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  「世界史の極意」と中東欧の民族主義  07.26.2015
                ギリシャとEUの関係を実感するために        




 先週の書評は、角川の「未来予測を嗤う」が対象でした。実は、と言えば、本屋に世界史の本、特に、中東欧の歴史、この地域におけるキリスト教、民族問題を理解できる本を探すために書店にいったときに見つけたものでした。

 本来の目的に応えるような、適切な本が見つかったのか、と疑問に思われると思いますが、一応完読して、かなり満足したという状況にあります。

 その本は、なんと新書です。佐藤優氏の著書、「世界史の極意」という本でした。世界史の極意が新書で得られるなら、こんなすごいことはないです。佐藤氏は、外務省のラスプーチン呼ばれているようですが、実は、同志社大学神学部の修士課程を修了しているクリスチャン。

「世界史の極意」 NHK出版新書451
 佐藤 優、2015年1月10日 第一刷


 この本の「世界史の極意」の第二章p92からが「民族問題を読み解く極意」になっています。それによると、「まず、本章のテーマは、世界史上の民族問題とナショナリズムを考察しながら、国家の行方を展望する」そうです。

 今回の記事は、p164まであるこの第二章のごく一部、p108までのたった16ページ分に記述されている「極意」(=大きな時代の流れの意味付け)だけを借り受けて、若干、細部を補いながら、現在の興味の対象である、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、トルコ、そして、この夏の終わりから行く予定のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、スロベニア、そして、オーストリアに関する民族の歴史的な理解を深めるために書いています。



C先生:今年の5月に行ったルーマニア、ブルガリアなどの世界遺産は、かなりの割合でキリスト教遺跡だった。隣合わせのこの二ヶ国だけれど、キリル文字のブルガリア、アルファベットのルーマニア。ほぼキリスト教だけと思われるルーマニア、イスラム教のモスクもあるブルガリア、などなどこの二ヶ国はかなり違う。それは、当然のことながら、歴史、民族、などに理由を求めることになる。ということで、個人的にほとんど知らない中東欧の歴史をチェックしたいと思ったのだ。加えて、このような作業の延長線上に、ギリシャとEUとの関係をもっと直感的に理解できるなんらかのヒントを見つけられるかもしれない、とも思ったのだ。

A君:世界史となると、新書では無理でしょう。もっとも分かりやすいのは、高校の教科書・参考書ではないですか。

B君:高校生向けの教科書などに、ブルガリア、ルーマニアなどの歴史がちゃんと記述されているのだろうか。

A君:確かに、若干疑問。いずれにしても、チェックが必要。

C先生:さて、「世界史の極意」だけれど、通読はしたものの、かなり様々なことが記述されているので、もう一度、真面目に読み直す予定ではあるが、今回の話題は、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、トルコ、あたりの歴史を調べることに加えて、そもそも民族というものをどのように理解するのか、民族意識というものがどのようにしてできるのか、この二点を中心にこの本を若干引用に使用してみようと思う。なぜならば、民族という概念が根付いたのは、中東欧地域からだったというのが史実だからだ。

A君:一応、ヨーロッパの国々の民族、言語、そして、宗教がどのような状況であるかを、なんらかの形でまとめる努力はしましょうか。今回は間に合いませんが。

C先生:その内、何か必要になりそうな気はするので、作業だけは進めて見てくれ。

B君:ヨーロッパだけとは言っても、民族問題はかなり複雑なので、そのすべてをここで取り扱うことは不可能。できるだけ効率的にアプローチをするためには、地域を選択することが必要で、佐藤氏のお薦めの一つは、オーストリア・ハプスブルグ帝国を中心とする地域、もう一つはロシア帝国における民族問題。なぜならば、中東欧地域は、民族という概念が最初に根付いた地域だったから。ロシア帝国の状況が適しているのは、民族問題の複雑さを理解するのに適切だと考えられるから。
 今回は、中東欧地域を取り上げることになる。

A君:佐藤氏は、考察の起点について、中世末期から駆け足で概観する必要があるとしていますね。こんな風です。
「中世末期において、西欧と中東欧はどこが違うのか」
 まず、中世のヨーロッパでは、教会と社会が一体化していたために、中世の人間には、民族意識はなかった。それは、人間であることは、キリスト教徒であることとイコールだったから。
 この佐藤氏の説明(=極意?)は、分かり易いですね。

B君:西欧の歴史では比較的早い段階から国家というまとまりが成立していた。英仏の場合、1339年から1453年の百年戦争の後に中央集権化が進む。
 百年戦争は、イギリスとフランスの領土争い。この戦争前まで、イギリスはフランスに自国の領土を持っていたけれど、毛織物産業のあるフランドル地方が欲しかった。イギリスのエドワード三世は、王朝交代に文句を付けて、フランスに攻め込む。当初は優勢だったものの、ジャンヌ・ダルクがフランスの窮地を救うという有名な戦争。結果的に、イギリス軍はフランスのほぼ全国から追い出され、フランスは領土的なまとまりを得た。

