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 IPCCの権威失墜(?)と日本辺境論     04.11.2010
     



 内田樹氏の著書、「日本辺境論」を読んだ。新潮新書 336、2009年11月20日発行、¥740+税。

 日本人の持っている共通のマインドを、すぱっと切って、納得できる断面を示している。

 どのような本なのか。そのp21にある記述を引用すれば、

 本書における私の主張は要約すると次のようなことになります。
 「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく、国民全体の心理を支配している、一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。
 おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族のちがいであろうと思う。」

 ここで、なぜ、主張の要約が「」の中に入っているか。

 実は、この「」内の言葉は、梅棹忠夫著「文明の生態史観」からの引用だ、と謎解きが行われる。

 内田氏は、このすでに何回となく語られているこの”事実”を再度検証することだけがこの本の目的だとする。

 この事実とされる日本人共通のマインドは確かにある。国連大学に所属していたとき、海外から日本を眺める機会を与えられたためもあり、いつもいつも実感させられるところであり、同意できる。

 ですます調、かつ、私という主語が頻繁に出てくる文体を用いつつ、独特の単語を駆使するという手法をふんだんに活用して、説得力を高めている。巧みな文章である。

 しかし、この内田氏の本の目的は、実は、梅棹忠夫の言葉の検証だけではない、とも思う。そのようなフリをしつつ、目次からも明らかであるのだが、実は「機」という武道家の極意の説明を本書に組み込んでいる。文明論よりも、本当はこの部分を書きたかったのではないか。

 まあ、そんなことはどうでも良いことである。このインパクトの強い本を読んで、今、雑文的に記述したいことは、気候変動問題を、内田氏の本の中に見られるいくつかの本質的な指摘を基盤として、再考するとどのようになるかを検証することである。

 ターゲットとしては、大阪出張の往復で見かけたWedgeという雑誌の4月号に書かれている、伊藤公紀氏と赤祖父俊一氏の記事を取り上げたい。


辺境的文明観

 辺境的な文明観をもっているから、こんな行動を取る。内田氏の本には、これぞ典型とでも言えそうな行動様式がいくつも指摘されている。加えて、日本という国の特殊性も指摘されている。これらを、まずは、リストにしてみたい。

*西洋近代を基準にして、「だから日本はダメなんだ」と短絡的に結論する。
*知識人のマジョリティは日本の悪口しか言わない。
*日本には建国の理念がない。
*日本がどのような国であるか国民的な合意がない。
*他国との比較でしか自国を語れない。たとえば、日本はアメリカについで経済力が二位であったが、中国に抜かれて三位になりそうだ。
*あのときは、ああせざるを得なかった、と空気のせいにする。
*ロジックはいつも被害者意識から。
 すなわち、北朝鮮にテポドンを打ち込まれたらどうする、だから、核武装をすべきだ、といったパターンの発想をする。
*過去も現在も、日本人は一度として自前の宇宙論を持ったことがない。
*決して、「私たちは国際社会のために何ができるのか」と考えない。
*人種や信教や言語や文化を超えるような汎通性をもつような大きな物語を語れない。
*他国の範になることが日本人だけには禁じられている。
*日本人が卓越していることを主張している人々は多いが、他国に先だって、人間として範をしめすべきだと主張する人はいない。
*歴史を貫いて先行世代から受け継ぎ、後続世代に手渡すものが何か、ということを語らない。

 かなり思い当たる節がある。これらの縛りをもたない人間、すなわち、辺境人ではない人間は、何ができるのか。内田氏は、辺境人でない人間は、「指南力のあるメッセージを発信することができる」としている。どのような発言が、辺境人ではない人から発せられる指南力のある発言なのか。この答えは、実は、1行で表現できるという。

◎そんなことを言う人は今のところ私の他に誰もいないけれど、私はそう思う。

 どうして「私はそう思う」ことが可能なのか。それも、実は、1行で表現することができる。

◎その正しさは、今ある現実のうちにではなく、これから構築される未来のうちに保証人を求める。

 要するに、誰も未来などを正しく予測することなどはできない。だから、未来に対しては、誰がどのような発言をしても許される。だからこそ、未来を語ってこそ、指南力が発揮できる。それなのにあるべき地球規模の未来を語らないのが辺境人だ、ということなのでしょう。


拠り所を失った温暖化論?

