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  低エミッション型都市 12.19.2004



 本文章は、文部科学省の科学技術が行っている「科学技術の中長期発展に係る俯瞰的予測調査」のために記述する発展シナリオのために、準備用として長さを気にしないで書いたものである。今週はHPを書いている暇がないもので、ここで公開。提出用のシナリオは、本文章の量を半分に減らしたものになる予定。


シナリオ「低エミッション型都市」

                                  国際連合大学
                                     安井 至

 低エミッション型都市とは、都市からの排出が引き起こす環境面での問題が十分に対処された都市を意味する。しかし、短期的に見れば排出が中心課題ではあるが、長期的な観点からは、排出に対する配慮だけが行われるのでは十分ではなく、都市が使用する物質、空間、などの資源、すなわち、入力側への配慮がなされた都市でなければならない。

1.現状分析
(1)環境問題における発展ステージ
 環境問題は、国・地域によって様々な様相を呈しているように見えるが、実際には、発展ステージという共通のシナリオに則り変容をしているに過ぎない。
 発展の第一ステージとは何だろう。1620年に北米に到達したメイフラワー号の人々が最初に何をやったか、それを自らの問題として考えれば、答えは明らかである。まず、水の供給がある地域を選択し、周辺の自然から、木材を中心とした資源を採取して社会的インフラを整備し、狩猟と農業とを営むことによって、食糧を確保した。自然には再生能力があるために、このような活動の規模が小さな間は、持続的にこのような活動が続く。しかし、周辺の自然の能力を超す人間活動を行うことは不可能であったため、人々はその活動範囲を西部に向かって拡張せざるをえなかった。そして、東部にあった森林のほとんどすべて消費しながら、西部に向かった。 メイフラワー号の人々が米国に向かった理由だが、ヨーロッパにおける気候が一時的に寒冷化し、人口を支える食糧生産が限界に来ていたという環境の変化にその原因がある。
 しかし、もしも、この時期でなかったら、米国へ移民した人々は生存が不可能であったかもしれない。木材資源を使い終わった頃、化石燃料を使う産業革命が起き、人間活動が必ずしも木材に依存しないで行えるようになったからである。
現時点でも、米国の経済活動は、未だにこのパターンが継続可能であるという仮定に基づいている。すなわち、こと米国に関しては、西部は無限に続くことになっている。しかし、かつてのベトナムも、現在のイラクも、米国にとって「西部」では有り得ないようである。
 もしも拡張が不可能な小島であったらどうなるのか。それは、外部からなんらかの食糧・資源を持ち込むしか方法は無い。木材の変わりに、化石燃料なる便利なエネルギー源を持ち込んだのが、産業革命である。だが、何にでも副作用はある。すなわち化石燃料に基づく公害が発生した。しかし、化石燃料が続く限り、このような問題を、これまた化石燃料の使用によって解決することが可能である。これが、現時点の先進国の姿である。木材に変わるエネルギーの導入によって発展を遂げ、そして、その際に生じた歪も、大量のエネルギーを投入することによって解決してきた。
 先進工業国の実体はそんなものである。現在の先進国の消費性向が変化せず、途上国が現在の先進国の後を追うのであれば、化石燃料が尽きると同時に、人類の文明は滅びることがほぼ確実である。そのためには、第三の革命が必要である。第一の革命は、人類が定住農耕生活を始めたこと、そして、第二の革命が産業革命である。第三の革命とは何か。一言で言えば、人類の豊かさに対する考え方を変えることによって実現される「エネルギーと物質の消費からの離脱」である。
 これまでの先進国の価値観は、どうやら米国によって形成された価値観を無批判に受け入れてきたように思える。すなわち、大量消費を行うことが豊かな生活であり、これが人類の発展であるという考え方である。この考え方から離脱する方向が、先進国の基本的な方向性でなければならない。すなわち、低エミッション都市の方向性も、究極的には、物質文明・大量エネルギー消費型文明からの離脱を意味するものでなければならない。この範囲内であっても、人類の福祉の向上と幸福を追求できると同時に、経済活動も十分に成立しうることを実証することが、現代日本における最大の挑戦である。

