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   確定的な全体と不確定な個
    01.27.2013
        古典的統計論の見方




 前回に引き続き、話題は、不確定性・不確実性についてです。

 このWebサイトの読者によって構成されているFacebookの「環境学ガイド」グループでは、前回の記事に対しては余りコメントが無かったのですが、それは、分かりにくかったからでしょうね。まあ、そうなのかもしれません。しかし、人類が生きている世界を支配している原則のほとんど全ては、どうみても確定論的で、それらの原則は、19世紀末までの前回示したあのような人々によって構築されてきたのです。

 20世紀に発展した量子力学、相対性理論は、非常に特殊な条件下でも、様々な事象を説明できる理論ですが、これらの理論に対して哲学的な意味をもたせることが、100年近くを経ても未だ成功していないことを考えてみても、ヒトにとって、それが理解できたとしても、感性として捉えることは不可能なのではないでしょうか。となると、量子力学・相対性理論に見られる不確定性は、日常生活で出会う事態やヒトの行動などを理解するためには、ほとんどのケースで不必要だと思います。

 すなわち、ごく特殊な条件下を除けば、物理的環境という確定論的な世界の中に、生命体という不確定性が非常に大きい多種多様な存在が生きているのが地球というものの全体像だ、という理解で良いのではないか、と考えます。

 19世紀末までの科学を、もう少々理解することは、日常生活で必要になる判断での間違いを少なくするために、かなり有効な知的作業だと思います。

 しかしながら、19世紀末までの科学について、充分に理解できないとしても、勿論、判断に必要な各種条件を誰かに聞けば、日常生活をすることに大きな不都合はありません。

 しかし、自分自身のみで何かを決定しなければならない状況になったとき、どのような判断を下すのか。このような場合には、この世界の成り立ちの仕組みを理解していることが、多くの場合、自分に有利な判断を下すことができると思います。

 ヒトにもともと備わっている感性を使うだけでは、19世紀末頃の科学的知見に基いて情報を収集するレベルに到達することが、残念ながらできません。それは、相手が目に見えないほど小さい、とか、非常に複雑である、とか言った理由で、ヒトのもつ感性の能力では知覚できないことが余りにも多すぎるのです。

 今回は、前回の延長線上にある話題を取り上げます。全体として見れば、きっちりと確定されている場合でも、分子や原子のように非常に小さい個のレベルでは、全く不確定であるということが主題です。すなわち「全体と個」に関わることでして、全体としては平均値やその分布が確定論的に決まっていて記述ができるけれど、個々の分子などになると全くそうではない、という話です。



 例として、水を取り上げることしますので、題して「水で不確定性を考える」でしょうか。

1.水の温度を考える

 温度の高い水、これは通常は湯と言われますが、80℃の湯と、40℃程度の湯とでは、どこが、何が違うのでしょうか。

 この問に対する答はいくらでもあります。「風呂に貯めて入ったとき、火傷をするかどうかです」、という答えも立派な答の一つです。

 火傷をするということは、ヒトの体を構成している細胞は、80℃という温度には耐えられないようにできているが、40℃という温度は、細胞から構成されている多くの生体にとって、ある刺激があって快適な温度だからだ、ということになります。

 なぜ80℃の温度には耐えられないのか。こう正面から質問されると、答えられないかもしれません。私も、本当の意味での正解は知りませんが、80℃は、ヒトの細胞を構成しているタンパク質が変質しそうな温度だということは言えます。

 卵の白身が固まるのは80℃、卵黄が固まるのが70℃のようですが、ヒトの細胞の場合には、42℃を超すと機能異常になる可能性があるそうです。

 80℃のお風呂の水と40℃の風呂の水は、どこが違うのでしょうか。「温度が違う」だけではあたり前すぎて、答えになりません。「温度」とは何かを説明する必要があります。

 それは、水の分子の動き方が違うのです。温度が高くなれば、分子は速く動き、温度が低くなれば、ゆっくり動きます。いかなるモノでも、それが運動をしているとき、運動エネルギーというものを持つと言います。そのエネルギーの量は、E=(1/2)mvと表現できます。mはものの重さ(質量)、vは速度です。速く動いていれば、多くの運動エネルギーを持っているのです。

 Tという温度で、水などの分子が熱によって動いていれば、その平均の運動エネルギーは、分子の種類や質量によらず、E=(3/2)kBTです。kBはボルツマン定数、Tは絶対温度です。すなわち、エネルギー量は、温度に比例しています。だから、温度が高い水は、多くのエネルギーを持っていることになります。

 そして、水が多くのエネルギーを持っていれば、そのエネルギーがその水に浸った他のモノに、多くのエネルギーを与え、そのモノの構成分子の動き=振動を大きくします。分子の振動が大きくなりすぎれば、分子が壊れる可能性が高くなるのです。

