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   盛岡市での講演ご紹介
   10.23.2011
        地球の未来と日本の将来 前半




 今週の週末は、秋田市でした。土曜日は、エアコンのフロンの処理が、うまく行っていない現状をどうすべきか、というシンポジウムでした。自然冷媒にすると、エアコンの効率が落ちて、CO2の発生量が増える。今の冷媒だと、それを1kg放出すれば、GWPが2000だとすれば、2トンのCO2を発生させたことと同じになってしまう。現状は、一部の量販店などに家電リサイクル法の強制力が及んでいないことに加え、エアコンは、銅とアルミがかなり使われているので、廃棄物として有価であるため、こんな事態になっているということなのでしょう。

 本日、日曜日は、地熱の宝庫と呼ばれる栗駒山、高松岳などの地域を見学させて貰いました。ついでに、泥湯温泉の野天風呂にちょっと入りましたが、白濁していてかなり熱いお湯でした。



 10月8日のことですが、岩手県の社会福祉法人希望(のぞみ)の会の10周年記念式典の後に行われた講演会に講師としてお招きいただいた。

 今回、本HPでも初の試みをしてみたい。60分の講演で使った50数枚のスライドから40枚を選択して、それぞれに短い説明を書いてみます。

 選択された40枚のPPTは、PDF化したものが、ここにあります。
http://lebenbaum.art.coocan.jp/PPT/1009Web.pdf

 しかし、文章にしてみると、講演での情報量がいかに多いかがよく分かります。喋ったことの1/4も書けないような気がします。本日の前半22枚だけで、1万字を超しているのが実態。過去にも、対談が原稿になったときなど、似たような経験を何回かしているので、「講演は文字よりも情報量が多い、だから、もっと重要視すべき」という主張に繋がっていると思います。



それでは。スタート。

1枚目
 世界の状況は、現在混迷しています。その理由は何でしょう。地球の状況は大丈夫なのでしょうか。そして、日本は? 元気な国になるためには、何かをしなければなりません。個人的に岩手県に対して何を期待しているかを述べてみたいと思います。

2枚目
本日の講演の要旨ですが、主として3点あります。まず、世界が現在混迷の極みにあると考えていますが、なぜ、混迷を極めているのか、その解釈をしたいと思います。第二点は、日本がなぜ停滞しているのか、その原因について考えてみたいと思います。そして、第三点として、今のような状況で何をやるべきなのか、という提案を行うと同時に、岩手県に期待することを述べてみたいと思います。

3枚目
 現在、世界の混迷の極みは、世界各国における金融危機に典型的に現れていると思います。なぜ、このような状態になったのでしょうか。個人的には、個と公のバランスが崩れたことに潜在的な原因があるように思います。すなわち、政治家個人が、自らの当選には不利な未来の課題を先送りし、特に、増税のような不人気になるに決まっている課題に取り組まなかったからだと考えます。日本でも、世界でも同様です。
 もう1つあるとしたら、それは、先進国には、すでに成長のシナリオが無いにも関わらず、成長という言葉に固執していることではないでしょうか。
 EUのギリシャ危機に関して言えば、それは、EUが目指している構造そのものに無理があるという要素を無視する訳には行きません。

4枚目
 このスライドは、2008年の金融危機、いわゆるリーマンショックのときに作ったものですが、先進国にとって、金融拡大型産業の次が無いことは事実で、そのために、あらゆる手段を使って、金融の拡大を試みてきた試みが、本来であれば、余りにも欲の皮をつっぱらせすぎのみっともない手段であったために、やはり崩壊したのです。
 歴史を見れば、ほぼすべての国の経済成長は、農業型あるいは資源型とでも呼べるような発展形態を取ります。日本は農業型でしたが、その実体は養蚕でしたので、次の繊維工業も絹織物でした。中国やバングラデシュは、縫製業からのスタートでした。その後、造船や製鉄などの重工業に移り、自動車産業などの高付加価値型産業へと進化し、その後、情報型の産業、例えば、パソコンや携帯電話などに以降します。ここまでは、製品という実体があるのですが、その後、ソフトウェア産業になると、すでに製品という実体は消えます。そして、金が金を生む金融がゴールになります。その先は、現時点では見えません。多分無いのです。もしあるとすれば、モノにおもてなしの心を込めた製品を造ることかもしれません。ジョブズの作った製品は、ひょっとするとそのようなものだったのかも知れません。

