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   文系と理系の溝  
   12.22.2013
        2013年最大の違和感の原因か? 




 そろそろ年末ですので、今年を若干振り返って見ることにします。

 2013年の年頭から3月ごろまでは、不確実性・不確定性、ベイズ統計などの話を多く書いていました。

 そして、4月ぐらいからリスク・コミュニケーションをどう進めると良いのか、訓練をどのように積んだら良いのか、などコミュニケーションについて考えていたようです。

 そして、最近では、リスクの認知、特に、認知バイアスと呼ばれる事柄が、もっとも気になることの一つになっています。

 このような問題意識をもつ思考パターンに入り込んだのは、当然のことながら、低線量被曝の人体影響とそのメディアによる報道、さらには、原発をどうすべきかに対する様々な人々の意見や主張、などによって引き起こされた多くの違和感が原因だったことは確実です。

 かなり確実なことなのになぜ。そして、不確実性・不確定性などもキチンと伝わらないのか。リスク認知がどうして違うのか。こんなことを色々と考えているうちに、一般社会は80%以上文系社会であるのに対し、個人的に接触する機会が多い人々が、かなりの割合で理系であることを改めて認識するに至りました。

 そのため、理系と文系の違いは、単に、数学ができるとか、物理が嫌いとか言う問題ではないのかもしれない、と思い始めた訳です。

 理系と文系の違い、あるいは、文理融合の重要性を説いている本を探したところ、アマゾンを探しても、ほんの数冊しかないことを発見しました。これらの本のご紹介は、正月休みに読破してからにしましょう。

 しばらく前になりますが、12月8日、朝日新聞の科学医療部長上田俊英氏が同紙のザ・コラムに次のような文章を書きました。まずは、このご紹介から。



C先生:この1年間の一つのキーワードが不確実性・不確定性だった。この言葉は、どうも一つの本質的な、というか、分水嶺的な概念のような気がしてならない。何の分水嶺か、と言えば、文系と理系だ。
 「理系と文系」の二分法は、福島原発事故以前には、「余り意味のない悪しき二分法だ」と思っていたのだが、このところ、「やはり何かあるのではないか」、という言葉が脳みその内部でうごめいているのだ。

A君:議論を始める前に、まずは、上田氏のザ・コラムの記事の要点を紹介をしてみますか。

自然と科学 確率の世界とどう向き合うか
朝日新聞 東京本社科学医療部長 上田俊英ザ・コラム 2013年12月8日

前略
 科学はさまざまな自然現象のなかから法則性を見いだし、自然を理解する学問である。しかし、法則は厳密でも、科学が導き出す回答は、たいていは確率的だ。
 なにしろ物質の根源である素粒子の世界が「不確定性原理」にとらわれている。
 ドイツの物理学者ハイゼンベルグは1927年、ミクロの世界では物の位置と運動の様子を同時に、正確に知ることはできないという「原理」を発表した。理由は、人間の知恵と技が未熟だからではない。ミクロの世界では、物はもともとぼやけて存在しているからだ。

中略
 いくつもの自然現象が複雑にからみあった生命科学や地球科学、巨大工学のような世界では、科学が導き出す回答は、なおさら確率的になる。そして、明確な答えを求める社会との間に、しばしば溝ができる。

中略
 既存の原子炉が損傷する深刻な事故の発生頻度について、国際原子力機関が掲げる目標は「原発1基あたり、1万年に1回」。
 さて、この確率をどう読もう。「1万年に1回」どころか「永遠にゼロ」がいいに決まっているが、それは「絶対に有効な治療法」を求めるに等しい。「1万年に1回」ならいいのか、それでも嫌なのか。決めるのは、やはり私たち、人、である。



B君:上田俊英氏をネットで調べると、東京大学理学部物理学科の出身で、学部を卒業して朝日新聞に入社しているというやや変わった経歴。

A君:要するに理系だということ。しかし、最後のところで、「決めるのは、やはり私たち、人、である」とまとめるのは、当たり前の結論だとも言えますが、文系との調和を保とうとしているように思えます。

B君:なぜ履歴を調べたのか、というと、「科学が導き出す回答は、なおさら確率的になる。そして、明確な答えを求める社会との間に、しばしば溝ができる」、という記述が、どうしても、文系人の書く文章だと思えなかったからなのだ。