(2)都市の発展段階
 都市の発展段階が、以上に述べた環境の発展段階とそれほど違う訳ではない。ただし、都市およびその周辺地域には、都市全体が依存しうるほどの森林資源が無いから、最初から、化石燃料の利用が前提となるということがやや違うだけである。すなわち、通常の環境の発展は、森林資源の利用や農業の活用が最初の段階であるが、都市の場合には、次の段階である衛生状態の改善や環境汚染からの離脱が、対処すべき最初の段階となる。
 18世紀中期、ロンドンでは食品廃棄物・人間の排泄物による汚染がひどく、同時に石炭暖房による汚染の状態も最悪であった。そして、大気汚染は、19世紀に向けてさらに深刻な状況に向かった。この段階からの離脱が低エミッション都市への第一段階であった。
 現在でも、発展途上国の都市の周辺には、廃棄物の集積地といえば聞こえは良いが、ゴミの山が存在している場合がある。この段階を焼却処理などの方法論によってクリアーすると、次の段階が、現在の日本の段階である循環型社会である。しかし、後述のように、循環はそれなりの解決を与えるが、それが完全な解ではないことは明らかである。我々が最終的に戦うべき相手は、エントロピーの増大であり、リサイクルによってその1/4程度は防止することができるが、まあその程度のものである。すなわち、いくらリサイクルをしても、3/4のエントロピーぐらいは増加してしまうのである。
 都市におけるエントロピーの増大は、排熱の増大によるものが大部分だと考えて良い。廃棄物の問題も無いとは言えないが、循環によって解決法が無い訳では無いからである。地球環境では、現在、温暖化が問題となっているが、これは、人間活動からの排熱が問題になっているのではない。地球に降り注ぐ莫大な太陽エネルギーが、最終的に宇宙空間に放出される際に、温暖化ガスが若干邪魔をすることによって問題が発生している。もしも、人間活動からの排熱が地球の温度を直接的に招くような事態になれば、それこそ、環境問題の最終段階である。しかし、そのような状況を招くのは、実は結構難しい。なぜならば、化石燃料はそれほどの量が存在していないからである。唯一の可能性が、核融合が実現したときであろう。
 さて、話を都市問題に戻すと、環境問題の最終形、すなわち、排熱の問題が、都市においてはすでに現象として現れている。都市には、これに対して、大量の熱源が存在し、さらに、都市の構造の変化が太陽エネルギーを効率的に吸収する機能を与えてしまったため、ヒートアイランド現象が発生している。
 ということは、ヒートアイランドを解決することができれば、そして、その解決法が地球レベルで適用可能であるとするのなら、我々は、地球レベルの問題を解決することができる可能性がある。それを可能にする技術的な検討については後述する。

(3)社会的な意識の進展
 いくら技術が進展したとしても、技術が解決できる問題には限界がある。現在の経済社会には二種類の大きな危険性が潜在的に存在している。すなわち、一つが「地球の限界の無視」であり、もう一つが、「技術的発展の限界の無視」である。経済的問題を取り扱うすべての関係者がこれら二種類の限界を基本的な境界条件として取り入れない限り、根本的な解決に至るとは思えない。特に、メディア界の経済関係者の中に、このような広い視野を持っている人が居るとは思えない。すなわち、この二種類の限界を認識することが、すべての現代人に課された重大な義務であると思われる。しかし、現実には、なかなか認めたがらない経済界の人々も多い。恐らく、現在の経済社会を維持することが、それらの人々にとって、最大の課題なのだろう。
 今後、低エミッション都市が実現していくには、このような状況をいち早く脱却し、都市に住むすべての人々の理解が進むことが必要不可欠である。

2.発展シナリオ

(1)シナリオを決める境界条件
 低エミッション都市の未来を考察する際、必要不可欠な境界条件には、次の二種類がある。
 一つは、地球の能力に関する限界であり、もう一つは、都市というものの空間的な境界条件の設定である。
地球の能力の限界には、地下資源の供給限界と、もう一つ、生態系の再生能力の限界がある。この地球の能力と競うのが、人間活動の規模である。これは、(一人あたりの活動量)×(人口)と定義できる。都市というもものが物質的に閉じた世界であれば、人口の変わりに人口密度を用いるべきであるのだが、実際のところ、都市は、資源的に周辺地域に大きく依存しているため、多くの事象について、人口密度を考察する意味はない。例えば、廃棄物をすべて都市内で処理するのであれば、人口密度が重要な要因となる。しかしそうではなく、現状のように、周辺地域の空間に依存すれば、人口密度を考慮すべき状況は限られてくる。エネルギーにしても、周辺地域との関係は廃棄物と同様で、電力に関して言えば、周辺地域に置かれた発電所から、いわばエネルギーのエッセンスのような電力が供給され、廃棄物である排熱・二酸化炭素・石炭灰などは周辺地域に置いてきている。
 唯一、ヒートアイランド現象については、エネルギー密度のようなものが考察の対象になる。さらに、次のような議論も関係するだろう。すなわち、都市はコンパクトであるべきか、といった議論である。都市は、効率を向上させるために十分コンパクトであるべきか、あるいは、公園地域を十分に持たせた広い都市を目指すべきなのか、といった議論である。
 このように、二種の境界条件は、相互に関連性がある。一つの知的な挑戦として、都市を完全閉鎖空間として考えることも有り得るが、現実的には、化石燃料の供給、食糧の供給、という二種類の入力を許容しないかぎり、都市の中での人々は生存できない。
 そこで、低エミッション都市というものを考慮する意味が出てくる。すなわち、排出側は厳格に制御して、周辺地域における廃棄物の処理処分は最小限とすることである。しかし、処理処分に関しても、焼却という方法論をとる限り、二酸化炭素という廃棄物が都市外に出てしまうので、実のところ、低エミッション都市というものを考えることによって、すべての問題が解決する訳ではない。
 そこで、本検討においては、むしろエネルギーとその他の物質の入力側をきつく制限し、その結果として、低エミッションにする方法論を考察することとする。



