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    「日本人の信仰」 島田裕巳著  03.31.2019
       第二回 日本人は本当に無宗教?

               



 前々回、パリを往復する間でこの本を読み、帰りの飛行機の中で記述した記事を掲載しました。この本の残りの部分、実は、それが3/4残っていたのですが、そこをやや時間をかけて読んだところやはり、なかなか面白いのです。ただ、本サイトの記事にする内容なのか、と言われれば「なんとも!?」、なので、可能ならば、パリ協定における「気候正義などに関係する」と思われる部分があるかどうか、あるいは、日本人が、パリ協定のようなものを、もっと根底から理解するにはどういう意識構造をもつことが必要なのか、といった問題意識を持ちながら、中身を検討してみよう、ということにいたしました。



C先生:「日本人は無宗教であると言われる」という言葉で、第二章が始まる。「伝聞」としてそうであるという記述で、そもそも非常に曖昧。そもそも誰からの「伝聞」なのか。

A君:それに対する島田先生の回答は、「それは私たちの意識に基づいている」とのこと。要するに、誰かが言っているということではなくて、自分自身でそう思っている日本人が大部分だということ。

B君:さらに言えば、正面切って、「信仰を持っていますか」と聞かれると、多くの人は、「自分は信仰など持っていない」、「無宗教だ」と答える。

A君:それは、聞き方次第ということは、「正面切って信仰がありますか」、という質問が来ると、そこで、「はい」と答えるのは、相当なレベルにないと言えない。相当なレベルというのもいい加減な表現ですけど。

B君:少なくとも、毎週、決められた時間を宗教のために使うという習慣がない限り、「はい」とは言えない。しかし、この質問の本質は、少なくとも西欧人に対して、これを聞くと、Yesという答えが返ってくることがまあ多い。

A君:島田先生の記述もまさにその通りで、國學院大學や読売新聞が実施した宗教観に対する世論調査では、26〜29%が、「信仰あるいは信心をもっています」。残りが「いいえ」。

B君:NHKの放送文化研究所が1973年から5年ごとに行っている「日本人の意識」調査があって、第27問が「宗教とか信仰とかに関係すると思われることがらで、あなたがおこなっているものがありますか(複数回答)」で次の8通りの回答からの選択。

A君:余りにも長いので、大幅に省略した記述にします。選択肢=ア:普段から礼拝・修行・布教などをしている。イ:おりにふれ礼拝・修行・布教などをしている。ウ:年に1、2回は墓参りをしている。エ:聖書・経典などをおりにふれ読んでいる。オ:入試合格など祈願にいった。カ:お守りやお札などを身の回りにおいている。キ:おみくじを引いたり、易や占いをしてもらった。ク:何も行っていない。

B君:この選択肢は、宗教と無関係の習慣のようなものを含んでいる。ウ、オ、カ、キがそのようなものだ。

A君:島田先生の分析も似たようなところがあります。そして、別の調査結果に飛びますが、「ISSP国際比較調査」というヨーロッパ諸国を中心に44ヶ国が参加しているものの結果です。
 2008年の調査で「あなた自身は、何か宗教を信仰していますか」とう質問に「宗教を信仰していない」日本人は49%だった。それ以外として、仏教が34%、神道が3%という結果でした。

B君:この仏教と神道の値は最近の若者のことを考えると、高すぎるような気がする。

A君:その通りで、年齢分布がp57に出ていまして、16〜29歳だと「宗教を信仰している人」男女とも17〜20%。30歳から49歳だと、男性が17%ぐらいと変わらないのに、女性の割合はほぼ直線上に増加して、60歳以上になると56%。その男性も、実は、50歳になると急にジャンプして、41%になっていて、60歳になると、女性とほぼ同率です。