A君:イベリア半島は、国のまとまりがもっと早い。キリスト教徒がイスラムを追い出すのが、レコンキスタ(国土回復運動)1143年にポルトガル王国ができ、1479年にはスペイン王国が成立した。
 こんな訳で、英、仏、スペイン、ポルトガルは主権国家が出来上がった。

B君:一方、中東欧を含む地域では、15世紀末の神聖ローマ帝国(ドイツ)の実態が「名ばかりの国家」だったもので、皇帝は居ても、権力がなかった。帝国は数100の領邦が分立している状態だった。

A君:ところが、ひょんなことからハプスブルグ帝国ができるのですね。もともとスイス北東部の弱小貴族だったのに、1273年にルドルフが神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれる。その理由は、「頼りない人だから、悪いことはしないだろう」、というものだったらしいのです。そして、意外なことに、1438年以降、神聖ローマ帝国の帝位は、ハプスブルグ家の世襲になったのです。

B君:結婚政策を得意としていたこともあって、王子をスペイン王女と結婚させたり、ハンガリーの王子、王女と結婚させるなどして、ハンガリー・ボヘミア(チェコ)も一挙に支配下に入れ、全盛期には、イギリスとフランスを除いた西ヨーロッパの大半がハプスブルグ家になった。

A君:このハプスブルグ家の時代に、ルターの宗教改革が起きる。ローマ・カトリック教会の教皇が罪を軽減する証書を販売していたのですが、ルターは、神の罰がそんな証書で解消できるはずはないと主張。そして、ヨーロッパ全体がカトリックとプロテスタントに分けれて、内戦状態になる。それが30年戦争。1618年に始まった。

B君:プロテスタント側の核は、ハプスブルグ領内のボヘミア地方のプロテスタント。それをデンマークやスウェーデンが南下して支援。フランスのブルボン王朝は、カトリック国であったのに、ハプスブルグ家と対立していたために、プロテスタントを応援

A君:元はと言えば宗教戦争という色彩ではあるけれど、実際には、「主権争い」という性格の戦争だった。

B君:30年後の1648年に終戦処理のための講和会議が行われ、ウェストファリア条約が締結された。結論としては、プロテスタントの一派であるカルヴィン派の信仰が認められるとともに、ヨーロッパの主権国家体制が確立した。しかし、数が多かった。神聖ローマ帝国内に領邦国家が300もあったとされている。

A君:そのため、様々な領土拡大の動きがあって、安定化するにはしばらく時間がかかります。例えば、領邦国家の一つであるプロイセンが力をつけ領土を拡大するとか、オスマントルコがウィーンに迫ったものの、ハプスブルグ家は、これを撃破してハンガリーを奪うとかいった状態だった。ポーランドは、ロシア、プロイセン、オーストリアによって三分割。ウクライナ西部のガリツィア地方は、ハプスブルグ領になった。

B君:ウクライナ東部は当然ロシア支配。ウクライナ西部と東部は、このように歴史が全く違うので、その影響が今日まで尾を引いている。歴史的に見れば、ウクライナ西部はドイツなんだ。

C先生:しかし、まだナショナリズムとか民族問題は、まだ発生していない。君主はいるものの、住民の国家に対する帰属意識は希薄だったようだ。佐藤氏の記述によれば、「国民」とか「民族」とかいう「近代的なネイション」は生まれていなかった、となっている。

A君:年代的には、オスマントルコによる第二次ウィーン包囲が1683年。この戦いで、オスマントルコがはじめて敗退して、ヨーロッパ諸国とは1699年のカルロビィッツ条約締結、ロシアとはコンスタンティノープル条約締結となります。ハンガリー、トランシルヴァニア公国(ルーマニア北部)、スラボニア(現クロアチア内陸部の東部)がオーストリア領になり、ダルマチア(クロアチアのアドリア海沿岸の南部)は、ヴェネツィア領になり、ポドリア(ポジーリャ)をポーランドに割譲しました。

B君:大体分かったけれど、C先生の関心であるブルガリアは、この時点でどうなっているのだろう。

A君:別途調べてみました。1396年にオスマン帝国に併合されています。その後、長期にわたって支配下に置かれているのですが、やっと、18世紀になって、ロシアが自国の解放者になるという期待がブルガリアで高まったと記述されていますので、1699年のカルロビィッツ条約締結時点では、まだ、オスマン帝国支配下ですね。

B君:要するに、1699年に、北部ルーマニアまでは、ハプスブルグ家の統治が及んでいたけれど、南部は、かなり前からオスマン帝国の支配下にずーっとあった。

C先生:ルーマニア北東部ブコビナ地方にあって、ルーマニアの世界遺産ではハイライトと思われる修道院の外壁のフレスコ画には戦争の絵がかなり書かれているのだけれど、そこでやられている戦士は、すべてトルコ人の顔をしている。これらの修道院が建設されたのは、14世紀から15世紀と言われているが、その時期、この辺りがオスマン帝国の支配の北限よりちょっと北に位置していたのではないか。

A君:ルーマニアとブルガリアは、隣合わせの国ですけど、歴史が全く違うのですね。この二国の国境を流れている大河ドナウが、地政学上やはり大きな意味を持っていたのではないですか。

C先生:ついでにギリシャの状況は?