5枚目
 EUの無理とは、具体的に言えば、ユーロに通貨統合をしたことでしょう。通貨というものは、経済が活性化していれば、為替レートが高くなり、経済が沈滞すれば、為替レートは下がります。そのため、消費が自動的に調整されるという効果があります。もっとも、現在の日本の円高は、日本の状況が良いというよりは、他の国の状況が悪いために、相対的に起きていることだと言えます。ギリシャのような国では、国が借金を増やしすぎているときには、通貨が安くなって、外国からの観光客が増えるといった状況になるのが普通ですが、ユーロという共通通貨を使っていれば、こんな効果は出ないのです。
 ドイツは、1991年の東ドイツ統合で市場を拡大し、1999年には、共通通貨ユーロを導入したために、また市場を拡大することができて、経済的な発展をしました。そのため、ユーロはどんどんと値上がりして、ドルよりもはるかに高い通貨になりました。一方、ギリシャは、安定なユーロという通貨を使っているために、信用度が高まりました。これを使って、ギリシャ国民は借金を重ね、豊かな生活を享受しました。しかし、借金生活はそのうちに、返金しなければなりません。ところが、公務員が多いギリシャでは所得が増えず、借金の返済に困る状況になりました。これも国民性とも言えます。
 ユーロの問題は、このように国民性というものを全く無視したことです。

6枚目
 ヨーロッパ人というと、何か共通の考え方をしているように思われるかもしれませんが、実際にはそんなことは有りません。大別すれば、フランス、イタリアのラテン系の人々、ドイツを中心としたゲルマン系の人々、そして、北欧と考え方はかなり違います。
 このスライドは、それぞれの国民性を上手に表現したものと言えるでしょう。確かに、最悪の組み合わせでは、上手く行きそうもないと思います。
 フランス人とイタリア人の区別はちょっと難しいのですが、最悪シナリオの車の整備については、やはりイタリアにはフェラーリがあるから。最善シナリオのシェフは、好き好きですが、恋人については、陽気さでイタリア人という選択なのだと思います。

7枚目
 このように、ヨーロッパ各国では、国民性がかなりはっきりしています。それは、個人の自由と権利を保障することが良いことだ、という発想と関連していることのように思えます。
 なぜ、個人の自由と権利を保障することが良いことなのでしょうか。それは、そうしかなった時代の反省があったのではないか、と考えられます。
 まず、大きな反省は、中世暗黒時代と、それが終わってからも面々と続いた疫病と戦争の時代で、魔女狩りのようなことが頻発しました。それは、やはり幸福なことではなかったのではないか、と思います。
 ただし、西欧の自由と権利の文明は、平等だという考え方とはちょっと違います。米国によりはっきりと見られることですが、能力の差があれば、当然、所得にも格差ができる。という考え方です。通常の状況では、それでも良いのですが、米国のように、常に、国内に差別される階層を置くことで経済的な発展を目指すという方法が本当に良いのか、正義だと言えるのか、これは問題のようにも思えるのです。その対象は、かつては黒人でしたが、最近では、スペイン語しか話すことができない人々、いわゆるヒスパニックになっているようです。

8枚目
 西洋個人主義は、東洋思想とどこが違うのでしょうか。あるいは、日本人の基本思想とどこが違うのでしょうか。
 ヨーロッパは寒いです。そのため、日本と違って、定住型の農業は難しかったと思われます。毎年、農地を移動させながら、僅かな作物を作り、併せて狩猟生活を行なっていました。これのように生活の根本が違うために、異なった主義主張をするようになったという可能性があります。
 あるいは宗教でしょうか。キリスト教を基本としている西欧人は、どうも契約ということを重視するように思います。その理由は、もともとキリスト教では、神は怖い存在で、エイリアンみたいなものでいつ人間を滅ぼすか分からないとされているため、アブラハムはエホバの神に対して、自分たちを守ってもらうという契約を結ぶのです。騎士達は、同様に、農民を守るという契約を結んで、それに従ってお互いが生活をすることになります。この契約という考え方が西欧個人主義の基本で、もしも契約内容が正しくなくても、契約は合意である。合意が得られていれば、何をしても良いと考えるようです。