(2)バックキャスト型シナリオ
 具体的には、現時点を基準としたとき、エネルギー消費量、材料使用量が、2050年には、それぞれ1/2、1/4になるものとし、廃棄物の発生については、1/8を目指すこととする。二酸化炭素の発生だが、処理処分技術の導入による削減を含めない。
 これに向けてバックキャスト型シナリオを検討するのは、実のところ現実的ではない。なぜならば、現時点でも、都市内でのエネルギー消費量は増加しているものと考えられるからである。そこで、2010年までは現状のエネルギー・物質消費の若干の増加を許容し、2015年から2050年の目標値に向かって、エネルギー消費と材料使用量が直線的に低下していく道筋を考察の前提とする。
 本来、このようなシナリオは、人口の増減によって大きな影響を受ける。しかし、ここでは、人口の増減についての議論を避けるために、一人あたりのエネルギー消費量、材料使用量を上述の目標値とすることを前提とする。2050年には、日本の人口は現在から20%以上減少しているものと思われるので、もしも総量で比較すると、達成率はその分高いことになる。
 されに、低エミッション都市の実現によって、現在よりも経済的な指数が減少してしまうことは、できるだけ避ける。経済的な指標が実現可能かどうか、それは、市民社会の価値観に依存する。粗悪なリサイクル製品を安価で流通させることは、経済的に価値の創生が期待できず、社会的目標とは成り得ない。資源・エネルギーの使用を削減しつつ、価値の高い製品を十分に評価する社会の実現が必要不可欠である。このような方向性に向かう市民社会の精神構造の変更が、かなり重要である。そのためには、従前の豊かさとは違った価値観をもった社会を構成する必要がある。
 過去実現されてきた、第一の革命、すなわち農業革命の目的は飢餓からの開放であり、第二の革命、すなわち産業革命は利便性・快適性の追求であった。すなわち、人間の欲望を満足させる方向とほぼ同一であった。そのために、多少の紆余曲折はあったものの、人類の目指すべき方向であると認知され、少なくとも20世紀までは、人類の目標足りえた。現時点でも、まだこの目標を共有している。しかし、第三の革命である「物質・エネルギー依存経済からの離脱」を推し進めると、人類の欲望の一部である利便性・快適性を直接的には満足させない方向性を目指すことになる。すなわち、ある種の困難が予測される。
 人類のもっている欲望・本能とは、果たして快適性・利便性の実現だけなのだろうか。もしも、快適性・利便性だけが重要な欲望・本能だとするのなら、第三の革命は不可能である。果たして何か別のものがあるのか。
 この疑問への答えは、「多分ある」。もともとヒトなる生き物は、単独で存在しえないものである。社会というものを構成しながら、これまで生存してきている。その社会の中での満足感は、個人的な欲望である快適性・利便性とは多少とも異なるものである。すなわち、他人に認められ、社会的貢献に対して評価を受け、そして、社会への貢献を自慢できる。こんな欲望が満たされることが、個人的快適性や利便性の追及よりも、より上位に位置させることができるのではないだろうか。
 社会全体がこのような方向を目指すには、やはりコミュニティーの復活が必要不可欠である。都市、特に、大都会では個人と個人が相互の関係をできるだけ希薄にしながら生きている。他人に干渉されず、他人に関心を持たず、個人の価値観だけで生きている。都市におけるこの状態をなんとか改善しない限り、第三の革命は実現しないだろう。それには、これまでのような束縛感の強いコミュニティーではなく、新しいタイプのコミュニティーを作ることが、何にもまして重要な要素となるだろう。

3.考察すべき事象
 低エミッション都市を実現するためには、主として、3種類の異なった領域での努力が必要となるだろう。
(1)技術的な開発
(2)積極的な政策の展開と社会の変容
(3)市民レベルの理解度の進展
 要するに、第三の革命とも言えるこの手の変革は、簡単にはなしえない。技術、政策、理解の三位一体の努力によってのみ、実現が可能であろう。

(1)技術的な開発の必要性
 政策的なオプションを多く用意し、市民レベルの理解度の高いものから、徐々に実施に移す必要がある。前述のように、技術に限界は無いにしても、技術によって解決できる問題には限界がある。すなわち、一つの目標を達成するためと限定すれば、技術には解決できる能力があるが、すべてにおいて優れている技術があるか、と問われれば、それには大きな限界が存在する。しかし、技術無しに問題の解決が不可能であることは厳然たる事実である。まず、技術的な開発からスタートする必要がある。
 技術的な開発が必要な分野には、以下のようなものがあるだろう。
1)エネルギー供給の効率化
2)エネルギー使用の効率化
3)素材・製品の複数回利用による効率化
4)適切なリサイクル
5)最終処分の最小化技術
6)持続性を指標とする「技術を評価する技術」
 以下、順次、若干の説明と課題の検討を行う。

