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  環境倫理の第一原理 01.05.2003



 今さらのごとく環境倫理などを議論することにしたのは、こんな訳である。本年3月に、ある学会で環境倫理の講演を依頼されているからである。以前、環境倫理といった題名で講演をしたことがない訳ではない。環境倫理の歴史のようなことをしゃべった。しかし、このところ、環境倫理を主題にしたことがないので、多少復習を要する。

 などと思っていたところ、大学院博士課程のK原君が、環境倫理の話がでてますよ、ということで「倫理21」、柄谷行人著、平凡社、2002年2月23日初版(ISBN4−582−70224−4)なる書物を紹介してくれた。

 第一原理と言う言葉は、恐らく哲学・倫理などでは使用されないと思っていたのだが、この「倫理21」の中にでてきたので、今回、特に使用している。多分、似たような意味だろう。

 われわれ理工学屋が第一原理というと、First Principleあるいはab initio計算を意味し、分子軌道について、大きな仮定なしに基本原理に基づいて行う計算を言う。要するに、基本原則といった意味だ。


C先生:これまで環境倫理を直接の課題とするような原稿も書いたことがない、倫理ということに関連することでは、工学倫理などの原稿はしばしば書いているが。

A君:その柄谷行人氏は、文芸評論家、近畿大学教授。哲学者だと思いますが、出身は東京大学経済学部。

B君:今回のHPの話題は、題名から判断すると、環境倫理の第一原理ということになっている。これは環境倫理を語る場合の至上命令というか、なぜそうなんだ、という質問を繰り返したときに、最後に到達する原理を記述しようというもののようだ。一人が柄谷行人流で行くとしたら、あと二種類の至上命令を考え出さなければならない。

C先生:考えるために、どんなところから議論をしようか、と考えてみたが、環境倫理も実際のところ、様々な方向性がある。例えば、「どこまで自然保護をすべきか」、という命題も環境倫理の課題だし、「環境のヒトへのリスクをどこまで低下させる必要があるのか」、も環境倫理の課題の一つかもしれない。しかし、今回は、もっと重要というか典型的な課題を中心に据えたい。それは、「世代間の調整をどこまで考えなければならないか」、ということだ。

A君:現世代は未来世代の権利をどこまで認めて行動すべきか、という課題が世代間調停とか世代間調整とか言われる問題で、自然環境の保全、資源・エネルギーの枯渇、といった問題については、世代間調整についての考察が必須です。

B君:先ほど言ったように、議論の根幹をなす至上命令を探し出すことが必要条件だ。うん。これで行こうという案ができた。

A君:こちらも準備完了。

C先生:それでは、私は柄谷行人流で行こう。この「倫理21」で環境倫理関係の記述は、わずかだ。第12章に「生まれざる他者への倫理的義務」なる文章があって、合計8ページにすぎない。そこでの第一原理=至上命令は、カントの次の言葉が採用されている。「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」

A君:しかし、なぜそれが至上命令あるいは第一原理なのか、といわれればどうももっと別のものがありそうですが。

C先生:それは、かなり説明が難しいのだが、自由というものは、一般には義務なり強制なりが無いと、それを定義するのが難しい。すなわち、ある制限からの開放を目指すことが自由だからだ。しかし、束縛がないと自由が定義できないというのでは不完全だ。柄谷行人曰く、「自由になれ」という要請があるものと仮定すると、そこから出てくるのが、この文章になるとのこと。ということで、他人の言葉を説明するのは、実に難しい。

B君:「未来世代を手段として扱う」ことはできないように思うが。

C先生:確かにそのように思う。だから、「未来世代を目的として扱え」という意味になるものと考えられる。

A君:「目的として扱う」とは、「彼らにも自由を確保すること」を目的とせよ、と読めますが、それでよいのでしょうか。

C先生:余り確定的なことは言えないが、そんな解釈でよいのではないか。

B君:ちょっと考え直した。「現世代が自分の自由を確保するために、未来世代にツケをまわす」、ということを「未来世代を手段として扱う」ことだと解釈すれば、これも成立するのかもしれない。