A君:確かに。

B君:その下にある文章、「原子炉の損傷する深刻な事故の発生頻度が、国際原子力機関が掲げる目標が「原発1基あたり、1万年に1回」、というもの、どうみても文系らしからぬ文章だと思ったのだ。

A君:ただ、国際原子力機関(IAEA)の目標が、「原発1基あたり1万年に1回」は、かなり大きすぎると思うのです。なぜなら、将来、世界で原発1000基が運転されるような時代になると、10年に1回の深刻な事故が起きてしまう。これは許容不可能。

C先生:このあたりの事実関係は、少々勉強をしてから議論をしよう。どうも、時代変遷があるようだから。

B君:色々とネットを調べていたら、上田氏が今年の7月に書いた署名入りのコラムに対するコメントが見つかった。

 朝日新聞が上田俊英・東京・科学医療部長の署名入りで一面に掲載したコラムは、見出しを「原発の将来 議論不十分」としており、中途半端で不十分な論説でした。たしかに「安易に原発を再稼働させることではない」、あるいは「理念なき原発の再稼働は将来に禍根を残す」と指摘もしていました。それなら、見出しは「安易に再稼働させるな」、または「原発再稼働は将来に禍根残す」と、ずばり切り込むべきでした。

A君:このコメントを書いた人は、明らかに文系。はじめから絶対的な結論がある。上田氏のように、色々なケースを考えて、なんとなく相対的な記述をしてしまうのが理系の習い性と言えるのではないですか。そういう意味で、これらも上田氏が理系だから書く文章かもしれないですね。

B君:このように理系・文系の違いを断定的に書くと、かなり反対意見を受けることになると思う。しかし、もう一つ。最近、こんなニュースもあった。

 原爆症認定制度を巡り、厚生労働省の被爆者医療分科会で新しい審査基準が決まった12月16日に、被爆者団体からは、「切り捨てのための新基準だ」と、現行制度の微修正にとどめた国側の消極的姿勢に対して、批判の声が相次いだ。
 この件に関して、松井一實広島市長は、厚労省において「被爆者援護政策で科学的知見が必要なのは認識しているが、科学には限界がある」と指摘した。

A君:なるほど。

B君:この最後の言葉、「科学には限界がある」に、どのような意味を持たせているか、それが分からないので、なんとも言えないが、ちょっと興味をもった。

A君:松井市長は、京大法学部卒ですから、文系と言えるでしょう。広島出身で、昭和28年生まれの被爆二世。
 Wikiによれば、被爆者であることを理由として医療費支給を求められたことに触れ、「『くれ、くれ』という権利要求みたいな気持ちではなく、『ありがとう』の気持ちを持つことを忘れないように」等の趣旨の発言をした。

B君:しかし、「科学には限界がある」という発言の真意は不明だな。まあ、「政治的に決めよ」ということか。

C先生:他人の発言の真意がどうか、という議論は難しいことだ。もっと分かりやすい例を上げよう。

A君:それでは、しばしば使う例を出しますか。

B君:今後の日本のエネルギーについてどう思うか?、という問に対する答え。

a型:原発のような安心できないものは、即刻止めるべきだ。理屈をこねる必要もない。
b型:いやいや、原発こそ安価なエネルギー。長期間に渡って使うべきだ。化石燃料の輸入が増えて、貿易赤字がひどくなった。
c型:省エネ技術を極め、世界に売るべきだ。
d型:原発は最終処分が問題、化石燃料は気候変動限界が近い、自然エネルギーは不安定。すべてにリスクがある。だましだまし使うしかない。


A君:これまでの経験だと、理系の回答はd型である場合が多いですね。

B君:a,b,c型のように、一つの結論を主張するタイプは、文系である場合が多い。一方、理系は、比較の上で選択しようとする傾向が強い。

C先生:この仮の結論が本当かどうか、まだまだ検証が必要のようだ。
 ところで、もう一つの不確実性についての認識についても、若干紹介しよう。

A君:まず、不確実性があることは、支配している原理もしくは原則が何かで判断するのが理系。現時点で、不確実なことは、上田氏が指摘しているように、巨大システムである場合が多い。