1)エネルギー供給の効率化
 まず、エネルギー供給の効率化であるが、まずは、電気エネルギーの供給法、オフィスビル用エネルギーの供給法、住宅暖房用エネルギーの供給法、交通用エネルギーの選択、などを効率化する必要がある。
 電気エネルギー、熱エネルギーの同時供給を可能にする分散型コジェネレーションは、ビル用、あるいは、住宅用のエネルギー供給として一つの方法論であろう。しかし、このコジェネレーションが本当に効果的に機能するためには、発電効率が格段に高くなる必要がある。現在、現実的な方法論は、ディーゼルガスエンジンであるが、この方法による電気・熱の供給比率は、未だに熱に偏りすぎており、温湯などを相当大量に使用する状況にない限り無駄になる。もしも無駄になれば、都市のヒートアイランド現象にとっては、原因の一つになりうるので、むしろ、電気エネルギーを素直に使用する法が賢いかもしれない。
 発電効率を極限まで高くするには、やはり燃料電池が必要であるが、水素を使用した高分子電解質型の燃料電池が普及するとは思えない。その理由であるが、触媒にPtを使わず、しかも、触媒が一酸化炭素によって被毒されないような技術の開発が、結局できないのではないか、という予想に基づいているものであるので、もしも、触媒の開発が旨くいけば、その限りではない。しかし、もしも触媒開発が旨くいったとしても、水素の持つ特性は必ずしもメリットばかりではない。
 やや遠い将来のことになる可能性があるが、高分子電解質型ではない燃料電池が実用化される可能性が強い。候補としては、芸術品のような精度を必要とするために、コストダウンは困難であるかもしれないが、酸化物系の固体電解質を用いた高温型燃料電池になるように思える。
 再生可能エネルギーの活用による化石燃料への負荷を下げることは、必須の課題である。この面で可能性が高いものは、諸外国では風力であろうが、日本の場合、風の状況が余り望ましいものではないために、やはり、これまで同様太陽光発電に特化することが重要かもしれない。そのような場合の太陽電池であるが、効率向上も勿論必要であるが、使い方の進歩も必要である。やはり建築物との一体型を追求することが条件になるだろう。特別に架台を設置するのであれば、その架台のための環境負荷がばかにならないからである。高層ビルにおいては、壁面、窓などの有効活用が必要である。
 再生可能エネルギーの導入は、先進国の電力供給網への接続が必須であるが、そのため、電力供給網の安定性を重視すれば、10%程度、いくらがんばっても20%以内に留まるだろう。そこで、必要となる技術が発電の平準化技術である。これまで、電力平準化技術は、ロードレベリングと呼ばれ、深夜電力を貯蔵して昼間に使用することがその目的であった。このような目的には、揚水発電が効率面からみて有効な手段であった。しかし、再生可能エネルギーの活用のために必要な平準化技術は、もっと時定数の短い変動に対応が可能なものでなければならない。やはり、ある種の電池のようなものが必要になるだろう。燃料電池であっても勿論良いのかもしれない。他の方法論を含め、あらゆる可能性が検討されるべき分野であるように思える。
 日本における可能性の高いエネルギー源が、地熱であろう。地熱エネルギーの積極的な開発が望まれるが、必ずしも、発電にのみ注目するのではなく、北日本においては、地熱をそのまま熱源として利用する観点がもっと有っても良い。
 さらに、太陽のエネルギーを直接利用するには、かならずしも太陽光発電だけが優れたものという訳でもない。それも、太陽熱発電だけでなく、太陽熱の直接利用をもコンセプトの中には入れるべきである。
 都市を離れ、世界に目を向ければ、アフリカなどの諸外国における水力発電の可能性についても、世界全体でもっと真剣に検討すべきである。もしもアフリカに大型の電力供給が可能になるのであれば、これは世界全体の安定性の向上にも寄与しうるものだろう。もっとも、紛争の解決がそれ以前に必要な第一段階であるかもしれないが。
エネルギー供給効率の向上のために、必要な技術をもう一度整理すれば、(1)安定して作動する燃料電池の開発と低コスト化、(2)蓄電装置を備えた再生可能エネルギーの開発と低コスト化、(3)電熱同時供給法の確立、(4)地熱エネルギーの熱供給への利用、(5)太陽熱の利用法の再構築、以上5つがキーとなるだろう。この実現の時期は、2015年程度に設定すべきだろうと思われる。世界全体での水力発電の開発は、大規模ダムの開発を含むものになる可能性が高いため、むしろ社会の受容性の問題かもしれない。