9枚目
 ところが、日本人の基本的なマインドは違います。日本の神は、お友達のようなもので、良いことをすれば褒めてくれて、悪いことをすれば、多少の罰を下す。いつでも、自分達を見はってくれている。そのため、「みっともない」ことはしない。みっともないという言葉は、他人から見た時の美しさの表現のようです。すなわち、美しくないことは善ではないし、真でもない。逆に言えば、美と善と真は同じもの、「美」=「善」=「真」だと考えるのが、どうも日本人の本性のようです。
 最近、東京では、電車の中でお化粧をする女性がかなり多数居て、個人的には「みっともない」と思います。お化粧で、「真」を「美」に変えるという操作そのものが、「美」=「真」ではないことを証明しているようなものなので、この行為そのものも、仕方がないことなのかもしれませんが。

10枚目
 「みっともない」は周りにいる多くの神々や、他人の目を気にする言葉だと思いますが、言い換えれば、自分以外の人、言わば他人、場合によっては「公」に気を配るのが「みっともない」という言葉の心なのかもしれません。
 ところが、その「公」が日本では、重視されないようになってしまったのです。それはなぜでしょうか。
 様々な要素があるとは思いますが、歴史的には、第二次世界大戦のトラウマではないか、と思います。「公」を重視しすぎると、軍国主義になって、結局、日本人は不幸になった。日本は、中国、韓国、アジアなどを侵略した恥ずかしい国である、といった歴史観が主流になりました。
 さらに、公の代表であった首相ですら、汚職で逮捕されてしまうような国だ。公僕と呼ばれる公務員も手柄という私利を追求しているのかもしれない。それなのに、今となっては、公務員は給料が高い??
 ということで、「公」の地位は下がりっぱなしになりました。
 軍国主義に反対するため、「公」ではなく、個人主義を重視した教育が行われたことも事実のようです。

11枚目
 「みっともない」という美意識が失われた結果として、何が起きたのか。これが、このスライドにまとめてあります。
 世界一勉強しない子ども達。これは次に説明したいと思います。
 携帯やインターネットが唯一のコミュニケーションという情報難民。これも後ほど説明したいと思います。
 政治家のますますの劣化も困ったものですが、やはり「みっともない」という日本人の基本的マインドがなくなっているように思います。
 戦略性の無い国家運営は、政治家の劣化の結果ですが、一言で表現すれば、「選挙で当選することだけを考えてしまえば、本来、国が行くべき方向性を出せないという大きな限界がある」ということだと思います。
 政治主導は、民主党が発明した言葉ですが、何もかも自分たちだけでできると思った鳩山首相個人の大ミステイクだと思います。国政の適切な運営に必要な情報量は、一人で判断できるほどの量ではないのです。一日が48時間あったとしても、政治主導は不可能で、大まかな方向性を決めることが政治の行うべきことなのです。
 公務員を無条件に叩くことは、最初はメディアが始めたことです。個人的な感想としては、公務員も国家天下を語るマインドが無くなっています。省益ならまだしも、最近では、局益をも下回って、課益や個人の出世のため、場合によっては個人の権威を最大化する(要するにウルサクて厄介な人間になって存在意義を示すことの)ために働いている役人も多いように見受けられます。しかし、全部を叩くのは不適切です。やはり、国のことを考えて真剣に業務に取り組んでいる役人によって、この国のかなりの部分は動いていると思います。