B君:ヒトというシステムは約60兆個の細胞からなる巨大システムであるだけでなく、ヒトは約100兆個もの腸内細菌と共生している。

A君:その100兆個の腸内細菌は、嫌気性の細菌が大部分で、有毒物を生成する菌が存在している場合もあるけれど、多くの場合には、腸内に体外から入り込んだ細菌の増殖を防止する役割も果たす。ヒトという生物は、自分という命の他に、100兆個もの他の生命を使って生きている、とも言える。

B君:ヒトの健康・寿命などは、したがって、非常に不確実性が高い。

A君:地球そのものも不確実性が高く、その上の生態系を含めるととんでもなく不確実性が高い。

B君:我々が不確実性を議論するときには、まずは、ヒトの不確実性、それに、地球の不確実性を意識すべきだということになる。もちろん、巨大小惑星が地球に衝突することなどを含めて、太陽系の不確実性も大きいのだけれど、それは、意識しても仕方がないことなので、理系でも無視している。

A君:このような前提で不確実性を図示してみようと考えて、できた図がこんなものですね。


図1 不確実性への認識 理系・文系の相違

B君:これまで説明してきたのは、古典的な物理学の原則は確定的だということで、世の中の半分ぐらいの現象は、確定的と考えても良いのではないか。突然、太陽が西から登ることは無い。超大型の小惑星が衝突して自転方向まで変われば別だけど。そんなことが起きれば、月がもう一つできるかもしれないし、地球上の生物はほぼ全部絶滅するだろう。

A君:理系の場合、「太陽が西から登ることは無い」ことは最大級に確実として、「突然1日が23時間になることは当面ない」程度に確実なことが、現象全体の半分を占めている、と思っている。

B君:それって、別の解釈もできるな。文系の場合、太陽が西から登るとか、1日が23時間になるといったことは、「考慮すべき現象」には含まれていないのかもしれない。すなわち、「太陽が東から登ることや、1日が24時間であることは、余りにも当然で、意識すべきことの外にある」

A君:確かに。しかし、この図でも、文系の底部には、確定的な部分がほんの少しだけある。それは、無意識だからウェイトが低いために、非常に少なく表現されている、という言い訳も通りそう。

B君:理系人だと絶対的とも言える確定性があると思っている「古典論」でのエネルギー保存の法則、質量保存の法則は、文系の一部の人々には全く意識されていないかもしれない。さらに、熱力学の第ニ法則・第三法則は全く意識されていないに違いない。

C先生:まあこんなところが本日時点での結論だろうか。やはり、文系と理系の間には、若干の溝があるように思えてしまうのだ。もっとも典型的と感じることが、最初からなぜか結論がある文系、比較をしないと結論が出せないと思う理系

A君:最初からなぜ結論があるのか。そこが我々にとっては、理解が難しいところですね。

B君:だからエネルギー問題のように、リスクの大小を比較しながら、最適のルートを模索し続けるという以外にないと思っている理系にとっては、理解できない主張が多くなる。

A君:理系でも、何か強烈なインパクトのある経験をしてしまうと、本能的に反対をしてしまうということはありますよね。

B君:それは、それに関連する事項については、理系の本性を捨てたと言うべきなのではないか。

A君:その理系人は、その関連事項を、現象という中立的なジャンルから、政治というジャンルに分類し直したと説明すれば良いということですか。

B君:まあそうだ。
 ところで、”理系 文系”で検索される本の一つを、ちょっとだけご紹介してみよう。ある極端な本だが、それによれば、『私立文系の高学歴』ほど洗脳されやすい。その理由は、私立文系の高学歴になるには、暗記力が高いことが合格の条件だからだ。(断定的!)
 一方、『国立文系の高学歴』は、暗記力だけでは得点できない数学が入試科目になっている。
 すなわち、暗記力だけを徹底的に高めると、『洗脳されやすく、だまされやすい人間が誕生する』。(本当かよ!)

A君:やはり一言。アマゾンで、和田昭允先生著の「理系にあって、文系にないシンプル思考法」へのコメントを読むと、文系・理系二分論はナンセンスだという主張がメジャーで、文系の中には理系コンプレックスを持っている人がいるのかもしれない、と思ってしまいました。

C先生:まあ、無駄に文章を長くしている状態になったから、ここで止めよう。来年は、「理系と文系の溝」の解明を若干意識しながら、事例を集める努力をしてみる。それには、「理系・文系」で検索される本を集めてみることから始めるか。