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  「世界一」の誤解、オンエア 11.20.2005
    



 昨晩、11月19日土曜日、女子バレーの日本−中国戦のために、いささか異例の20時27分スタートで、「世界一受けたい授業」が放送された。
 この番組を収録したのは、10月22日であったので、実に、約1ヶ月という時間が経過している。実際の収録は、45分にもわたって行われたが、放送されたのは、15分程度だったと思われる。1/3に縮められている。収録の際には、前編後編があって、後編はリサイクル編だったのだが、そこは全面カット。結果的には、30分収録分の約半分が放送された結果となった。

 まず、小池環境大臣が開始前の出演者紹介をして下さったことに感謝。他の講師の紹介は無かったような。まあ、放送局も最大限の気を使ってくれたようだ。余り小池大臣が目立ったとは思えず、失礼で無ければ良いが。

 番組のビデオ編集もどちらかというと、抑え目に行われていたようで、他の二名の講師のときのタレントによる馬鹿騒ぎ的な部分を多く生かした番組ではなく、比較的大人しい反応の部分が選択されていたようだ。
 このような娯楽番組では仕方が無いことなのだが、ものの本質というものを見抜くことが目的ではなくて、それをネタにタレントのリアクションを楽しむことが目的。こんな番組をきっかけにして、何か調べてみようかとでも思ってくれると良いのだが、そんなことになる可能性は果たしてあるのだろうか。

 カットされたリサイクルの部分はさらに地味だったので、まあ、カットされても当然だろう。

 このような番組で「ウケ」を狙うには、
(1)まさに意外性でウケる
(2)ある種の感性に訴えてウケる
という戦略をとるのが正しい。

 リサイクルについては、タレントにも割合と分かっている部分があって、意外性が当方の思ったよりもインパクトを与えるほどではなかった。
 感性については、色々な感性に訴える方法があるのだが、恐怖感を与える方向、人の善意に訴える方向、がやはり有効であるが、リサイクルしないと、地球が滅びるなどとも言えないし、リサイクルをしてくれると、社会が良くなるとも言いにくい。感性面でもインパクトが低い。

 今回の放送で、逆に誤解を招きそうなことがあるので、そこをもう一度フォローしておきたい。それは、遺伝子組み換え食品である


 遺伝子組み換え食品は、「食べる」ことに限れば、通常の食品よりも安全、ということをかなりしつこく述べたつもりなのだが、「食べる」ことに限れば、というところがどれほど伝達されただろうか。このあたりをご覧になった方から、感想を伺いたいところ。

 遺伝子組み換え食品が与えかねない悪影響については、収録でも余りきちんと説明をしていないのだが、個人的には、次のように考えている。

 まず、日本では、遺伝子組み換え作物の導入に対しては、十二分に慎重であるべきである。その最大の理由は、環境影響が主たる理由でもなく、極めて経済的な理由である。まあ、これを経済的理由と言えばだが。

 遺伝子組み換え作物の種子は、F1種と呼ばれるもので、これは、毎年栽培するごとに種子を種子企業から買う必要がある。農家としては、採種して翌年の種子には使うことができない種類のものなのだ。ということは、もしも遺伝子組み換え作物に切り替えると、特許をもった米国の企業から種子を買わなければならない。しかも、農薬耐性を持っているとはいっても、それはある特定の農薬だけだから、農薬も種子の組み合わせで買うことになる(もっとも除草剤の農薬成分のグリフォサートの特許はすでに切れたが)。

 現時点で、商業化されている遺伝子組み換え作物は食用あるいは飼料用という目的で生産されている。その意味では、これらの作物と通常の作物とが交雑を起こして雑種を作った場合でも、なにか毒性のある植物が出来上がって、そのために、大豆が食べられなくなるといったことにはならないものだろう、と想像はしている。ただ、あくまでも想像であって、それが事実だと確信している訳ではない。

 もう一つの可能性、除草剤耐性をもった妙な雑草ができるかどうか。これは恐らくできるだろう。しかし、それが遺伝子組み換え植物との交雑によるものなのか、それとも通常の突然変異によるものなのか。確率的には、遺伝子組み換えとの交雑による可能性が高いように思える。