2)エネルギー使用の効率化
 エネルギー使用に関しては、状況あるいは場所による分類が適当だろう。すなわち、a.家庭あるいはオフィスといった建物に関わるエネルギー、b.自動車・交通用エネルギー、そして、c.材料や製品の製造に関わるエネルギーである。
 家庭あるいはオフィスについては、4種類のエネルギーの使用が重要である。a.冷房・暖房、b.給湯、c.照明、d.電気製品、である。特に、冷暖房の負荷が大きい。冷房にしても暖房にしても、また、給湯にしてもヒートポンプの活用による温熱・冷熱の供給が効率的である。しかし、夏季におけるエアコン室外機から放出される熱風は、ヒートアイランド現象の原因である。冬季は、室内気温20℃、室外気温0℃といった状態では、ヒートポンプの効率は極めて悪い。そこで、地下熱を旨く使うことが賢い方法であろう。井戸水は、ほぼ一年中一定の温度である。これを熱源、あるいは、熱のシンクとして使用すれば、ヒートポンプの効率はかなり高くなる。
 給湯については、すでに、エコキュートという二酸化炭素を熱媒体に用いたートポンプ型の給湯器が存在している。この普及が行われれば、熱効率的に非常に優れているため、二酸化炭素排出などの面で、大きな改善が可能になる。
 照明については、長寿命高効率の蛍光灯を使うことが現状では最善の方法である。LEDの効率は、近い将来蛍光灯を上回るだろうが、現状では、光の指向性などの点で、蛍光灯にかなわない。電球型の蛍光灯の改良は続いているが、まだ光量の立ち上がりに改良の余地がある。しかし、決定的な技術的な進歩はかなり困難ではないだろうか。
 その他の電気製品は、エアコンに加え冷蔵庫はかなり改善が進んだ。問題は、テレビだろうか。最近流行のフラットテレビであるが、プラズマテレビは、かなり改善は進んだもののいまだに消費電力が大きい。液晶テレビにしても、輝度を稼ぐために、消費電力が増加傾向にある。プラズマテレビについては、もしも消費電力の改善が不可能であるとしたら、10年後に存在している技術かどうかいささか疑問である。有機・無機のEL技術に置き換わっている可能性もある。いずれにしても、単位面積あたりの消費電力の半減を目標にしたい。
 b.交通に関わるエネルギーは、非常に大きな改善が期待できる。自動車は、再度、電気自動車の検討が行われるのではないだろうか。電気自動車といえば、航続距離が短いために、通常の自動車を置き換えるには不可能とされてきた。しかし、自動車の日常的な用途は、近距離である場合が多い。ときどき長距離のドライブを行うのであれば、レンタカーでハイブリッド車を借り、それ以外の日常的な用途には、電気自動車を使うというシステムを実現できれば、都市内の大気汚染、ヒートアイランド現象などの解決に大きく貢献するだろう。
 そのためには、ロードプライシングのような政策を積極的に行い、通常の自動車の通行には高額の課金をすると同時に、電気自動車を優遇する政策を推進する必要があるだろう。電気自動車における最大の問題点は、もちろん電池である。電池のような既成の技術における進歩は一般に遅い。駐車場には有料の電源がある、というインフラの整備と同時に、ガソリンスタンドならぬ電池スタンドで、簡単にフル充電された電池と交換できるようなシステムの整備も必要だろう。電気自動車の充電には、いくら技術的な進歩があったとしても、2030年においても、どうしても数時間を要するだろうからである。
 電気自動車普及と同時に、やはり、都市内の電車の充実が望まれる。トロリーバスという選択肢も無いわけではない。しかし、道路という時間的に不確実性の高いインフラを使う公共サービスには限界がある。
 勿論、道路交通システムそのものの改善も必要である。渋滞は、高エミッションの最大の原因である。そこで、GPSシステムを用いた車の制御システムの整備が望まれる。いかなる車でも、目的地を入力すれば、その車の位置が補足され、最適経路を自動的に選択するようなシステムの整備は10年以内に可能だろう。もっとも、このようなシステムができると、自動車の動きは常に監視されている状況になるだろうから、速度違反や不法駐車は即時罰金になりそうであるが。
 最後の材料や製品の製造に関わるエネルギーであるが、この部分については、製造者に削減のインセンティブがあるため、それほど大規模な増加を見ることはないだろう。ただし、その情報を一般公開し、自社の評価を高める仕組みが必要であり、情報公開を進めることは必要不可欠だろう。いずれにしても、この領域での改善は、2050年においても30%止まりではないだろうか。