A君:ギリシャの歴史ですが、軍事的に弱かったのか、他国に支配される状態が長く続いているようですね。しかし、ローマ帝国時代の話ですが、ローマ皇帝には、ギリシャを愛好し、ゼウス神殿を建設したハドリアヌスとかがいます。
 ビザンツ帝国時代(東ローマ帝国395年 - 1453年)は、ギリシャ語が公用語になって、ギリシャ人の国家と言えるのでしょう。しかし、スラブ民族の侵入と定住、アラブ人の侵入、ブルガリア人の攻撃などがありましたが、11世紀初頭にビザンツ帝国が東ヨーロッパを平定すると、東方キリスト教文化も広まったようです。
 しかし、十字軍が派遣され、それが逆効果になって、ビザンツ帝国は弱体化。1453年のコンスタンティノープルの陥落によって、オスマン帝国の勢力範囲に取り込まれます。

B君:オスマン帝国そのものは13世紀末に成立して、小アジアのビザンツ帝国の領地を占領。14世紀に入ると、海を超えて、バルカン半島を侵略。1393年にブルガリア帝国を攻め滅ぼした。一時期弱体化することがあたものの、上述の通りで、ギリシャはオスマン帝国の勢力範囲内になる。

A君:このオスマン帝国の時代は、信教の自由など最低限の自由はあったものの、恐らく、ギリシャ人のプライドが許さない時代だったのでしょう、「トゥルコクラティア=トルコによる支配の時代」と呼ばれているようですね。他国による支配は長く、ギリシャ独立戦争が1821年3月に開始されますが、結局のところ、独立はギリシャ人が中心となって勝ち取ったものではなく、オスマン帝国に対するヨーロッパ列強の思惑が重要な要素だったようです。

B君:独立戦争には、イギリス、フランス、ロシア(列強三国)が介入している。最終的には、オスマントルコがナヴァリノの海戦(1827年10月20日)に敗北し、ギリシャの独立が決定された。

A君:1833年にギリシャ王に選ばれたのはバイエルン王国のオソン1世だったが、財政も不安定で、列強三国から60億フランの借款を受けたものの、足りない状態であったらしいです。

B君:その後も、経済基盤が弱いままで、1893年に国家破産を宣言1898年には債権者代表で作られた委員会の監視下に置かれることになっている。

A君:どうにも、ギリシャの財政破綻というのは、習慣性浪費症候群のように思えますね。独立戦争の列強三国ではなかったドイツですが、「歴史を見ればギリシャにはもっと厳しく対応しなければならない」、という感じなのではないでしょうか。

B君:「世界史の極意」には出てこないが、もう一つ、気にしなければならない言葉が、フィルヘレニズム

A君:日本語にすると「親ギリシャ主義」「ギリシャ愛護主義」。古代ギリシャの文化を理想として賛美し、自由主義的精神やロマン主義的情熱に支えられた19世紀西欧の精神的風潮。

B君:独立戦争でのギリシャ軍は、実は、極めて弱かった。すでに述べた列強三国は、自分達だけでは何もできないギリシャ軍を助けるために、ギリシャ暫定政府も、オスマン帝国も全く知らないところで、「ギリシャ和平条約」をロンドンで合意して、これに反する行為だとして、オスマン帝国に軍事力を行使した。

A君:ギリシャ人をなんだと思っているのでしょうね。「愛護主義」というよりも愛玩動物並ではないですか。オスマン帝国にとっては、ギリシャ和平条約なんて知らないよ、なんで自分たちが無関係な軍隊に攻撃されるんだ。

B君:このときの列強三国(イギリス、フランス、ロシア)に、ゲルマン民族による国家が含まれていないことが、EUとギリシャの今後を読む鍵かもしれない。

C先生:ギリシャの歴史は、周辺のあらゆる軍事強国によって、風に舞う枯葉のごとき状態だったのだ。それにしても、ギリシャ人は、国家破綻状態を過去何回も経験していることが良くわかったし、欧州人の親ギリシャ主義も、重要な要素だ。チプラス首相は、この欧州人の弱点を上手く利用しているようにも思える。
 大分長くなった話を戻そう。そろそろフランス革命が起きる頃か?

