。

B君:インパクト分析というものが社会に受け入れられないのは、その部分に正当性を見出すことが難しいからだろう。

A君:産総研のLCAセンターが行ったインパクト分析は、一般市民の感覚、特に購買行動を定量化する方法論であるコンジョイント分析を使った。しかし、環境問題のような複雑な問題に対する重みづけを市民レベルに任せるのは間違い。

B君:それはそうだ。地球温暖化などといっても、現在生存している人類の大部分はほとんど関係ない。20歳以下の人は、場合によると影響を受けるかもしれない。その影響を受けない人々に意見を聞いても、他人事だという反応をするだけで、それを重みづけに使えば、他人事係数にしかならない。

A君:個人の健康リスクについても、なかなか難しい問題がある。リスクの大小などが分かっている市民などはいない。

C先生:それもその通り。メディアは、一般市民を脅かすということによって、インパクトを稼ごうとする傾向が強い。特に、テレビというメディアは特にその通り。

B君:最近の市民は、テレビから情報を拾って、その真偽のほどを判断する能力もないのに、自分のブログでしかも無記名でその情報だけを広める。

A君:インターネットの無記名文化は、なくてもよい「いらない文化」かもしれないですね。

B君:みんなが実名で書くようになれば、情報の信憑性はかなり確保できるようになる。

C先生:話がずれているが、本質的なことは、いくつもあって、市民の総意のようなものを集めても、真の持続可能性のようなものは評価できない。やはり、エキスパートに判断を任せるべきだろう。
 真の持続可能性ということになると、それがどこにあるのか。個人的な見解では、ハーマン・デイリーの持続可能のための3原則がよいように思える。この持続可能性にとっても最大のエキスパートの判断基準が、LCAに取り込まれていない。

A君:ハーマン・デイリーの三原則とは、大体こんなものです。


B君:あまりにも厳しすぎて、本気では相手にされなかった原則とも言える。

A君:さて、これをどうやってLCAに取り込むか。これは大きな検討課題かもしれませんね。

C先生:もうひとつの方法論である判断を行う人の主観を取り込める方法の基礎は、すでに作ったつもりなのだ。

A君:CRESTの研究をやっていた2001年頃に開発された方法で、名前は時間消費法。各人が、例えば温暖化がこのままの状態だとあと何年後に危機的な状態になるかを予測し答えて貰う。その危機に至るまでの年数を用いて、その環境負荷の年間での総量を分母に、分子に該当する製品の環境負荷を入れて、年数に換算する。その意味ですが、ある製品が環境負荷をかけること、さらには、資源を利用することなどによって、危機に至る時間を短くしていることになるが、その短くなった時間でもって、その製品の環境負荷を統合化しようというもの。

B君:例えば、温暖化だと地球全体での環境問題。地球全体でのCO2の年間排出量を30Gトンと仮定する。もしも、年間でCO2を3トンの排出をしている車が有ったとする。その車は、CO2について、10のマイナス9乗年分の排出をしていることになる。もしも、温暖化によって、地球全体が50年後に危機的状況になるとしたら、この車の温暖化による非持続可能性への寄与は、2×10の11乗ということになる。

C先生:極めてプリミティブな考え方だが、地域を考慮することによって有害物質による非持続可能性も取り扱うことができるし、様々な評価が可能。しかも、個人の考え方を入れることができる。すなわち、いつその環境負荷で危機的な状況になるかということを推理すれば良いのだ。

A君:推理ですか。推理力が必要ということか。

B君:これまで環境人材育成の話をしているときには、そんな話は聞いたことがない。俯瞰力が必要とか、戦略構築力が必要とか、そんな話ばかりだった。

C先生:そうかも。最近、言い方を変えているのかもしれない。一般的な市民として環境に対して求められるのは、「感性」(=もったいない、あぶない)など。ただし、あぶないという感性は、過敏過ぎると言えるのが現在の環境の状況。

A君:確かに。環境から何かを摂取することで、健康被害がでると考えられるのは、極めて特殊が状況に限られるようになった。魚を食べて、健康被害が考えられるのは、まず極めて限定的。マグロを毎日食べるといったことをしなければ良い。食品添加物などで害が出ることも無いし、残留農薬でも同様。

B君:ただし、食品には、ギョーザ事件とか、メラミン事件とかがあって、犯罪が行われる場合には、その限りにあらず。

A君:このHPでも指摘しているように、メタミドフォスを基準値以上含んだ「事故米」の件は、不法行為であるが、安全性が損なわれた訳ではなかった。ミートホープの肉でも同様に、不法行為ではあるが、安全上特に問題はなかった。不法行為として取り締まれば良いのであって、安全面での対策を取る必要はむしろ、アフラトキシンの方だった。

B君:このあたりの理解が難しいのだろう。なぜならば、安全性は肌感覚すなわち、「感性」より「感覚」に近いので。

C先生:大学で環境を学んだとか、環境NPOをやっているとか、そんな人々に要求されるのが、「想像力」。このままだと、こんなことが起きるかもしれないという知的能力だ。

A君:それは、「推理力」とも言えませんか。

C先生:いやいや。「想像力」を支える知識力とは、人間活動と環境問題とを俯瞰的に理解する能力だ。何をすれば、何が起きるかというリスクの連鎖を理解しているかどうかだ。俯瞰図が頭に入っているかだ。
 それに対して、「推理力」とはより定量的な能力であって、いつ頃、どの程度のことが起きるかということを言い当てることができれば、それが「推理力」だ。

B君:大学院で環境を学ぶ人間に求められるのが「推理力」。

C先生:特に、LCAのような環境を評価する手法を勉強している人間が目指すべきことが、「推理力」の獲得だ。それには、環境全体をカバーする非常に広範な知識が必要で、それが、T型人間とかπ型人間が必要だと言われるゆえんなのだ。
 この「推理力」だが、英語だとなんというべきなのだろうか。reasoning capacityはちょっと違うような気がする。論理力とはちょっと違うのが推理力ではないか。deductive power はもっと違うかもしれない。演繹力よりもずっと直感的な能力を含むニュアンスなので。恐らく、insight がもっとも適切なのかもしれないが、果たしてネイティブはなんというだろう。