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 恐怖の化学 ガードナーのリスク論     07.12.2009
     



 本記事のメインパートは、日経エコロミーの7月15日号をご覧いただきたい。そちらで、総論が述べられる予定である。

 日経エコロミーから来られた方には繰り返しになるが、その記事は、この5月に刊行された本、
 題名「リスクにあなたは騙される 恐怖を操る論理」、ダン・ガードナー著、田淵健太訳、早川書房、2009年5月20日、ISBN978-4-15-209036-2、1800円+税。
 を紹介する記事である。

 この本の内容は大別すれば2つの部分からなる。まず、いかにリスクに正しく対処するのが難しいかという説明、そして、リスクの対処の具体的な例示である。具体的な例示としては、「犯罪と認識」、「恐怖の化学」、「テロに脅えて」という3つの章が用意されている。

 日経エコロミーでは省略したこれらの3つの実例に関わる章は、実は、結構面白い。本日の記事は、これらのうち「恐怖の化学」を紹介する。

 しかし、その前に、リスクに正しく対処することがいかに難しいかについて、極めて短く、ダン・ガードナーの結論をまとめてみたい。



ダン・ガードナーの4つの原則

 まず、リスクに正しく対処することがいかに困難かについてのダン・ガードナー氏の主張は、いくつかに分けることができる。

ヒトというものの特性

1.リスクを正しく理解するのは理性であって、感性はリスクを正しく理解できない。

2.人間の思考には、理性と感性がある。これをガードナー氏は、「頭」と「腹」と表現しているが、「腹」の判定速度が余りにも速いために、「頭」はその判断に異議を唱えることが難しい。

恐怖は利益に繋がる

3.社会に恐怖が流布されると、ある商売は利益を得る。例えば、新型インフルエンザが流行すれば、手の消毒薬とマスクが売れる。関連する研究費も増える。

4.メディアも恐怖によって購読者が増える可能性が強いため、恐怖を増幅することがあっても、それを抑える記事は書かない。

以上4つの主たる原因によって、リスクが正しく評価される可能性はない。

対処法

それなら解決法は無いのか。完全な解決法は無いのだが、上記3.4.の2項目を素直に認めてしまうことが出発点になるだろう。



第10章「恐怖の化学」

(a).NPO/NGOの主張と市民の思い

ダン・ガードナー
 グリーンピースの報告書によれば、「我々の体は多くの毒性化学物質の保管容器になっている」、「今や地球上のすべての人間が汚染されていると考えられており、我々の体は現在最大200種類の合成化学物質を含んでいる可能性がある」。

A君:と、ダン・ガードナーは書いているが、調査してみたところ、最近、グリーンピース・インターナショナルのHPにも、そんな記述がすぐに見つかるという訳ではなくて、むしろ、攻撃対象が、化学物質よりはむしろグリーン電気製品になっていますよ。

B君:国際的には、時代が変わったと言えるだろう。日本国内では、まだまだ化学物質が危険だと思う人が多いから、恐怖が商売になるのかもしれない。

ダン・ガードナー
 WWFは、「毒性化学物質が我々の体に侵入しつつある」と世界自然保護基金(WWF)のウェブサイトの見出しで警告が述べられている。WWFはヨーロッパの13家族の血液を分析し、73種類の人工化学物質を発見した。有害化学物質は地球上のほぼ全員の体組織に見つかっており、有害化学物質への暴露は、いくつかのがんと先天性欠損を含む様々な生殖にかかわる問題と関連づけられてきた」。

A君:こちらもダンはそう述べているのですが、調査してみたところWWF・インターナショナルのHPを探しても、そのような見出しはもはや見つからない。

B君:しかし、ダンの出身地であるカナダでは、哺乳瓶にポリカーボネート製のものは禁止になった。これは、ビスフェノールAが環境ホルモン性があるかもしれないという予防原則的な対応だとうことになっている。

C先生:ポリカーボネートの禁止については、WHOもEUも何も言っていない。もちろん、米国も日本も特に禁止の必要性があるとは言っていない。

A君:しかし、日本でも、どうせ哺乳瓶にポリカーボネート製のものは無いので、禁止してしまったらどうだという主張を聞いたことが有りますね。

B君:それは禁止ができれば、日本社会に恐怖を広めることができて、ルール3によるメリットを享受できる人々が居るということ。主として研究者だろうが。

ダン・ガードナー
 このような喧伝のためか、一般社会は、化学物質が大嫌いである。ポール・スロビックがフランスとアメリカ、カナダで実施した調査によれば、次のような結論が出ており、それは、他の国でもそれほど変わらない。

