-------


   夏の夜の戯言
      08.17.2013 
        本Webサイトの基本的スタンス



 このWebサイトをご覧になると、毎週毎週、しかも、この暑い夏なのに、平均7000字もの記事をアップする。こんなに暇なことをなんでやっているのだろう、と思われる方々が多いのではないか。最近、このサイトに始めて出会ったという方は、特に、そうではないか、と思っている。

 なぜ、なんのために続けているのか。これまで、説明を余りやったことがない。なんといっても、始めたのが、16年以上前になってしまったので、考え方も当初のものから、どんどんと変わっているかもしれない。

 本音を言えば、現時点では、続けている駆動力は「意地」である。しかし、意地といっても色々な意味がある。

 今回、こんなことを書くと、何を考えているのだ、という反発を買うことを覚悟の上で、戯言として記録しておくことにした。



歴史を振り返る

C先生:今日は、本Webサイトについて、個人的な感想を述べることにする。一人称で書くことも当然ながらありうるのだが、論理立てて考えることが難しい場合には、対話形式が容易なので、これで行きたい。

A君:最初に、このWebサイトの事実関係を。
 まず、最初の記事がアップされたのが1997年6月16日。1997年というと、Windows95が発売されたのが文字通り1995年のことで、まだその2年後。Webサイトに個人的な意見や記事を書くことは、極めて稀な存在だった。

B君:A君、B君、C先生の対話型の記事が初めて書かれたのが1997年9月12日。この形式も、そろそろ16周年を迎える。

C先生:まず、なぜ対話形式になっていたのかというと、最大の理由は、生産性が高いからだった。一人称の文章だと、途中で、ふと浮かぶ疑問などを文章中にうまく取り込むことが難しい。ところが、対話形式であれば、発想が飛び、巡り、そして戻る状況をそのまま実況中継をするような形で書き込むことが可能なのだ。どうして二名による対話でなく、三名なのかも同様で、掛け合い漫才だとかなりシナリオを作っておくことになるだろうけど、三名以上のバラエティー形式だと、どうにでもなるというのが、その理由だった。

A君:最近、イノベーションなどの本の紹介もありますが、これはまだ記事していない「イノベーションのDNA」byクリステンセンで、イノベータは積極的に質問をするのが特徴という話があって、講演などを聴いているときに、多くの質問を考えるということができる人はイノベーションを起こすことができる、という記述があります。

B君:授業中・講演中に質問をすると、それは講演の邪魔になるという考え方が日本人にとっては普通なので、別の方式、すなわち、授業などを聞きながら、できるだけ多数の質問を作成し、時間の最後に、受講側数名でお互いの質問をぶつけあって、そのベストの質問数個を講師に投げるというワークショップ形式の授業などが望ましい。

C先生:その通り。最近、どこかで授業をやるときには、大体、そんな方式だ。

A君:それがWebサイトを作成する際にも成立する。すなわち、脇道を記述する必要があって、それに便利ということで対話形式が採用された、ということですね。

C先生:どんなスタンスで話題を取り上げるか、というときに、単一のスタンスよりは、複数名が関与している場合には、多数のスタンスを導入しやすいということも、理由の一つだった。


どのような環境観で記述してきたか

A君:最初のころの記事を見ると、例えば、「日経トレンディを叱る」というものが、1997年の9月19日にあって、「自然派ヒット商品ベスト50」のリストの選択に、思想がないと噛みついています。

B君:この文章を読むと、そのころの環境観と今の環境観が、それほど変わっていないことが分かる。

A君:トレンディの記事での最悪の文章として「地球環境が悪ければ、住んでいる人間の健康に悪いのは当然のこと。今や「自分の健康」と環境問題は切り離せなくなりつつある」を指摘していますが、地球環境は、本来、次世代にどのぐらい配慮するか、という問題なのだということが、この文章からは読み取れない。「自分の健康に無関係なら、地球環境は考えない」のが日経トレンディの編集者だ、という言い方ですね。

B君:さすがに、現時点で、雑誌の編集者がこんなことを書いたら、「無知だ、何も分かっていない」と言われるだろう。しかし、多くの市民は、こんな指摘をされても、「なぜダメなの?」といった感じかもしれない。