3) 材料・製品の複数回利用による環境負荷の低減。
 複数回利用、すなわち、リユースである。廃棄物を資源と見るリサイクルよりも、確実に環境負荷が低い。しかし、リサイクル法は各種できたものの、未だに、リユース法というものは存在しない。自動車の世界では、中古車が普通に流通しているが、家電などの世界では、中古家電はまだまだ一般的ではない。ただし、最近のインターネットの発達によって、インターネット・オークションもかなり普及してきた。しかし、製品によっては、中古品の機能に不安がある場合もあり、安心して中古品を購入できる状況にはない。今後、製品の性能をある程度保障するような仕組みが組み込まれる必要があるのだろう。
 いずれにしても、中古品の活用は、低エミッション都市にとって、非常に重要な課題であり、今後の検討が必要不可欠である。
 製品にとっても、部品レベルを共有化し、機能やサイズの変更をより自由にする「やわらかな技術」「しなやかな技術」が求められる。例えば、冷蔵庫にしても、現在のものは、大きなものも小さなもののも、冷凍機の性能自体はそれほど変わらない。となれば、大きな冷蔵庫が不要になったら、その冷蔵庫が縮んで小さな冷蔵庫に化けるといったやり方すら考えられるのではないだろうか。このような技術が現在の状況の中で開発されるとは思えない。やはり、それなりの社会的枠組み、すなわち、リユース法のようなものが成立しなければ無理だろう。

4)適切なリサイクル
 2000年の循環型社会基本法によって規定されているように、循環手法の中で、リサイクルは必ずしも最適の解ではない。実際、リサイクルをLCAによって解析すると、多くの場合、それほど有効ではないことが多いことに気づく。
 最近、ペットボトルの化学リサイクルが始まり、これによって、「ボトルtoボトル」のリサイクルが可能になったとされている。アルミ缶は、昔から「Can to Can」だと主張しているが、果たして、この「BtoB」と「CtoC」とでは、どのぐらいリサイクル効果が違うのだろうか。
 まず、ペットボトルの「BtoB」であるが、回収物の歩留まりなどを考えると、原料になる石油分の節約にはなるが、それ以上では無さそうである。全体的には、1/4程度の石油使用量の削減になるのだろう。本来の目的であるエントロピーの増大の削減については、廃棄物の発生による増大などを考慮すると、さらに効果が少ないだろう。現在のLCAを拡張し、エントロピーの増大のようなより汎用な数値を持続性の指標として用いることが必要不可欠だろう。
 次にアルミ缶の「CtoC」であるが、アルミという素材は、アルミナから電解プロセスで金属アルミを得るプロセスがエネルギー大量消費型であり、それに比較して、アルミスクラップから再度アルミ地金を作るプロセスは融点が低いこともあって、エネルギー必要量が少ない。バージンアルミを製造するエネルギーの1/20程度で足りるという評価もある。しかし、実際のところ、アルミ地金から薄板を作り、さらに、缶に成型した後に塗装をするといった一連のプロセスによる使用エネルギーを考慮すると、「CtoC」によって、2/3程度のエネルギーが節約になるのではないだろうか。アルミのリサイクルは、リサイクルとしては優等生と考えられている。しかし、リサイクルというものの実力は、「最善のものでもこの程度」と考えた方が良さそうである。
 鉄や通常のプラスチックなどのように、水平リサイクルが行われない場合には、再生品の価値がどのぐらい高く保たれているかが問題となる。現在、リサイクルとは言っても、単に「2サイクル」である場合が非常に多い。例えば、ペットボトルからの再生樹脂は、ペットボトル用としては品質の劣化が大きいために使用不可能とされており、包装材料などに使用される。そして小型の電気製品などの包装に使用されれば、それで次の段階はもはや廃棄されるしかない。
 一方、紙の場合には、一部分、第三、第四の再生がなされる場合がある。そのため、製紙原料の55%程度は再生原料が使用されている。
 プラスチックに比較し、紙のリサイクルが進んでいる理由は、使用原料の見分けの容易さにあることに尽きるように思える。プラスチックには余りにも多種多様のものが存在し、そのために、再生原料になりにくいのである。このため、プラスチックは、本質的に難リサイクル素材だと言わざるを得ない。
  特に、フィルム状のプラスチックは、ポリエチレン、ポリプロピレンが同程度使用されており、しかも、食品残渣や接着されたラベルなどの不純物が付着しているために、製鉄原料や燃料として使用することが現実的である。製鉄原料に使用することをマテリアルリサイクルの一形式と主張する向きもあるが、燃料として使用される熱回収、あるいは、サーマルリサイクルと本質的な差が大きい訳ではない。どちらが有効であるか、という定量的には微妙な議論の対象になるにすぎない。ここでも、エントロピーの増大を指標化する必要があるだろう。
 プラスチックの水平リサイクルを行おうとするのであれば、ガス化して再度原料化するという方法もあり得る。このような方法が詳細に検討された例は余り多くは無いが、いずれにしても、分解プロセスの効率化が最大の課題になるだろう。
 いずれにしても、最適なリサイクルのために必要な条件が、消費者による廃棄物の適正な分別である。ところが、現在の日本における家庭からのゴミの分別は、自治体が自らの処理設備だけを考慮して多種多様の主張をしている状態であり、統一的な見解が欠落している。より効率的なリサイクルシステムが構築されるための必要条件として、分別方式のある程度の統一化が必要不可欠である。プラスチックに関しては、硬質透明プラスチックの分別回収と、フィルム状プラスチックの焼却・熱回収を原則とした分別法の確立が行われるべきだろう。しかし、その実現には、最低でも5年間を要するように思える。
 