1.3/4以上に人々が、「日常生活において化学物質や化学製品となるべく接触しないように心がけている」。

2.3/4以上の人々が、「水道水にいかに微量でも発がん物質が見つかったら飲もうとは思わない」。

3.70%の人が、「がんを引き起こすことのできる化学物質に暴露されたら、おそらくいつかがんになる」、と考えている。

4.60%の人が、「化学物質のリスクを削減しようとするとき、コストが高すぎるということはあり得ない」、と考えている。


A君:日常生活でいくら避けても、どうしようもない。なぜならば、人工物だけが毒物な訳ではない。天然物の方が却って毒性が強いという場合も多い。他の対処法も、真実を知れば、馬鹿馬鹿しいことが明白。

B君:もちろんだ。

ダン・ガードナー
 さらに、人工化学物質という言葉は、極めて勢力的に避けようとされているにもわらず、天然化学物質に対しては、それほどの注意が払われない。むしろ、天然物は体によいと素直に信じている。

A君:しかし、ひどいものですね。水道水の現時点における最大のリスク要因は、恐らくヒ素になった。塩素消毒によって副生されるトリハロメタンは、以前、発がん性が問題にされていた時代もある。しかし、最近、かなり注意深く塩素量が制御されているために、少なくなった。

B君:ヒ素が最大のリスク要因というのは、実際のところ化合物としては、であって、本当のリスク要因は、以前として細菌による汚染。日本の水道は、この点はほぼ完璧。

A君:タイあたりだとノロウイルスが水道水から見つかる。

B君:3.の発がん物質を摂取したら将来必ずがんになるという思いはどこから来ているのだろうか。

A君:毒物が体内に蓄積されるということからでは。しかし、最大の発がん物質である活性酸素は、呼吸によって造られてしまう。

B君:そんなことを言われたら、呼吸もできない。自殺する以外になくなる、といった感触の人々が多いのでは。

A君:まあ、みずからのDNA修復酵素と、ナチュラルキラー細胞を信じることが最大のコツ。

B君:健康になりたいとくよくよして、各種健康法に走るのが、ストレスを増大して、実は最悪。


(b).「沈黙の春」は癌に対する恐怖を利用した

ダン・ガードナー
 1962年に発行されたレイチェル・カーソンの「沈黙の春」は、化学物質に対して、最初に警鐘を鳴らした本として良く知られている。本来、その警鐘は生態系への化学物質の影響にあるべきだったのだが、それだけの記述では、これほどこの著書が有名になったとは思えない。
 カーソンは、化学物質ががんの主たる原因であるという思いを、一般社会に埋め込むことに成功し、これがこの著書の販売を圧倒的な力で加速した。
 この時代、化学物質ががんの発症主たる原因であるという考え方が採用されても、仕方のない状況にあった。


ダン・ガードナー
 カーソンは、次のように書いている。
「タバコには、ヒ素を含む殺虫剤が噴霧されている。米国産のタバコから造られた紙巻きタバコのヒ素含有量は、1932年から1952年のあいだに、300%以上増加した」。
 すなわち、カーソンは、当時の一般的な仮説、すなわち、死を招くのはタバコの煙を吸うことではない。タバコは自然界に存在するもので、安全である。死を招くのは、タバコに添加されている化学物質である。この仮説は、国立がん研究所のウィルヘルム・ヒューパーによって唱えられた。彼は、カーソンに重大な影響を与えた人物であり、「沈黙の春」に繰り返し引用されている。


A君:ダンは、別のタバコ会社のコマーシャルをからかっていますね。

ダン・ガードナー
 2006年に米国の雑誌に載ったタバコの広告。「ナチュラルアメリカン・スピリット」は、100%無添加の天然タバコを用いて作られた紙巻きタバコだけでなく、100%有機栽培のタバコで作られた紙巻きタバコも扱っている唯一のブランドです」。「ほとんどの紙巻きタバコに使われているタバコは、タバコ製品に一般的に用いられている409種類の化学物質の一覧表から選ばれた添加物を含んでいます」。


B君:カーソンの時代に、タバコの害の原因がタバコに噴霧された殺虫剤にあるという誤解をすることは、ある程度しかたがないこと。しかし、2006年にこんな広告を出すということは、少なくとも広告を作る連中の常識がこの程度だったということを意味するのだろう。