 Wedgeなる雑誌の4月号。2つの特集があって、一つは農業、もう一つが温暖化。温暖化については、伊藤公紀氏と赤祖父俊一氏がそれぞれの主張を書いている。

 伊藤公紀氏は勉強家で、論文などをフォローしているだけあって、議論が細かく、かつ正確のように思える。

 しかし、内田流の判断記述に照らせば、やはり辺境人的論説になっている。

 まず、問いかけから始まる。鳩山政権がCO2排出量25%削減の根拠は何か。それは、2007年のIPCCの第4次報告書が出した「20世紀後半の気温上昇や異常気象はCO2の濃度増加による」という結論だろう。しかし、IPCC自体が崩壊の危機に瀕している。

 「すなわち、第4次報告書には、ねつ造された部分がある。それなのに、25%削減をしようとするのか」、という問いかけである。

 辺境人である日本人は、IPCCという権威が日本の外部にあったから温暖化を信じたのだろう。その権威が英国や米国、さらにインドなど外国で揺らいでいるのだから、日本でも信じるのを止めたらどうだ、という主張だとも言える。これ自体が辺境人的である。

 このような主張に対しては、こう反論をすることになるだろう。CO2の排出量が現時点のように急激に増大していることは認めるのか。そして、CO2が温室効果をもった気体であることは認めるのか。もしも両方ともYesであるのなら、今後、地球の平均温度は上昇すると仮定することは、極めて正当な仮定だとは言えるが、そう思わないのか。

 この問に対して、伊藤氏、赤祖父氏はどう反論するのか、その推定は後ほど行うとして、まずは、IPCCの権威がなぜ揺らいでいるとされているのか、その根拠を見てみよう。

 
IPCCの信頼が揺らいでいる?

 以下は、伊藤氏の文章からの要約である。

 ヒマラヤの氷河が2035年に消失するというIPCC第4次報告書の記述は、全く根拠が無かった。この結果を生み出した原因となる事件は、インド国内で起きた。

 氷河学者である、V.K.ライナが行った綿密なヒマラヤ氷河の調査があった。サイエンス誌(09年11月13日号)によれば、ライナは、IPCC報告書に疑問を感じ、「ヒマラヤ氷河が急激に衰退している証拠はないし、もしも衰退していても、水不足が起きることはない」という主張をインド環境森林省の報告書として発表した。

 もう一人のインド人氷河学者であるS.I.ハスネインは、ライナの主張を非科学的と避難した。インド政府に対しても、「大災害が迫っている現実から逃避している」と責めた。

 しかし、真相が明らかになった。最初に2035年という数字の出元は、インド政府を非難したハスネイン自身であった。インタビュー記事で、「数十年でヒマラヤ氷河がなくなる」と大げさに述べた。それをWWFが引用し、そして、それをM.ラルというIPCCの執筆責任者が引用して、第4次報告書に掲載された。

 なぜ、2035年に氷河消滅などというあり得ない間違いが起きたのか。それは、統括執筆責任者のラルは、「間違いに気付いていたが、その方がインパクトが強くなると思った」と語ったそうだ。

 この他、以前から言われているM.マンの紀元1000年から2000年過ぎまでの気温の変化が単純過ぎるという指摘と謎解きが行われている。

 いずれにしても、IPCCに参画している研究者の一部に、気候変動の予測が激しければ激しいほど、自らの利益になると考えていた学者がいたということだ。自らの利益とは、研究が目立つことによって、研究費が取りやすくなるということだとも言える。