 「平均の」と書いたのは、実際には、激しく動いている分子もあれば、止まりそうな速度で動いている分子もあるからです。

 その速度の分布は、マックスウェル・ボルツマン分布という分布に従います。式は複雑ですので書きません。希ガス類についての速度の分布を図で示すと、次のようになります。


図 希ガスの分子速度のマックスウェル・ボルツマン分布 本当は温度を書き込みたいのですが不明。


 水の場合、気体と液体が共存するのは、通常は100℃ですが、不思議なことに、マックスウェル・ボルツマン分布で示される速度の分布は、水が液体状態であっても、気体状態であっても変わりません。

 さて、100℃の水の液体と気体が共存している状態を考えます。水面を考えて、水面下にある分子が非常に大きな速度で動いていると、何かの拍子に他の分子の制止を振りきって、水面を離れる分子が現れます。

 逆に、水面の上の空間で動いている水、これは、気体状態になっている水分子ですが、これが水面に飛び込むこともあります。

 100℃という水の沸点では、水(湯)から飛び出す水分子の数と、水に飛び込む水分子の数は同数です。そのため、気体と液体の水の量は一定に保たれます。

 100℃の水の水面上の空気の温度を同じ温度にしながら、温度を徐々に下げれば、気体状態になっている水分子が液体に飛び込む数が、水面から飛び出す分子の数よりも増えて、水面より上にある気体状態の水分子の数は減ります。

 そして、40℃まで温度が下がったときを考えれば、その水面上の気温も40℃だとすれば、100℃の湯の場合よりも、水面上に気体状態で存在している水の分子の数は少なくなります。それは、40℃の水(湯)から飛び出す水分子の数が減るからです。


2.統計熱力学

 水が気体になる蒸発。気体の水が液体になる凝集。こんな変化を分子レベルで見たとき、どのような挙動をしている分子がどのぐらいいるかを考える学問体系を「統計熱力学」、あるいは、単に、「統計力学」と呼びます。「統計物理」という場合もあるようです。

 「どのような挙動をしている分子がどのぐらいいるか」、が分かるということは、平均値を求めることができますし、平均からどのぐらい外れた分子がどのぐらい居るか、すなわち、分子の分布も分かるということです。

 いわば、神の目をもったある測定器があって、膨大な数の水分子の速度をグラフに描いてみたら、マックスウェル・ボルツマン分布と言う分布になっているはずであることが分かりました、ということを意味します。

 このような学問の発展に貢献したのは、ルートヴィッヒ・エードゥアルト・ボルツマン(1844年2月20日〜1906年9月5日)、ジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831年6月13日〜1879年11月5日)などで、やはり19世紀後半から20世紀の初頭までの人々です。

 この年代のことですから、まだ、相対性原理や量子力学は未完成です。したがって、統計熱力学の結果である平均値や分布は「確定論的」です。

 しかし、マックスウェル・ボルツマン分布は理論が導いた仮説ですので、現実にもそうなっていることを、実験的に検証する必要があります。

 20世紀の初めまで、その証明は不可能でした。1920〜40年代になって、やっと小孔から真空中への分子噴出流を作るという実験手法が考案されて、速度分布を測ることができるようになりました。

 その結果は、実験誤差の範囲内で、マックスウェル・ボルツマン分布が正しいことを支持するものでした。

 要するに、分子の運動については、全体として見れば、ある確定された状況が実現されていると言えます。しかし、次に述べるように、一つ一つの分子については、全く確定論的ではありません。


3.個々の水分子の目で見ると

 今、あなたは水の分子になっています。温度がだんだんと上昇しています。自分自身がだんだんと大きな速度で動いていることが分かります。

 「ドカン」と隣の水分子と衝突しました。そのために、速度が遅くなってしまいました。と思ったら、後ろから別の分子にすごい勢いで追突されました。さらにもう一つの分子がさらにすごい勢いで、やはり後ろから追突してきました。「あっ」と思ったら、水面を飛び出して、今、空中です。

 空中を飛び回っているとき、そこにある空気の分子とぶつかって、気絶しました。気がついたら、いつの間にか水の中です。

 よくよく見回すと、水中でも、前よりも速く動いているようです。温度が上がっているのかもしれません。

 あれ、いつの間にかまた空中です。どうやら、ほとんどすべての水分子が空中に存在しているようです。きっと、100℃になったのでしょう。

 水分子の目で見れば、多分、以上のように見えるでしょう。

 個々の水分子にとって、自分が空中に居るか、水中に居るか、それは、基本的には温度で決まるのですが、沸点を超したときにはすべての仲間の分子が空中にあるけれど、沸点以下の温度では、水中にいるのか空中にいるのか、それは全くの偶然が決めています。

 もしも、水分子にとって、「空中に存在していると言うことは交通事故にあって昇天したようなものだ」と考えるとしたとき、できるだけ交通事故に合わないようにするには、どのような戦略があるでしょうか。