A君:そういえば、テレビ関係とか、広告関係とか、タバコを吸う割合が多いような気がする。


ダン・ガードナー
 『沈黙の春』でカーソンが心配していたのは、合成化学物質、特にDDTの見境のない使用によって自然界が被っている被害だった。殺虫剤DDTは、鳥の個体群を絶滅させ、鳥のさえずりがないためか静かな春にしてしまう恐れがあると考えていた。
 しかし、ここで終わっていれば、この本は恐らくそれほど重要なものにはならなかっただろう。カーソンは、さらに、自然界に重大な被害を与えている様々な種類の化学物質が、人類にも、深刻な被害を及ぼしていると主張した。
 「四人に一人」という題名の章で、19世紀後半に始まった合成化学物質の急増が癌の増加と並行して起きていることを指摘している。米国において、癌は「死因として、1900年に全死亡のわずか4%を占めていたのに対して、1958年は15%だった」。一生の間に癌になる確率はやがて4人に1人といった恐ろしい値になるだろう。そして、「子どもに関する状況はさらに強く不安にさせられるものである。25年前、子どもの癌は、医学的に希なものと考えられていた。今日、米国の学童は、ほかのどんな病気より癌で死亡する場合が多い・・・・1歳から14歳までの子どもの全死亡数の12%が癌によるものである」。

A君:がんという病気に対する感覚ほど、変遷をしたものもないでしょう。昔は、「腐食生物で肉体だけでなく魂の生命にどん欲に触手を伸ばす。それは肉をかじり取るように、意志を破壊する」だと、ダンも述べています。

B君:まあ、カーソンは4人に1人といってがんの死者が増えていることを心配していたが、がんは基本的に老化がその原因。長寿になれば、がんに掛かる率は100%になってもおかしくはない。

A君:まあ、そうでしょう。すべての人が100歳まで生きるようになれば、すべての死因はほぼがんでしょう。


(c).がんの原因と環境(化学物質)

C先生:がんの原因として、遺伝子と環境という二つの側面がある。この環境という言葉が、これが実は大問題。がんの発生原因には環境要因がある、というと、その内容は「化学物質への接触」を意味すると思われてしまう。

A君:その通りです。ダンもそれを指摘しています。

ダン・ガードナー
 ジョン・ヒギンソンという研究者は、後にWHOの癌研究機関を設立したが、アフリカ人の癌性腫瘍とアフリカ系米国人の癌性腫瘍を比較する研究を行った。その結果、ヒギンソンは、後者の方に癌がずっと多いことを発見した。このことは、遺伝が癌の発症を促す大きな原因ではないことを示した。
 この研究に基づいて、すべての癌のうち約2/3に環境要因というものが存在すると推定した。
 ヒギンソンは、環境という言葉をカーソンのような意味に使ったのではなかった。環境は単に遺伝に関係しないというものすべてを意味する言葉だった。「吸っている空気や暮らしている文化、住んでいる地域の農業の習慣、社会的文化的習慣、社会的圧力、接触する化学物質、食事などだ」と述べた。
 この分野の科学が進化するにしたがって、このヒギンソンの仮説が正しいことが裏付けられ、癌の専門家がほとんどの癌に環境因子があると述べることが普通になった。
 ところが、このことは誤解を深めただけだった。「あとになって多くの混乱が生じた。ほとんどの人が、初期の文献を確認せずに『環境』という言葉の意味を化学物質という意味で使っていたからだ」、とヒギンソンは語った。
 この誤った考えは、いまだに環境活動家のあいだで広く普及している。
 グリーン・ピースの共同設立者ボブ・ハンターは、2002年に次のように書いた。「癌は環境の病気と認められてきた。つまり、癌は、空気や水、食物に由来する毒性化学物質を吸収することによって細胞内に引き起こされる」。