12枚目
 世界一勉強しない日本の子どもになったことは、日本の未来のために全く困ったものだと思っています。
 原因は色々と考えられます。詳細は、スライドを見ていただきたいと思いますが、まず、ゆとり教育について、藤原氏は「日本人の誇り」の中で、文部省の審議会でのやりとりを記述しています。藤原「ゆとりだけでなく、厳しさも共存すると、もっとすばらしい」。某氏「厳しさというと子どもが傷つきます」。
 これに関する私見「厳しさの中に、優しさを表現できない教師は辞めるべき」。これがスライドでの先生のレベルダウンの意味です。
 家庭教育の失敗は、なかなか難しい問題ですが、いわゆるモンスターペアレンツが出現している本当の理由は、今の子供たちの祖父母が、子どもの家庭教育を失敗したから。ということは、どうも我々世代の責任のようです。
 携帯をもたせることで個人主義が強まったのは事実でしょう。しかし、本当は、外で遊ばなくなったことの方が大きいのかもしれません。

13枚目
 子どもの携帯が問題というよりも、最近では、内田樹氏が言う「大人のインターネット情報難民」の存在が大きな問題だと思います。
 今回の事態について言えば、放射線の害を過大に評価する人が増えた理由は、(1)口コミ、(2)インターネットが原因です。
 そのため、放射線の害については、これまで世界を正しくリードしてきたICRPの評価が正しく、基本的にはこれを信頼する以外に方法はない、というのが現実です。
 ICRPの権威に対して、反対の勢力であるECRRは、反原発を主張する政治団体であるドイツ緑の党の下部組織ですが、ECRRと似た主張をする日本人学者、例えば、小佐古教授のような主張が正義だと思われるようになってしまいました。それは、放射線の害を正しく理解せよ、という主張は、国の原発政策の維持のためである、という国家陰謀説に囚われた解釈が、インターネットでの大多数を占めたためかと思われます。やっと多少落ち着いた状況になったこともあり、最近になって、多少、正しい意見は何かを探る人が増えてきたようには思えます。

14枚目
 そもそも放射線のリスク評価を行う理由は、その結果で原発に対して反対とか賛成とかを表明するためではないのです。放射線の被曝を不本意にも受けてしまった人々が、それ以上不幸にならないためにリスク評価を行うのです。
 具体的には、不必要な放射線被曝をしてがんにならないために、そして、被曝をしてしまったら、その結果を過剰に心配することによって心理的ストレスを受け、神経症やストレスによって発がん防御が下がり、結果的にがんになる確率が上がることを避けるためです。
 リスク評価を行うには、なんらかのデータが必要ですが、どのようなデータを使っているのでしょうか。
 データのすべては広島・長崎のものです。なぜ、チェルノブイリなどのデータが無いのか。それは、その当時のソ連には、データを取るという意識も機能も持っていなかったからです。

15枚目
 広島・長崎では、様々な調査が行われました。5万人規模の被曝二世への遺伝学調査、10万人規模の寿命調査などなどです。
 遺伝学調査の結果は、次世代への影響は見つからなかったという結論で、ICRPの1977年のメッセージによれば、「過去約20年間に得られた知識からすると、遺伝影響は重要ではあるけれども、飛び抜けて重要ではない」となっています。要するに、生殖細胞への放射線影響は、被爆後6ヶ月程度で消えることが分かったのです。勿論、胎児の状態で被曝すれば、影響は残ります。
 さて、ICRPのデータを示すものが、この15枚目のスライドです。広島・長崎のケースの場合、受けた放射線の線量が125mSv以上の場合には、がんの発生確率が高くなることが分かりました。発生割合の増加は、1Svあたり5%という結論です。現時点での日本人は、おおむね30%の人ががんが原因で死亡しますので、もしも1Svもの大量被曝をすれば、その人は死亡に至るような重篤ながんにかかる確率が30%から35%に増えることを意味します。
 しかし、100mSv以内の被曝量であれば、「臨床学的に重大な事態が発生するという証拠はない」と結論しています。だからといって、100mSv以内で絶対に安全だという証拠もありません。そこで、ICRPは、100mSv以下の被曝であっても、直線的にゼロまで外挿するという仮説であるLNT仮説を採用しています。
 しかし、この仮説は、遺伝子の傷を修復する機能があるという事実を無視したものです。