 それは、水の温度を下げることです。そうすれば、水分子の動く速度は全体として遅くなるので、偶然突き飛ばされて、空中に飛び出す可能性は確実に減ります。

 しかし、それでも、多少の水分子は、やはり空中に飛ばされます。

 たとえ、0℃以下になって、全体が氷になっても、多少の水分子は、空中に飛ばされます。

 このように、個々の水分子が空中に飛ばされるかどうか、その割合は確定していますが、ある分子にとって、自分が空中に飛ばされるかどうか、それは全く不確定なことです。

 まさに、ある人が交通事故に合うかどうか、とそれほど違いはありません。


4.交通事故の統計

 日本の交通事故による死者の数は、1970年に1万6765名でしたが、2012年には、4411名まで減少しています。1990年代は、大体1万人でしたので、このところかなり減少したことになります。

 1990年代のある年に、日本の総人口が1.2億人、交通事故死者が1万人であったとします。このとき、A氏は、人口100万人のB市に居住していたとします。B市において、明日は交通事故死がゼロ人となる確率を求めなさい。さらに、明日は交通事故による死者がゼロ人か1人である確率を求めなさい、といった問題が出されたとき、その解を得るには、ポアソン分布という考え方を使います。

 計算をして得られる答えは、死亡者ゼロ人である確率が80%、死亡者1人である確率が18%となります。合わせて98%ですので、これ以外のケースは稀だということになります。そこで、死亡者2名のケースが残りの2%だと仮定することに、余り無理はありません。

 死亡者が1名である確率が18%しかなくても、365日間には65.7名が、死亡者が2名である確率が2%しかなくても、365日間には14.6名が死亡することになります。合計80.3名です。これを50年間にすれば、なんと4000名になります。これは、50年間という期間を考えると、人口100万人のB市では、250人に1人は交通事故死をするということになります。

 ここまでの統計的考察には、人口が一定か、とか、様々な交通事故対策が取られるだろう、とか色々と未知の要素はありますが、まあかなり確定的だと言えます。しかし、その250人の1人にA氏がなるかどうか、それは全く分からないことです。まさに「神のみぞ知る」という世界です。

 このような統計に使われるポアソン分布ですが、その考案者はシメオン・ドニ・ポアソン(1781年6月21日〜1840年)というフランスの数学者、地理学者、物理学者です。

 19世紀前半に確立した理論ですから、統計的ではあるものの、確定論的な話で当然だということになります。

 統計学というものは、ある意味で確定論的なのは当然だと思われる方がおられるかもしれませんが、最近では、ベイズ推定と呼ばれる主観的な要素を加味した統計論がかなり流行っているのです。

 そこで使われるベイズの定理を見つけたベイズとは、トーマス・ベイズ(1702年〜1761年)で、イギリスの長老派の牧師・数学者で、ベイズの定理自体は簡単に証明できることです。何も主観的なことではありません。

 ベイズ確率あるいはベイズ統計学といった確率論の主観的解釈フランク・ラムゼイ(1903年2月22日〜1930年1月19日、哲学者・数学者)によって1931年に提唱され、それまで頻度というものを厳密に取り扱う統計学者(しばしば頻度主義者と呼ばれる人々)と対立するベイズ主義者という一派が出現します。

 やはり、20世紀の科学である相対性理論や量子力学の成立が、数学のみならず、哲学の分野にも大きな影響を与えたと言えるのではないでしょうか。

 このベイズ主義者は、ベイジアンとも呼ばれますが、いかに主観的統計学だとは言っても、客観性というものをどれほど必要と考えるかによってさらに細かく分類されるようです。

 いずれにしても、20世紀になって、科学的考察が確定論的であることを認めない哲学が出てきたのです。しかし、そこでの議論は科学の世界で育った人間にとっては、不思議なのです。どこが不思議か、と言えば、我々から見れば、20世紀の科学の結論には「不確定性」があるのですが、19世紀までの科学の導く結果は確定論的だからです。しかも、この世界で起きているヒトが知覚できるほとんどの現象(99%以上と言っても良いでしょう)は、19世紀までの科学で説明が可能で、相対性理論と量子力学を持ち込まないと説明ができないことは、かなり極端な条件の場合に限られているからです。

 そのうち、「ベイズ推計」の説明を試みて見たいと思うのですが、果たして理解がある一定以上のレベルに到達できるかどうか、個人的に若干疑問です。ベイジアンというと、なんとなく、「理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性」(高橋昌一郎著、講談社現代新書1948)に出てくる方法論的虚無主義者、科学社会学者、論理学者、司会者とイメージが重なって、「自分自身はどうも頻度主義者だな」と思ってしまうからです。

 しかし、この不確定性、不確実性の話題は、まだ続きます。このジャンルの次の話題は、いつになるか全く未定ながら、生命現象とがんと不確実性の話になると思います。ただし、今週は外国に行く予定がありますので、次回の記事は話題も未定であることに加え、アップする日も、恐らく、一日遅れの月曜日になるものと思います。