C先生:「地球環境」とは、現時点の人類が加害者になって、未来世代が被害者になる問題なのだ、ということが基本的理解であるべき。しかし、最近、知識のある層とない層、というよりも、未来の地球の状況に感心のある層と感心のない層がくっきり別れたというのが「地球環境」に関する実態なのではないか。

A君:それは、地球環境だけではないですね。何ごとにも、「そんなことを考えているヒマはない。生活するのが大変なんだから」という反応が普通になった。

B君:「知的な配慮」、「他者への配慮」、「未来への洞察」などをする時間が無くなった。

A君:一つは、東日本大震災の影響。もう一つは、武田邦彦氏に代表される懐疑派とそれを面白がる低劣なメディアの影響でしょうか。

C先生:最近、若手の環境学者と話をすると、色々な考え方が有っても良いのではないですか、と極めてクールなんだ。真正面から対抗するという気はないのか、と聞くと、「自分はそういう作法を採用していない」と答えが帰ってくる。それに対して、「現世代の責任という考え方が弱いのではないか」、などと言いたくなる。

A君:「だから、これこそ自分の役割だ、ということで、思わずアタリがキツくなる」、と言いたいようですね。

B君:まあ、自分の役割だと思えば、色々な考え方の一つだと許容されるのでは。

C先生:「自分の役割だ」という考え方自体が否定されているようにも思うが。


放射線問題に対するスタンス

A君:まあ、次に行きましょう。このページが取り扱うことは、環境全般ですが、放射線被曝の話などもかなり前から扱っています。

B君:1999年に起きたJCOによるウラン臨界事故が大々的に取り上げた最初の記事。

C先生:あのとき、NHKですら、臨界事故と、放射能漏れとの区別が付いていなかった。

A君:臨界事故で放出されたのは、中性子線などの放射線。放射能とは放射性物質を意味する言葉なので、放射能漏れとは放射性物質が外に漏れ出すこと。

B君:ということは、NHKは、放射線と放射性物質の区別が付いていなかったということか。

C先生:そんなことだったと思う。それはそれとして、この事故がもっと重大なものとして取り上げられれば、福島第一の津波対策がもう少々の対策が施されたに違いないのだ。なんといっても、本来の規則を無視してウラン溶液を取り扱い、そこで連鎖的に核分裂が始まる臨界条件を超してしまったのだから。

A君:「どうも原子力産業に関わる人々の危機管理意識に非常に重大な欠陥があるのでは無いかと思われる」、という文章がありますね。

B君:本HPとして、これをきっかけに原子力発電の安全性にもっとツッコミを入れるという方向性はあったのだろうか。

C先生:それは無理だ。実力がなかった。我々の放射線への関与は、結晶質やアモルファスのX線構造解析からスタートしている。どうやってX線を出すのか、測定するのか、安全性はなどといったところ。次に、蛍光X線やEPMAなどに関して、励起された原子からX線がどうやって出るのか、などなどが知識体系だったので、核分裂とその制御が問題である原発とは全く知識の本質が違う。原子力の細部については、現時点でも無知に等しく、リスクを細かく語り、見落としがあるかないかなどの検討をするには、実力不足だ。

A君:しかし、環境問題の本質はリスクマネジメントなので、原発のリスクがどのようなところにあって、特に、地震や津波に対する弱点やリスクの実態がもう少々公開されていれば、それを細かく学習することで実力を付けるとい方向性もあったかもしれない。

B君:その弱点やリスクの実態などの公開だが、「安全神話」によってブロックされていたのが実情なので、部外者、要するに、我々原子力村の外の住人には、やはりバリケードの外から安物の双眼鏡で覗くぐらいのことしかできなかった。多くの場合、新たな情報の獲得は、コンクリートの壁で阻まれてしまうのが実態だった。

C先生:東電の経営責任が問われているが、刑法の対象にすることはできそうもないというのが現時点での合意のようだ。それにしても、もう少々なんとかなったようには思う。
 電力会社のリスクは、様々なものがあるが、原発を持っていればやはり原発だと思う。かなり特殊かつ重大というか、重大かつ広範なリスクというか、いずれにしても、一度事故が起きれば、巻き込まれる人々が余りにも多すぎる。こんな状況を社内で検討したのだろうか。少なくとも、社長や会長が理解していたとは思えないのだ。