 しかし、この程度のことは、いくらでも有る。例えば、最近はさすがに消えつつあるが、「環境ホルモン」という衝撃的な言葉で、多額の予算を使った研究者がいた。彼らにとって、環境ホルモンの悪影響は、大きければ大きいほど都合が良かった。多くのメディアが取り上げてくれて、研究が目立つことによって、研究費が取りやすくなるからであった。

 ダイオキシンの毒性にしても同様であった。さすがに皆さんは信じていないと思うが、超微量のダイオキシンでも健康をそこなうと思わせることで、やはり目立つことができた。すでに忘れ去られているが、何人かの、有名ダイオキシン研究者ができた。

 IPCCの報告書で引用されている文献の総数は、非常に多い。そのため、1報や2報妙な文献があったとしても、影響は少ない。ところが、要旨(SPM)が何を取り上げるかとなると、それは執筆者の意向が入り込む可能性が高くなる。

 何事にも「絶対的に正しいということはない」。これがIPCCに限らないが、権威のある報告を読む際の正しい対応である。しかし、だからといって、全面的に否定できるようなものではないことは、その莫大な引用文献数を見ても、明白である。


単純な質問への伊藤氏の解答予想

 さて、伊藤氏は、先ほど提示した非常に簡単な質問、繰り返せば、「CO2の排出量が現時点のように急激に増大していることは認めるのか。そして、CO2が温室効果をもった気体であることは認めるのか。もしも両方ともYesであるのなら、今後、地球の平均温度は上昇すると仮定することは、極めて正当な仮定だとは言えるが、そう思わないのか。」に対して、どのように答えているのだろうか。

 「全てをCO2で説明し、政策に結びつけようとするのは、余りにも単純だった」。「IPCCの信頼が失われた今、CO2を環境の単一指標とする世界像は虚像と化した」。
 この2つの文章から、CO2排出量削減だけではなく、他の対策も考えるべきだ、と読める。ということは、CO2がやはり温室効果ガスであることは認めているようである。

 他の対策として、ススとSOx対策が必要であると述べている。これ自身は正しい。ススもSOxも健康被害が明らかに存在する。しかも、ススによって、日照が阻害され、作物への影響が出ることもある。

 しかし、納得しがたい記述もある。「CO2削減は気候変動と切り離してエネルギー政策として長期的展望の下で行うべきである」、と述べている。

 しかし、これは、間違いだろう。なぜならば、温室効果ガスを放出すれば、気候へのなんらかの影響があるのは事実であり、となれば、気候変動のリスクはゼロだとは言えない。エネルギー枯渇によるリスクは、もしも温暖化は起きないと思い込んで、二酸化炭素を大量に発生する石炭に依存しても、石炭は150年以内に枯渇する可能性はないと結論することが可能である。しかし、気候変動は、速ければ50年後にも、なんらかの危機的な状態にならないとは言えない。これがリスク論に則る近未来の正しい認識である。


赤祖父氏の主張と誤謬

 赤祖父氏の主張は次の文章で始まる。

 「気候変動に関するIPCCとその報告に重大な欠陥があることが露呈した。地球温暖化問題の科学的根拠は崩れ、やがて忘れられるであろう」。

 「重大な欠陥」かどうかについては、様々な判断があるだろうが、最初の文章は、絶対に間違いだとは言えない表現である。

 しかし、第二文は間違いである。まず、前の文章との論理的な関連が全くない。すでに述べてきたように、温室効果ガスを大量に排出すれば、地球の温度は、平均すれば、上昇する方向に振れるに決まっている。実際に上昇するかどうか。それは、地球の揺らぎや地域によるが、地球全体として平均的な傾向としては、温度上昇の方向に決まっているのである。

 「やがて忘れられる」ことが本当であれば、それは人類にとって幸せなことである。しかし、赤祖父氏の非論理的な未来予測に、全人類の未来を賭けるほどの度胸は誰にもない。未来に関しては、やはり予防的な態度を取ることが正しい。