5)最小化された最終処分
 ゼロエミッションという言葉がある。この概念は、国際連合大学によって提唱されたものとされている。しかし、日本における一般的な理解である、「ゴミを出さず、ゼロにするのがゼロエミッション」という定義は、国連大学のものとは異なる。しかも、日本におけるゼロエミッションは、自社から最終処分を直接行うような排出を避けるだけであり、他の処理業による最終処分には目をつぶるものであった。
 本来のゼロエミッションの定義は、排出物という考え方を変えて、他の産業の原料になるものを排出するという考え方である。しかし、工業系の社会ではこの概念の実現は困難で、農系社会でのゼロエミッションを追求することが現実的であるとされた。
 今後の低エミッション都市を考えると、上述のようにリサイクルにはどうやら限界が存在するようであるから、やはりリデュース、リユース、リサイクルという優先順位をすべての当事者が理解し、長寿命化、修理可能な製品、を実現することによってリデュースし、そして、リサイクル法ではなく、リユース法を整備し、さらに、製品設計によってリサイクルをより推進することを可能にしなければならない。
 最終処分量は、このような方策によって、2050年には、現時点の1/8〜1/10以下になっていることだろう。

6)持続性を指標とする「技術を評価する技術」
 上述のように、現在のLCAは、製品製造などの出力・入力を評価している。しかし、これでは、その製品の持続性を評価したことにはならない。その製品がどのぐらいの寿命をもち、それがどのように修理され、場合によっては、しなやかに形を変えて別の製品として機能しうるか、といった非常に複雑な評価を評価する必要がある。そして、最終的な指標は、誰が考えても、エントロピーの増大であるべきである。しかも、地球全体のエントロピーの増大を指標として用いるべきである。
 このような発想が何故ないか。それは、現在のLCAを行っている研究者・実務者のマインドが問題である。企業関係者だと、自社の製品の正当化のために使うという意図が余りにも強すぎて、社会的にLCAなる方法論をどのように発展させるか、といった観点が無さ過ぎるからである。
 このような評価技術については、意図すれば、若干の必要な基盤整備を行って、それなりに実現できるだろう。目標5年以内であろうか。


具体的な実現時期を考慮し、次のような図を作成した。



(2)積極的な政策の推進と社会の変容
 これまで、我国の環境政策は、結果的にみて、それほど大きく間違ってはいなかったように見える。しかし、どちらかと言えば、対応が遅かった、あるいは、もっと積極的に対応すべきだった、と言う観点から反省をすべき部分が散見されることも事実である。
 国あるいは自治体の役割とは、最終的な着陸地点をできるだけ早く決定し、その着陸地点に向かっての着陸経路を示すことにある。例えば、2050年における人口、経済的規模、エネルギー・資源の消費量、産業構造、などなどを設定し、それに向かって可能な何種類かの着陸経路を示し、市民社会に対して選択を求めることが基本的な役割である。
 ただし、その着陸地点の妥当性を一般市民社会が理解するためには、情報を適切に伝達する必要がある。これまで、情報伝達といえば、普及、理解促進、啓蒙、教育といった言葉が多用されてきた。しかし、もう少々積極的な表現が必要な時代になった。それは、市民各人が、自らの意思で行動を行うレベルまで、情報の伝達が行われる必要がある。すなわち、市民が行動するように、あるいは、積極的に参加をするように動機付けを行うことが必要である。近い言葉としては、啓発があるだろう。
 現時点で、一つの見本になりそうな社会が英国ではないだろうか。温暖化ガスの削減について、英国ほど積極的な政策を導入している国はない。2050年には1990年比で60%削減という目標を掲げている。
 一方、日本の首相が、このような長期見通しを語ることはほとんどない。20世紀の前半から中期のように、地球の限界が明らかではない状況においては、市民社会を事由闊達に、しかも、自らの快適性・利便性の追及のために努力をする方向性を保証することが、政治的にみても正しい選択だった。政治の役割は、経済の発展に伴って、ある種の副作用があることを指摘し、それを回避するための方策を施行することぐらいに限られていた。しかし、それすら適切に行われたかどうか、いささか疑わしい。
 現時点のように、一般市民社会からは見えにくい地球の限界が、たとえ都市という比較的狭い空間に対してもある種の制限を要求してくる時代には、十分な情報を持ち、正しい対策が可能な行政の持つべき責任は大きい。
 とりあえず、すべての都市は、自らの温暖化ガスの排出量の削減計画を発表すべきだろう。しかも、2050年を対象とした長期目標の設定が必要不可欠だろう。その目標値の実現のために、あらゆる可能性を検討し、どの時点で何を行うべきか、その計画を示すべきである。
 それぞれの都市の計画は、自治体の責任になるが、その集合としての国は、まず、全体的な方向性を示すべきだろう。そして、市民社会に対して、その変容を働きかけることが、国の役割になるだろう。
 政策を実施する際、やはり税という仕組みを適切に使用することは、十分に活用されるべきだろう。国全体としての低エミッションを目的とするあらゆる税制の検討が行われるべきである。勿論、単純に税を導入すればよいというものではない。徴収した税をどこに投資するか、これがもっとも重要な選択である。いくつかのオプションが存在するものと思うが、必ず必要な視点が、低エミッション国家・都市のための基本的な技術開発に十分な投資を行うことである。技術的な開発に限界があることを認識すべきだとすでに述べているものの、まだまだ発展の余地があることも事実である。まだまだ乾いた雑巾を絞るような状態ではなく、十分に水を含んだ雑巾を絞る状況にある、というのが筆者の判断である。 