A君:当時の東電の体質であれば、そんななことを社長や会長に伝えるなどと言えば、「不埒な」で即刻クビだったのでは。

B君:それこそ「安全神話」で隠蔽されていた。

A君:住民側にも勿論問題があって、「安全神話」という言葉はすでに有ったはずなので、その神話を回避して、リスク削減を科学的に求めることはあり得た。

C先生:しかし、反対派からの要求という見方をされれば、最初から受け付けないのが、原子力村の特性だった。

B君:このあたりの状況を考えると「村の論理」がやはり大きい。


「村の論理」

C先生:「村の論理」という観点で、様々な現象を見てみると、現時点で起きている多くの問題が「村の論理」に帰結するように思える。

A君:そうかもしれない。「村の論理」ですが、村には駐在という警察権もあり、村の外から見ると非合理的な判断がなされるような場合もあるという定義でしょう。

B君:現時点では、政治家も「村の論理」。しかも、村の単位は、「政治家村」も若干あるけれど、現状だと、「自らの党村」。

A君:「村の論理」の特徴は、現村民だけが考慮されて、未来にその村に存在するはずの村民に対する配慮はない。

B君:「村の論理」の究極の姿は、「自分の論理」になる。このところ何についても、例えば、子どもの教育に文句を付けるモンスターペアレントが増えたり、産科での「帝王切開」が増えたり、これも、「自分の論理」だけで、他人に文句を付けるという傾向が見えているため、なんらかの訴訟対策をとらざるを得ない。「自分の論理」の社会的な損失は大きい。

A君:結論的には、「村の論理」は「自分の論理」の一つの形態。


「自分の論理」

B君:「自分の論理」も様々なものがあって、同意あるいは理解できるものから、「EM菌の比嘉教授」のように全くの「自分だけの論理がすべて」の状況になっていて、『神』たる自分の方が、すべての「科学」よりも偉いと主張している人までいる。

A君:比嘉氏は元琉球大学の教授でしょ。あそこまで『神』になれるのは、才能でしょうかね。それとも演技力でしょうか。宗教家になればもっと成功したのでは。

B君:いやいやすでにEM教という宗教家だから。

A君:それにしても比嘉個人は別にそれで良いのでしょうが、その状況を見抜けない他の「村民」が居るのが不思議。特に、自治体の職員などに多くて、税金が無駄に使われているように思える。


匿名対実名の戦い

B君:低線量被曝の有害性の論理も、「自分の論理」であり「村の論理」だった。

C先生:故人であるが市川定夫氏の「人工放射線は危険だが、自然放射線は危険でない」という「独特の論理」を批判したら、何回読んでも理解不能な論理で反論され、訳もなく罵倒され、困惑した。

A君:それを匿名でやられるのだから、対等の条件での戦いにならない。

B君:このような戦いを経験したことがない人は、匿名対実名の場合であっても、正義の味方「匿名マスク」だと考えてしまう。

C先生:もしそう考えるのであれば、自分で実名を出して意見を述べ、匿名による攻撃と戦ってみてほしい。いかに無責任で暴力的な攻撃が来るかを実感できると思う。

A君:これはインターネットの欠陥。というよりも、インターネット社会に法や倫理が無いことが欠陥。逆に、インターネットの無法と無倫理が、実社会にフィードバックされている。

B君:某国の国民世論の形成でも、インターネットにおける匿名の暴力が重大な役割を果たしている。

A君:その意味で、実名が原則というFacebookには、新しさを感じました。しかし、最近、参加者が増えて、徐々に匿名性が増大しているような気がする。

C先生:しかし、実名で様々な情報を流してくれる人が多いので、Facebookは便利に使わせて貰っている。


「自分の論理」と科学の不確実性

B君:「村の論理」=「自分だけの論理」なのか、あるいは正当な論理なのか。その判定基準として、やはり「科学」による妥当性の評価がある程度の役割を果たす必要がある。

A君:それが一部の人々には迷惑なので、「科学」の不確実性をことさら強調する一群の人々がいる。

B君:これまでも随分と本Webサイトで取り上げたけれど、「科学には不確実性がある」ことは真実。しかし、不確実性を全面的に取り扱うことは、アインシュタインの相対性理論(1905年と1916年)、ハイゼンベルグの不確定性原理(1927年)、以前には不必要だったと考えるのが簡単で良いと思う。