 抗生物質を多用しすぎることによって耐性細菌ができてしまうことはある。すなわち、細菌の遺伝子が突然変異株の出現によって変わることは日常茶飯事。この事実を正確に表現すれば、たまたま突然変異をして、抗生物質が効かない新種ができれば、それのみが生存することになって、増殖することになる。細菌も、生存のためには自己防衛が必要である。まあ、当然のことである。

 植物の場合には、細菌ほど単純ではないから、自然に除草剤耐性を持つことは可能性として低い。遺伝子組み換え作物との交雑によって、除草剤耐性を持った雑草が発生した場合には、かなり面倒な作業を強いられる可能性があって、その環境面というよりも、経済面での影響が大きいといった事態になりそうな気がする。もしも、日本への遺伝子組み換え作物の本格導入を議論する場合には、もしも交雑によって悪影響を与えるような植物が繁茂してしまった場合には、遺伝子組み換え作物の種子を販売している企業に、その除去の法的責任を課した上で、導入を許可すべきかもしれない。

 いよいよ、環境面への影響について多少考えたい。環境面では、さらに危ない遺伝子組み換えがありうる。それは、新しい薬用植物を遺伝子組み換えによって作ろうとする試みである。米国よりも、どうやら欧州企業がこんな動きをしている。この場合には、恐らく通常の農地ではなくて、隔離した圃場(農地)で栽培するのだとは思うが、もしも何らかの事故が起きて、周辺の生態系に影響を与えたら、それこそ怖いことになりかねない。これが環境面での本当に怖いことなのかもしれない。

 そして、今後、どのように対応すべきか、ということになる。まず、食品の安全性について、である。普通の野菜などの食品の安全性は、放送でも述べたように、誰も科学的に証明などしていない。しかし、長い期間に渡る経験に基づいて判断されているものなのである。したがって、ときどき間違いもでる。しかし、それは許容されている。その間違いも回復可能だからであろう。すなわち、実時間という時間軸を基本に作られたある種の経験的システムが食品の安全性というものの根幹をなしている。

 ところが、遺伝子組み換えは、時間という枠組みを一挙に飛び越え、まず、通常では起きないような新しい遺伝子の組み合わせを実現している。すなわち、これまでの経験による判断というものが余り有効ではない世界を作っている。したがって、かなりの時間を掛けて、慎重に判断をしつつ、常に元に戻れることを心がけながら、進めるべきだと思える。しかし、米国のイケイケドンドン主義は、元に戻れる限界を超してしまったようだ。

 それでは、遺伝子組み換え技術は、放棄すべき技術なのか。必ずしもそうとは言えない。伝統的育種では不可能な品種改良を可能にする技術であることは、充分に認識すべきことである。今後、人類社会が直面するであろう食糧危機に対しても、有効な対応技術の一つではないか、と思われる。特に、途上国における土壌劣化への対応策、例えば、塩害農地での作物の育成のためには、耐塩性のある植物を育種する必要がある。実際、マングローブは耐塩性があるし、米国デスバレーの塩湖には植物が生えている。こんな植物の耐塩遺伝子が組み込まれた作物ができれば、それなりの有用性は持つかもしれない。

 アフリカで多用されているトウモロコシ類に、ソルガムと呼ばれる種がある。これを遺伝子組み換え技術によってスーパーソルガムに変えるという試みが行われている。必須アミノ酸と一緒にビタミンAとE、鉄や亜鉛分を含むスーパーソルガムを作って、アフリカの栄養状態の改善に貢献させようということである。実際、鉄、亜鉛、ビタミンA不足による損失余命は、世界的にみても重大な状況だからである。

 要するに、遺伝子組み換え技術は、時間を飛び越す魔法のような技術である。したがって、その時間に対して、より慎重に対応をする必要があると同時に、その飛び越す能力が、どのように人類社会に貢献できるか、という検討を続けることは可能であり、かつ必要不可欠のことのように思える。

 単に、「食べると危険か安全か」ということで、判断を下すのではなく、その奥に存在する意味をもう少々説明したかったのだが、それが許されるような番組ではない。