16枚目
 このスライドは、ICRPが緊急事態への対応をどのように考えているかを示しています。
 本当の緊急事態であれば、100mSvまでの被曝量なら重大な事態が発生するという証拠は無いので、慌てず騒がず、対策を熟考して、被曝量を徐々に下げるのが良いと読めます。
 ここで、一つ、追加をしますと、広島・長崎の被曝は、原爆からの直接的な放射線、特に、中性子線への被曝と、中性子線によって地表などの元素が不安定な核種に変わって放射線を放出したことによる環境からの被曝を考慮しています。直接の中性子線への被曝は、家の中にいたとか、外を歩いていたとか、で全く違います。環境からの被曝は、爆心地からの距離で変わります。
 環境からの放射は、1日後には10mSv/時とすごい量ですが、1週間後には10μSv/時まで低下し、1年後には0.1μSvまで低下しています。要するに、できた放射性元素が不安定で速やかに壊変したのです。
 一方、放射線に汚染された食物からの被曝は、広島・長崎の場合には考慮されていません。実態が分からないからです。それでは、食品からのいわゆる内部被曝は無かったのでしょうか。いやいやそんなことは無かったと思います。すなわち、そもそも広島・長崎のデータは、放射線の被曝量の見積もりが過小になっていて、リスク評価としては過大になっているのです。
 以上のような状態から言えることは、広島・長崎の被曝の状況は、かなり瞬間的で、放射線の強さはかなり急速に低下したという性質のものであったということです。福島の被曝のように、比較的弱い被曝が長く続くというものではありません。
 放射線被曝の場合、強い放射線を瞬間的に浴びる場合と、弱い放射線を継続して浴びる場合とでは、どちらが影響が強いのでしょうか。
 生物には、遺伝子の傷の修復機能があるということで推測が可能かと思います。
 答えは、当然、弱い放射線を長時間被曝するタイプの方が影響が少ないのです。
 したがって、今回の福島のケースでも、最初の1年間の被曝量として100mSvという値を基準にしても良かったとは思います。しかし、より安全サイドに対処することが必要かとも思います。
 そこで、国は、20mSvという値を、緊急事態期の被曝上限基準値として設定しました。かなり安全サイドにした訳です。
 もう一度、繰り返せば、現在が緊急事態期であるので、その1年間、20mSv程度の放射線を被曝しても、臨床学的に重大な事態は発生することは無いと信じて大丈夫なのです。

17枚目
 このスライドの内容はすでに説明してしまいました。
 緊急事態期について、ここで追加すべきは、ALARAの原則でしょうか。日本語に訳せば、「無理なく出来る範囲で低減しよう」ぐらいです。
 一方、平常時については、LNT仮説というものがあって、この仮説が過大評価であることは確実ですが、それでも無益に放射線を被曝することは避けるにしくはなし、ということです。平常時での被曝は医療用などが主なものになりますから、医療用の効用が無いような被曝は無意味だから、というのがその内容です。

18枚目
 福島県の学校の校庭はセシウムで汚染されていた。小佐古東大教授は、文部科学省が提出した20mSv以内に被曝量を抑えるという方針について、子どもの20mSvという値は高すぎる、1mSvにすべきだとの涙の記者会見を4月29日に行い、内閣参与を辞任した。これで方向性が変わったようです。
 文科省は、「学童での学校での被曝量を年間1mSv以下にする」と表明し、校庭の土壌の表層を剥離し、校庭の穴に埋めました。
 それでもなおかつ6月までは高線量であったため、校庭を使用しなかったのですが、その後、校庭を使用するか否かについて、保護者の判断に委ねました。
 保護者の判断は半々でした。慎重派は母親で、子どもを校庭で遊ばせることに躊躇した人が半数程度居ました。
 この態度がリスク削減にとって、本当に正しいものなのだったのでしょうか。それは、リスクとして何を考えているかによります。このような母親の判断は、放射線被曝だけをリスクとして捉えています。しかし、リスクはそれだけではありません。