A君:それ以前の物理学は確定論的であったということ。

B君:環境や健康に関わるもののうちで、現時点で不確実性があるものと言えば、1.「生物が絡んでいること」、2.「地球レベルの話」、以上の2点。

A君:特に、ヒトというものは不確実性が高い。ヒトの体細胞の総数は60兆個だけれど、腸内に生息する細菌数は100兆個と身体の細胞数よりも多い。抗生物質を飲めば、この100兆個の細菌が影響を受けて弱ったり死んだりすれば、次に別の細菌が入ってくる。これらの細菌は、腸管免疫にとって非常に重要。ヒトは、自分の細胞よりも多い他の細胞に依存して生きているから、自分全体というものは時々刻々変わっているとも言える。自分の今日の身体は昨日の身体と同じように思えるが、現実は、他の無数の生命に依存しているために、毎日毎日状況が違う。

B君:地球レベルの話は、未だに全地球を把握できていないことが大きい。特に、海底や地底は分からないことだらけ。

A君:勿論、地球温暖化のシミュレーションでも、本来連続なものをいくつかのセルに分割して計算しているので、そこに不確実性がある。

C先生:科学に不確実性があるのは事実だが、だからといって全否定してしまえば、それは「自分の論理」になるだけだ。「村の論理」として共有されるぐらいのものにするには、それなりの科学への言及があってもしかるべきだろう。


「公共心=互恵的利他性」と「未来」の重視が解決を導く

A君:最大の問題はなにか。色々と有りうるものの、我々の観点からは、「村の論理」とその極限形である「自分の論理」が問題。

B君:それに対抗するものは、いろいろと考えられるものの、最低限、「公共心=互恵的利他性」と「未来」を重視する考察と行動が重要なのではないか。

A君:そして、そこには、ある程度の「科学」によるバックアップが必要不可欠。

B君:ということは、独善的な「村の論理」と「自分の論理」の打破を最終的に見据えながら、「公共心=互恵的利他性」と「未来」を重視しつつ、「科学的に確実な知見」とは何かを探り続ける。

A君:それを「匿名」でやっても無意味かもしれない。

B君:当然、実名を出して、自分の存在を賭けて行う以外にない。

A君:さらに、「中立」が重要なのだけれど、本当の意味での「中立」とは何か、これが大問題になる。

B君:利害関係が無いというのが「中立」の定義だと思う人もいるけれど、あらゆる人は、なんらかの利害関係がある。だから、我々としては、「科学的中立」あるいは、「科学者としての良心、すなわち、科学というものを意図的に曲げないという意味で中立」ぐらいしかない。

A君:しかし、科学者というのは専門家。専門家は国からなんらかの研究費をもらった人で、国に恩義を感じている、と見られる。

B君:そのためか、どこかの国立大学(今なら国立大学法人)に所属していても、完全反主流で、永年助手だったような人は、信頼されたりする。

A君:科学者も、ある種の権威をもっていると考えられている節はある。現時点では、権威は何にしても嫌われる。

B君:だから、「中立」もこういう中立を目指すと宣言して、我々なら、「科学的中立」なのだが、それにしたがって誠実に行動するしかないか。

A君:心しますが、これまでやってきたことと大きくは変わらないですね。これを続けられるところまで続けるのでしょうか。

C先生:たまたま、World Economic Forumいわゆるダボス会議の世界リスク報告の2013年版を読んだ。これまで述べてきたようなことが、その報告書では、Cognitive Biasesという言葉で表現されていることが分かった。日本語に直せば「認知バイアス」だろうが、どのようなバイアスだろうか、と考えた結果、次のようなリストを作った。しかし、これは学問的な「認知バイアス」とはいささか異なっているので、ご注意を!

広義の環境問題で見られる認知バイアス?? Cognitive Biases
(1) 予想可能なのに事件が起きるまで無視するバイアス
(2) 自分に都合の悪いことは無視し、欲しい情報のみで先入観を補強するバイアス
(3) 陰謀論を振りまいて無視するバイアス
(4) 二律背反的(例:環境と経済は相反)な考え方で無視するバイアス
(5) 遠い未来に起きる可能性を無視するバイアス
(6) 不確実性をことさら強調するバイアス
(7) 非科学的な自分達だけの理論を強調するバイアス


 やはり、このあたりをどこまでエグることができるか、それが最終目標なのかもしれない、などと思った。
 まあ、夏の夜の戯言としては、このぐらいの結論にしておこう。