 「IPCCは、気温変動の将来予測にあたり、コンピュータ・シミュレーションのモデル分析に大きく依存している。しかし、モデルはいかようにも作ることができる。コンピュータは、人間の論理を超えられない」。

 この意見は、気候モデル研究を行っている科学者を余りにもバカにしている。第4次報告書で検討されたモデルは、先進国を中心とする23の研究チームによって作られた。

 23の研究チームによるほぼすべての計算結果が、多少細部が異なるが全体的な傾向は似たような計算結果を出している事実がある。もしコンピュータモデルは、いかようにも作ることができると仮定に基づいてこれを説明しようとすると、気候モデル研究者全員が同じような作為を行っていることになる。作為によって、論文を書くことを捏造と言う。これが本当なら、これら23の研究チームに所属する科学者を科学界から追放するに値する悪行である。赤祖父氏は、すべての気候モデル研究者を追放すべきだと言っていることになる。

 「私はIPCCのモデルから引き出される、北極圏の気温変動を取り寄せ、実測データと付き合わせた。モデルは地球全体の平均気温は再現していても、地域分布は全く再現できていない」。

 北極圏を再現できていないことは、まだモデルが完全ではないことを示している。しかし、もっと重要なことがある。地球全体の平均気温が再現できているということを事実として認めるかどうか、である。この文章を見ると、どうだろう。温室効果ガスなのだから、それを大量に排出すれば、温暖化傾向になること、すなわち、平均気温は上昇することはまぎれもない事実で、それを赤祖父氏は認めているようにも読める。

 地球のどの部分がどのように温度が上昇するか。それは、もっと地球の気候メカニズムに対する理解が進む必要があることは事実である。赤祖父氏は、地球全体を見ないで、自らの専門分野である北極だけを見て、そこが合致しないからということで、全体的な傾向を無視している。これは非論理的な態度である。

 「報道については、日本特有の問題もある。日本では、クライメートゲート事件は10日間ほど経ってようやく小さく扱われたようだ。米国では、ニューヨークタイムズはおろか、田舎のアラスカ州のフェアバンクス市のテレビまで直ちに詳しく報じた」。

 「英国では、IPCCを強力に支持してきたBBCが、IPCCの指導者たちをインタービューで追求している。英国では炭酸ガス論に疑問を持つ人はすでに48%に達したが、日本では大部分の市民が信じている」。

 この2つの文章は、「日本は辺境である。米国にはより高い文明がある」、という辺境人としての主張である。

 「温暖化の炭酸ガス起因論が一つの仮定であることは認めるが、仮定でしかない」。

 二酸化炭素という言葉ではなく、炭酸ガスという化学の分野ではすでに捨てられた日本語を使っているが、何を意図しているのだろうか。いずれにしても、二酸化炭素が温室効果ガスであるという物理的な事実を仮定にすぎない、として否定しているようだ。

 しかし、先ほど指摘したように、「地球全体の平均気温は再現している」という言葉が文中にあり、地球全体としての温暖化傾向は認めているようにも読める。どうもにも趣旨が一貫していない。


辺境論的な解釈

 伊藤氏、赤祖父氏、両氏とも、一部に、西欧文明優位という辺境人的な傾向はあるものの、基本的なマインドは、辺境人とは言えないのかもしれない。「そんなことを言う人は今のところ私の他に誰もいないけれど、私はそう思う」、という強い自己主張を行っていることから、そのように判断できる。

 しかし、どうも、正当的な非辺境人とも違うように思える。それは、もう一つの条件、「意見の正しさは、今ある現実のうちにではなく、これから構築される未来のうちに保証人を求める」という条件を満たしていないからである。

 すなわち、強い自己主張であることは事実であるが、過去から未来に連続する正当的と思える宇宙観によって支えられている主張でるとは、全く言えないものと思われる。