(3)市民レベルの理解度の進展
 勿論、この項は、(2)と非常に深い関係にある。
 これまで、市民レベルには、多くの自由度を与えることが政治の目的であるような対応が行われてきた。実際、発展途上国においては、市民レベルにできるだけ多くの自由度が与えられるように、社会内部での因習を打ち破り、女性を解放し、青少年には教育の機会を与えることが正しい行為のように思える。しかし、現在の日本のような自由化された社会においては、まだ不十分な部分、例えば、すべての企業で育児休暇が本当に取りやすいか、といった問題があることを十分に認識した上で、市民自身の判断によるより自律的な方向への行動の変化を推奨し、推進していく必要があるだろう。すなわち、市民自身が地球の限界を、自らの行動に組み込むことができるような自律的社会の実現を目指すべきだろう。
 このような市民の自主的・自律的な行動が行われるためには、広義の環境教育がなされる必要がある。しかし、すでに述べたように、普及、理解促進、啓蒙、教育といった従来のアプローチではなく、より深層からの理解を進め、自発的な行動ができる市民を育てる必要があるだろう。現在の環境教育を超えた新しい教育技術の確立が望まれるところである。
 すでに歴史的な経緯などの項において述べたように、もしも低エミッション都市の実現が人類の第三革命に関わることであるとするのならば、それには、人間の欲望を上手に活用することが必要不可欠である。飢餓からの離脱でもなく、利便性・快適性の追及でもない欲望、それがあるとすれば、どうも生物個体としての欲望ではないところに、それを見つける以外になさそうである。もしあるとするのなら、やはり、「社会から評価されたい」、という欲望なのではないだろうか。他人から褒められたい、他人に自分の良い行為を自慢したい、社会的な賞を得たい、などなどを活用することが必要のように思える。
 現代社会は、どちらかと言えば、他人との関係を絶って、孤独の中に自らの存在意義を見つけようとする人間が増えているようにも思える。それは、現代に存在しているコミュニティーが、かなり面倒な人間関係を要求しているからのようにも思える。他人の存在を十分に尊重しながら、しかも、仲間内での固定的な評価ではなく、束縛感の少ない「しなやかな評価」が行われていくような社会、そして、多くの人々の正しい行動が評価され褒められる、そんな新しいコミュニティーができることが重要な条件である。

4.まとめ

 低エミッション都市とは言っても、問題点は都市内に留まるものではない。ただし、都市とは、他の地域、あるいは、地球全体よりも、一歩進んだ環境問題が起きている場所をも意味する。典型的な例がヒートアイランド現象である。したがって、地球全体の問題の解決には、まずは、都市の問題を解決する必要がある。
 各論を繰り返すことはしないで、手短に結論を出したい。
21世紀の都市環境問題の本質的な解決を目指すのならば、絶対的な条件が必要である。それは、まず「地球には限界があること」を認めることである。そして、「人間活動の全量を地球限界の中に収めること以外には方法は無い」ということを認識することである。そして、最後に、「技術自身は無限かもしれないが、技術によって解決できる問題には限界があり、地球環境問題のように、エントロピーの増大を止めることの完全な解決は、その限界を超えている」、ことを再確認することである。これらの絶対的な条件を、すべての社会構成員が認めることから、地球環境問題の解決はスタートする。低エミッション都市の実現も、その後に始めて可能となる。
 低エミッション都市が何時実現するに関しては、どうやら、市民社会がエントロピーという言葉を完全に理解する時期が何時かと深く関係しているように思える。