C先生:いずれにしても、現世代が勝手気侭、自分本位に行動することが、未来世代を目的として扱うことにはならないことは事実だろう。

A君:これで終わりでは、余りにも単純なのでは。

C先生:マルクス主義なるものとコミュニズムが違うこと。カント=マルクス主義な思想がかなり広がったことがあること。コミュニズムというと共産党独裁による国有化経済と言う考え方は、まさに非マルクス的であることなどがの議論があり、さらに、資本と国家の関係などが記述されている。

B君:だからといって、未来世代と直接の関係はない。

C先生:いやいや。まず、資本というものをわれわれ現世代が制御できるものだ、と考えてはいけないということが説明されている。原著の言葉を使わせてもらう。

「たとえわれわれが考え方を変えても、資本の運動は止まらない。なぜなら、資本の蓄積はわれわれの欲望から生まれるのではなく、その逆に、それがわれわれの欲望を生み出すのだから」。

「したがってまた、どんなに環境的危機があっても、資本の運動は止むどころか、逆に、それがわれわれの考えを変えてしまう可能性が強い。つまり、先進資本主義国家は、その「国民」の幸福のために、将来の危機において戦争を辞さないでしょうし、「国民」の間にナショナリズムを喚起するでしょう」。

「そのような事態を避けるために、われわれは何かをしなければならない」。

「持続可能な循環的な社会をグローバルに形成すること、それは、資本制でないような生産と消費の形態を作り出すことであり、具体的にいえば、それは消費−生産共同組合のアソシエーションです。これこそマルクスが「可能なるコミュニズム」と呼んだものに他なりません」。

「資本と国家への、そのような対抗運動は、今からでも可能なのです」。

A君:どうも「資本制でないような生産と消費の形態を作り出す」ことが重要と言う結論ですね。消費−生産共同組合ということは、ローカルプロデュース的な意味?

B君:少なくとも、生産者と消費者の距離が近い。

C先生:少なくとも、資本制でないシステムを作ることが未来世代との調整には必要だということか。

A君:われわれが自律的な地域共同体を作らないと、資源・エネルギーは100%枯渇に至る、と主張していることと類似した結論ではあります。

B君:しかし、今回の議論の本質は、第一原理なんだが、最終的に導かれる結論が同じと言う確認ができた。

C先生:結論だ。柄谷行人流の第一原理というと、「自由であれ」、「他者を手段のみならず目的としても扱え」。

A君:それでは、私の第一原理を説明します。それは、「地球は公共財だから」。そもそも、土地の所有ということにしても、なぜ個人が土地を所有できるのか、と問われると良く分からない。しかも、子孫に相続ができることも、まあルールとしてはありうるけど、その理由はなぜかと問われると、それ以外だと、混乱が大きくなるから、とでも答える以外には無いのでは。

B君:鉱山の採掘権にしても、漁業権にしても、不思議と言えば不思議だ。

A君:二酸化炭素の処理能力も公共物。

B君:資源・エネルギーも未来世代を含めて公共財だ。

C先生:環境関係全般に公共財だと考える。どうも、これもコミュニズムもどきか。資本主義的ではなさそうだ。

B君:次は、自分の番。第一原理は、「人類は霊長類だから」だ。これは原理というよりも事実なんだ。霊長類の特徴とは何か。いろいろあるのだが、生まれたときに非常に未熟な形で生まれること。本能が極めて不完全であること。したがって、大脳で自らの生命をコントロールできないと、生存が危うくなる。

A君:大脳でコントロールをしようとすると、知識を集積する以外に方法はない。知識は、過去の世代から現世代へ、現世代から次世代へ渡される。

B君:となると、現世代の義務として、次世代になんらかの知識を伝達すること、というものが存在することになる。もしも、人類の持続可能性を実現しようとしたら、次世代に正しい知識を与えなければならない。となると、自らも正しい知識を獲得し、それに基づいて行動をする必要がある。

A君:将来世代との調整は、したがって、自然に行われる。

C先生:これも、毎回毎回主張していること。すなわち、本能、これは人間の場合には完全なものではないのだが、その本能が支配する欲望を大脳が制御できるかどうか、これが持続可能性が実現の方向を向くかどうかの鍵だ。

A君:この最後の第一原理が、どうも一番しっくりくる。

B君:これまで何回も主張していることだし。

C先生:「人類は霊長類だから」などという原理原則は、結構理系の第一原理的で良いように思う。