A君:確かに『環境』ががんの原因だという思い込みは多いかもしれません。特に環境=化学物質だという思い込みを含めて。

B君:膨大な人工化学物質が身の回りに大量に存在していることをカーソン以来気づくようになったから当然とも言える。

A君:しかし、ヒギンソンは、そんな単純な理由で、環境とがんが関連づけられた訳ではないと述べているようです。

ダン・ガードナー
 ヒギンソンは次のように述べた。環境保護主義者が、「癌の恐怖のせいで極端な見解が都合のよいものであることに気づいた。汚染によって癌になるとなんとかして世間に信じさせることができれば、水や空気だって、浄化がやりやすくなる」。
 「しかし、このような間違った議論を用いるべきでない。あらゆる環境上の害悪の代わりに癌を引き合いにだすことは、タバコの場合のように、癌が実際に問題になったときに、効果的な行動をとる妨げになるかもしれない」。
 「世間にとっても、このような見解は都合の良いものである。そのため、世間は、癌が汚染あるいは通常の環境によるものであることを証明できればいいと強く思っている。『あらゆるものを暴露ゼロのレベルまで規制させて欲しい。そうすれば我々はもう癌にならない』というのは非常に簡単だろう。この考えは非常に魅力的であるため、この考えに反する『大量の事実』を圧倒することになる」。

A君:この最後のところですが、「なるほど」と手を叩いてしまいましたね。そうなんだ。アメリカ・カナダの人々は、自分の好きな牛肉を食べることでがんになるとは思いたくないのだ。実際には、獣脂の過剰摂取は、発がんを加速するのですが。

B君:牛肉に付着しているなんらかの化学物質ががんの原因なら、それを完全に除けば良い。そうなれば、牛肉を安心して食べることができる。なるほど。この発想は、極めて単純かつ切実だ。だから、「大量の事実」を圧倒してしまう。

C先生:このあたりの理解が1979年頃だったとダン・ガードナーは述べている。しかし、その後、「大量の事実」は着実に増えたのだが、それは世間一般にとっては、都合の悪い事実だったのだ。だから、ダン・ガードナーの言う、「腹」はそれを無視する。

ダン・ガードナー
 今日、指導的立場にある癌研究者の間では、環境中にある微量の合成化学物質(普通の人の血液検査で見つかるもの)が癌の主な原因ではないということで意見が一致している。
 米国癌協会の”2006年の癌の事実と数値”という文書、「職場や地域社会、その他の環境における汚染物質の暴露は、癌による死亡の原因として比較的小さなパーセンテージを占めると考えられる」。
 「なかでも職業関係の暴露(アルミニウム精錬所の労働者や過去の危険な労働環境下でアスベストを採掘した鉱夫が該当する)は、飛び抜けて最大の区分であり、すべての癌のおよそ4%の原因になっている」。
 米国癌協会の推定によれば、すべての癌のうち、2%だけが「人工のおよび自然に存在する環境汚染物質(自然界に存在するラドンから工場の排気ガス、車の排ガスまでのあらゆるものを含む大きな区分)への暴露の結果である。

A君:アスベストの発がん性は明らかですが、アルミニウム精錬所の労働者が受ける暴露は何でしょう。

B君:アルミの電解精錬のことだろうか。となると、使っているのは、フッ化アルミニウムと黒鉛電極ぐらいか。

A君:フッ化アルミニウムはIARCのリストには無いですね。黒鉛電極が高温になると何を作り出すか。何か有害物がでそうですね。

B君:ベンゾピレンなどが出るのだろうか。IARCのリストはWikiのもので十分。何が可能性があるか、後日検討。

A君:単なる鉱油も発がん物質に分類されているし、あるいは、単なる煤かも。煤も発がん物質なので。


(d).それなら何ががんの原因か

C先生:それなら何ががんの原因か、という話をしなければならないのではないか。

ダン・ガードナー
 主要な保健機関は、環境中の微量な化学物質が大きな危険因子ではないことに同意している。きわめて重要なのは生活様式である。喫煙、飲酒、食事、肥満、運動。これらは極めて大きな影響を及ぼす。ほとんどの推定で、すべての癌のおよそ65%の原因は、これらの5項目であるとしている。

C先生:それなら残りの35%のがんの原因は何だ、と問われるだろう。

ダン・ガードナー
 癌が主に老化の病気であるという単純な事実が除外されている。すべての人が100歳まで生きるようになれば、一生の間に癌になる確率はほぼ100%になるだろう。
 もしもそうなったときに、この事実に対して人々は、ショックを受けた口ぶりで、「癌がほぼすべての人を襲う」と言うだろうか。多分言わないだろう。そのことをむしろ祝福すべきと考えるのではないか、と思う。