A君:さきほどすでにちょっと出ていますが、佐藤氏の記述によれば、「国民」とか「民族」とかいう「近代的なネイション」は生まれていなかったのですが、これが変わったのが、フランス革命。国家の主権が国王ではなく国民にあるという原則が打ちたてれられて、国民と国家が一体であるという「国民国家」という理念が生まれました。ということは、これまでは、軍事的に強大な支配者が国を争奪して自分のものにするという時代から、民族が一つの国家を作るのだ、という動きになります。

B君:そこでなんとナポレオンが登場するのだ。いわゆるナポレオン戦争によって、この考え方がヨーロッパに広まっていく。

A君:ナポレオンの遠征によって、全盛期にはヨーロッパはロシアを除くほとんどの地域がナポレオン支配下になります。当然、神聖ローマ帝国も消滅します。1806年でした。

B君:ナポレオンによってもたらされた新しい理念と、ナポレオン軍による支配は、支配を受けている側から言えば、実は、全く矛盾している訳だ。当然、民族意識や国民意識が高まることになる。

A君:そして、当然のことながら、ナポレオン失脚後、民族問題が様々な形を取ることになります。

B君:実際、ナポレオンの強さは異常な程だった。最終的な失敗の直接的な原因は、有名なロシア遠征での兵站だった。このロシア遠征を行わなければならない背景には、イギリスの工業力があった。イギリスは当時世界の工場だったのだ。ロシアは、大陸封鎖令を破って、イギリスとの貿易を再開したのだ。フランスは農業国なので、イギリスの代役を務めることはできなかったからだ。これに怒ったナポレオンは大陸封鎖令の継続をロシアに迫ったけれど、ロシアは拒否。そして、1812年、60万人の大軍でロシアに侵攻。一方ロシアは、戦えば負けることが分かっていたので、ひたすら焦土戦術を展開。これでフランス軍の兵站は非常に困難な状況になった。そして、モスクワに入城直後にロシア兵士の放火によってモスクワは大火となって、これがナポレオン退却という結末に導きます。しかし、ロシア国境まで生還したフランス兵は、当初の60万人からわずか5千人だったということだ。

C先生:フランスは、結局、それ以後も、工業国にはなれなかったという感じだが。これでナポレオン失脚後のウィーン体制になるのだが。

A君:ウィーン体制と第一次世界大戦までは、こんな様子でした。
◎ポーランドは実質的にロシアの支配下。
◎ハプスブルグ朝のオーストリア帝国は、最大の多民族国家に。
◎1877年の露土戦争でトルコが負けて、ルーマニア、セルビア、モンテネグロがトルコから独立。
◎1908年には、トルコで起きた革命の混乱に乗じて、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合。◎ブルガリアがトルコから独立。
◎1913年には、第二次バルカン戦争が起きて、ブルガリアが敗北。南ドブルジャ(ドブルジャとは、ドナウの下流地域で、川より南の部分)をルーマニアに割譲。エディルナをトルコに返還(トルコでもっとも美しいモスクがある都市、ブルガリア国境から数km)。
◎そして、第一次世界大戦に。

B君:この見方は、やや局所的すぎるかもしれない。なぜならば、佐藤氏によれば、バルカン戦争から第一次世界大戦に向かう時代の見方について、大局的には、ロシアをリーダーとする汎スラブ主義と、ドイツ・オーストリアを中心とする汎ゲルマン主義の対立と見るべし、とのこと。

C先生:その見解は多分極意の一つであって、正しいのだろう。本日の検討は、まあ、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、トルコ、それに、これから行く予定のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、スロベニアなどに対する予備知識を得ることが個人的な目的だったので、こんなところで終わる。
 しかし、その前に、世界史の教科書にどのぐらい記述があるかをチェックするために、これも佐藤氏のお薦めなのだけれど、詳説世界史B(山川出版社)と要説世界史A(同じ)をアマゾンから買い込んで読んでみた。
 要説世界史Aは比較的薄い本であるが、そこに、佐藤氏のバルカン戦争から第一次世界大戦に向かう時代の見方について、「パン=スラブ主義とドイツ・オーストリアによるバルカン半島進出が対抗した」と記述されている。
 もう一冊の詳説世界史Bには、バルカン半島における民族主義の話、露土戦争などの記述、ブルガリアの独立なども書かれている。
 ひょっとすると、佐藤氏の知識の根底には、今でも、これらの教科書が存在し続けているのかもしれない
 さて、結論だ。佐藤氏の「世界史の極意」をマスターするには、もっと他の地域の勉強を、今回の数10倍ぐらいしなければならないのだ。しかし、山川の二冊の教科書を基礎として、それに色々な知識を拡張する形で整理することが良いのかもしれない。ということで終わりにしよう。