19枚目
 非常事態と平常時との違いはそこにあります。非常事態の場合には、放射線のリスクを避けようとすると、なんらかの対策を取らなければならないことになり、そうなれば、必ずや別のリスクを生ずるのです。
 校庭の場合であれば、家の中だけで生活をさせると、子どもにストレスが発生します。ストレスは、病気への抵抗力を下げるので、それが悪さをしないとは限らないのです。
 例えば、どこかに引っ越すことを考えれば、それなりにストレス源となります。特に、病人にとってはそうです。実際、避難地域の病院から避難する際に、結果的に多くの命が失われたようです。
 食物についても同様で、母親が余りにも神経質に食物の選択しているようだと、そのストレスは結構なレベルになります。そうなったとき、その精神状態が子どもに影響を与えることが考えられます。
 実際、チェルノブイリの場合でも、神経症=うつ病の発生が大きな問題でした。
 要するに、非常事態期には、リスクのトレードオフというものを考える必要があるのです。
 例えば、移住するかどうか。という命題を考えるときには、それぞれの選択肢について、どのようなリスクがあるかを考え、余り大きなストレス状態に陥らないように、ALARA原則を適用して、考えろというのがICRPの基本思想です。

20枚目
 さて、ICRPという組織を信用するしかない、と主張していますが、これはどのような組織でしょうか。
 先ほど少々説明しましたように、DNAのすぐれた損傷修復機能を持っているのがヒトという生物ですが、これを無視しているのがLNT仮説というものです。これについて、ICRPも、「リスクを過大に評価していることを認識しているが、リスクを過小評価していないということで満足している」と述べています。とにかく、過小評価よりも過大に評価した方が安全サイドだから、管理をするという立場から見れば、それで良いのだ、ということです。
 そのICRPが緊急事態期については、100mSvまで限界を上げることもあるという見解を述べています。
 それは歴史的にみれば、1990年勧告では、ICRPは、以下のように述べていました。「何年もの期間にわたり放射線被曝をした場合、約500mSv以下の線量では重篤な影響は起こりそうもない」。これは、世界の高被曝地域、例えば、イランのラムサールとか、インドのケララ州などの地域の疫学研究などの結果から、これが専門家の相場観なのです。
 ECRRという機関があります。欧州放射線リスク委員会と名乗っていますが、EUとは無関係で、緑の党の下部組織です。
 彼らは、ICRPの考え方を踏襲しつつも、内部曝露について様々な新しい理論を作り、放射線被曝によって健康被害を受けたという人々の支援をしています。

21枚目
 そうは言っても、ECRRでも、これまでの広島・長崎のデータの基づく結論、要するに、100mSv以下の被曝によって、臨床的に重大な影響が起きるという証拠はないことは同意しています。それも、当然で、広島・長崎の被曝量は、内部被曝を無視しているために、本当はもっと多い可能性が高いからです。
 ところが、ECRRは、他のケースでは、内部被曝量が非常に大きいということにして、新たな統計手法を持ちだして、被害が出たと主張しています。
 内部被曝がもっと多かったと思われる広島・長崎にも適用してもらいたいぐらいです。
 福島のケースで、内部被曝はどうなっているのでしょうか。
 ヨウ素131については、いささか不明の部分がありますが、セシウムに関して言えば、かなりきちんとした調査が行われています。先日の報道(9月13日)によれば、福島における内部被曝調査は、浪江町2483名、飯舘村625人など合計3373人。うち、4〜19歳2600人を対象に行われ、内部被曝量をホールボディーカウンターで計測。
 その結果、浪江町の2名が2mSv、やはり浪江町の5名が1mSvで、他の3366名が1mSv以下であったとのこと。
 これを見ても、対応がかなり安全サイドであったものと理解できそうです。

22枚目
 このような状況に対して、放射線の内部被曝を過大評価する発言がなぜか支持をされている。これを内田樹氏は、新しい情報格差ができつつある、と評価しています。
 良質な情報を選択し豊かに享受している「情報貴族」と、良質な情報とジャンクな情報が区別できない「情報難民」が存在し、その格差が急速に拡大しつつあり、現在、「情報無政府状態」が出現しかねない、と表現しています。
 そして、「情報難民」の特徴として、
○話しを単純にしたがる、
○もっとも知的負荷の少ない世界解釈法である陰謀史観に飛びつく
○それによって、他人は知らない、という全能感を獲得している
○そして、自らが情報難民であることをしらない
 このような状況から開放されることが、日本において正確な情報が伝達されるための重大な条件になるのではないか、と考えています。



 以上で前半の部、終了。