C先生:しかし、老化の関わらない癌も増えている。小児癌が増えているのは何故なのか。


(e).小児癌は増えている

ダン・ガードナー
 ウェンディー・メスリーは自らが出演しているCBCのドキュメンタリーで、「小児癌は過去30年間に25%増加したと述べた。この統計はある程度正しい。
 それ以外にも事実がある。増加が1970年から1985年の間で起き、そのあと止まった。
 1970年に10万人の子どもに対して13件を少し上回る癌の症例があった。その後、この値は増加し、ピークの年に子ども10万人あたり16.8症例になった。
 一方、死亡率は着実に低下した。1970年に子ども10万人あたり約7人が癌によって死亡したが、30年後にはその数は3人に下がった。
 それでは、何が小児癌の症例の増大をもたらしたのか。
 この回答はかなり難しい。専門家は、症例が増え、死亡率が上がっている場合には、癌は確実に増えていると考える。この逆の場合もある。しかし、一方が増え、一方が減る場合には、なにか不確実な要素があると考える。
 1980年代半ばに終結した小児癌の増加に対する答えは、不明だが、このような指摘もある。慈善団体のキャンサー・リサーチUKは、「癌の診断と登録のための制度の効率性が改善されたことが、登録率の増加に貢献したのかもしれない」と述べている。

(f). 不安なことは予防的に措置すべし?

ダン・ガードナー
 化学物質が我々を殺しているという主張の唱道者達は、最後の反撃に出ている。我々には本当のことが分かっていないのだと。「不安なことだが、これらの化学物質がどんな影響を人間に及ぼすかを実際には誰も知らないというのが実情である」、とグリーンピースは報告書に書いた。「我々はみな知らないうちに、規制されていない地球規模の実験に参加している。それは止めなくてはならない」、とWWFは言っている。

C先生:現在の日本の状況はまさにこんなところだ。

A君:非常に多くの合成化学物質がまだ厳密に調べられていないのは事実ですからね。

B君:環境ホルモン問題だって、たしかに、知らないことが多いのは事実。

A君:どこまで知っていれば、分かったと言えるのか、その限界が分かっていないのも事実。

B君:ビスフェノールAがその代表例かもしれない。

C先生:そのとき、予防原則という言葉が出てくる。ところが、予防原則というのは、言葉としては一つなのだが、その中身になると、なかなか合意形成すらできない。

A君:国連の予防原則は、「重大あるいは復元不能な損害の恐れがある場合、十分な科学的確かさが得られていないからといって、そのことを、環境の悪化を防ぐための費用対効果の大きい手段を講じるのを延期する理由として用いてはならない」。

ダン・ガードナー
 多くの国際決議と同じく、この原則も曖昧さに満ちている。どんなことが「重大な損害」に適合するのか? 「費用対効果の大きい手段」とは何か? そして、「十分な科学的確かさ」を必要としていないことは明らかもしれないが、行動を起こす前にどのぐらいの多くの証拠を持っているべきか? 
 予防原則は、それほど賢明なものではない。法律学の教授であるキャス・サンスタインが著書「恐怖の法律」の中で主張しているように、予防原則は、リスクの規則に関する実際的な助言を与えてくれる原則というよりは、「人を心地よい気持ちにさせてくれる考え方」にすぎない。リスクは至る所に存在するので、現在影響を及ぼしているリスクと現在影響を及ぼしていないリスクの両方に直面することが良くある、と彼は指摘する。そして、こういった状況だと、予防原則は役に立たない。

A君:このような場合の意志決定は、確かに、選挙民に心地よい気持ちを与えるサービスとして行われる場合が多い。

B君:日本の場合だと、BSE対策がそれだったかもしれない。実リスクなどはほとんど無いのだが、国内の畜産業保護という農業政策としての側面と同じぐらいのウェイトで、消費者に心地よい気持ちを提供するという政治的な決断が行われた。

C先生:過去を学ぶということができる場合とできない場合がある。予防原則が正しいかどうか、過去の事例に当てはめることはできても、現在直面しているビスフェノールAへの対応に予防原則を採用すべきかどうか、すなわち、真のリスクが分からない間はビスフェノールAの製造・使用をすべて止めるべきか、という問いに対して、正しい答えを求めて、過去の歴史を学ぶのは有効でないかもしれない。

A君:DDTの歴史は、実のところ極めて興味深いのですが、これを学んだといっても、ビスフェノールAに対する回答が出るというものでもない。

B君:まあ、一応何か書いておくか。

ダン・ガードナー
 DDTがかなり大量に使われたのは、1943年10月に発疹チフスが占領から解放されたばかりのナポリで発生したときのことだ。一撃のもと、感染したダニ、ノミ、シラミが死滅したため、病気の流行は一掃された。
 第二次世界大戦が終結すると、憔悴した捕虜や難民、強制収容所の収容者に広く用いられた。無数のホロコーストの生存者が今日悪し様に言われている殺虫剤のおかげで生きていることを考えると、かなり厳粛な気持ちにさせられる。

C先生:我々世代でも、DDTを頭から吹きかけられた記憶がある。実際に自分がそれをやられたのか、あるいは姉や兄がそうだったのか、その記憶は曖昧なのだが。

ダン・ガードナー
 マラリアに関して言えば、DDTは、マラリアの「抑制」以上のことを成し遂げた。「WHOが支援した世界的な取り組みによって、1950年代と1960年代のマラリアが撲滅されたが、DDTはそのとき用いられた主要な手段だった」、と2005年のWHOの報告書は述べている。「この活動は、世界の多くの地域においてマラリアの伝播を大幅に抑制し、おそらく、ヨーロッパと北米におけるこの病気の撲滅にも貢献した」。どのぐらいの数の人命を救うのにDDTが役に立ったかに関して推定値にばらつきがあるが、その数は、数100万人までは確実で、恐らく数1000万人だろう。

C先生:その通りなのだ。だからといって、DDTを規制したのが全面的に間違いだったのか、と言われると、それも難しい。もしもDDTの規制を全くやらなかったら、どうなっていたのだろうか。

ダン・ガードナー
 反環境保護主義者は、しばしばこんな主張をする。「DDTは完全に無害である。間違いなく効果がある。DDTのみの力によって、北米と欧州のマラリアが一掃された。アフリカ人が自分たちの子どもたちを救うためにDDTを使うことを環境帝国主義者が許可しさえすれば、アフリカでもDDTによってマラリアを一掃できる」。
 しかし、これは単純過ぎる。DDTが与えた害、例えば、鳥に対する影響などを無視している。さらに、DDTに対して蚊が耐性を急速に付けたことも無視している。実は、1950年にDDTを農業用途で用いることを禁じたことが、DDTをマラリアと戦う武器として用いることを可能にしている。
 WHOの推定によれば、マラリアによって毎年100万人が死亡しており、さらに200万人がマラリアが一因となった疾病で死亡している。そのほとんどが子どもであり、そのほとんどがアフリカ人である。
 予防原則は、DDTについて、何を語るのか。恐らく全く役に立たない原則である。

C先生:DDTに関する歴史的事実は、環境学の教科書にかなりのスペースをとって書かれるべきことだ。
 DDTは、現時点では、北極域の海棲哺乳類に蓄積されている。奇形が発生しているとの主張もある。
 これをどのように考え、今後の決断の糧にするのか。これは非常によい教材だが、残念ながら、答えもまだないのだ。

A君:リスクはあらゆるところにあらゆる形態で存在しています。しかし、人々は、そのすべてのリスクが見える訳でもなく、また、あるリスクの判断に「直感的毒性学」を用います。「理性」では判断しないで、「腹」で判断するのです。

B君:まあそうだ。「毎年三万六千人がインフルエンザと合併症で死亡(米国)」、「毎年10万人が肥満によって死亡している可能性(米国)」、「チェルノブイリの推定死亡者9000人」、「皮膚がんと診断される米国人100万人」、「皮膚がんによる米国死亡者1万人」、などなどのデータを示されても、一体どのリスクを重視し、どのリスクは無視するのか。その判断も「腹」が行う。

A君:しかし、「心地よい解」というものが一方で決まっていて、それは、「リスクをゼロにできる」からどの方向に向かって努力すれば良いという単純なもの。

B君:やっかいなことに、それが正解でないことを「腹」が理解しない。

C先生:なんとすでに1万字を超している。が、このダン・ガードナーの指摘は、多くのものが真実に近い印象だ。特に、心理学的な解釈には、なるほどと思わせるものがある。

A君:ただ残念なことに、実例がカナダあるいはアメリカのものばかりで、ヨーロッパの例が極めて少ない。

B君:日本の実例をこのようなロジックで書いてみるとどうなるのか、これは大きなチャレンジ課題になりそうだ。

C先生:こんなところで結論にしよう。この大きなチャレンジ課題には、本当に、誰かがチャレンジすべきだ。