B君:男性が50歳以上になると、信心深くなる。いくつかの要素がありそうだ。

A君:島田先生の分析だと、確かに複数の要素があって、一つは定年を意識すること。もう一つは、親の葬式を出すようになること。

B君:なるほど。それはそうだろう。人生の先が見えてくると、なんとなく、信心深くなる。

A君:確かにその通りのようで、シカゴ大学が行った調査でも、こちらは世界全体を対象としたもので、神を信じる割合は、27歳以下では23%。それが68歳以上になると43%になるということです。キリスト教の神だけが対象なのか、どうかは記述がないのですが、あらゆる宗教が対象でないとこの数値はおかしいと思いますね。

B君:なるほど、と言える結果ではあるね。世界に年齢依存があることは、まあ当然か。

A君:次の話題は、日本の地域による信仰の差の話になって、1996年に行われた全国県民意識調査というものによれば、東西格差があるとのこと。「信仰あり」の割合が、西日本では、高知を除いて30%以上。しかし、東日本では、長野と静岡、北海道だけが30%以上。最低は千葉県で22.4%

B君:そして、浄土宗・浄土真宗が広がっている県では、押しなべて信仰率が高く、50%前後に達している。ただ、この調査では、浄土宗と浄土真宗を区別していないので、さらに詳しい状況は不明。

A君:浄土宗・浄土真宗の分布は、福井県がもっとも高く、41.4%。そして、信仰率と正の相関がある。西日本で信仰率が30%を切っている高知の場合には、浄土宗・浄土真宗系はわずか6.3%。浄土真宗の場合、信者は門徒と呼ばれることもあって、意識が高いようです。

B君:四国はお遍路さんがあるので、宗教心が強いのかと思っていた。

A君:四国は、天台宗・真言宗が多いらしいです。四国の人たちは、真言宗の寺の檀家になっている率は高く、信仰があまりにも生活に深く根差しているために、ことさらそれを意識することが少ないと評価されていますね。

B君:そもそも、宗教に関して、日常的にもっとも強烈な義務があるのは、イスラム教。メッカ巡礼が最大イベントとなるけれど、その数はどのぐらい。

A君:メッカ巡礼者は実は、「イスラム協力機構」という組織が、人数制限をしていて、年間200万人上限となっているらしいです。

B君:日本だとどうだ。初詣は、人数が報告されているが。

A君:1位が明治神宮の319万人、2位が成田山新勝寺で298万人、3位が川崎大師の296万人(2009年データ)。

B君:なるほど。この第二章についてだが、島田先生は、「あんなにも混んでいるところに行って、長い行列を作って、長時間を掛けて拝殿や本堂まで行くのは、明らかに宗教活動だ」としているね。これは当然のことだ。しかも、日本人には、自分たちが信仰をもっているという自覚がない割には、宗教活動と言えるものにはかなり熱心なのが実態だとしている。

C先生:これで第二章が終わったか。確かに、長かった。しかし、様々な検討の要素があって、なかなか面白い。例えば、パリ協定順守のために、COを大幅削減しなければならない、となったときに、日本人の場合にもっとも抵抗感があるのが、おそらく、利便性というものを多少犠牲にせざるを得ないことで、そんな状況が必然的に起きるのだけれど、それを受け入れることができるかどうか。EU系の人々は、フランス人を筆頭に、あまりにも便利にしすぎると、人間という生物は碌なことをしない、と思っているような感じがある。ところが、日本人は、これまでの経済発展の過程において、「利便性を真面目に取り上げ、それを実現する製品を世界に提供すること」に特徴を見出してきたと思うのだ。もちろん、利便性を最大限保障しようとすると、絶対に故障しない製品が必要不可欠。電力で言えば、絶対に停電しない電力網を実現することが重要だったのだ。ところが、このところ、企業の不始末が数多く起きているが、その大部分が、信頼性のない製品を平然と市場に出してしまうという行為が不始末の実態だった。これは、ここ20年ぐらいで、日本人の何が変わったのか。

A君:その点ですが、どうみても、一神教の神様は怖いですが、日本の神様はやさしい。ちょっとぐらい不始末をやって、そしてそれを黙っていても、他の人にバレなければ問題にされない。神様は不始末を見逃してくれると思っているのでは。

B君:それが、C先生がパリ協定以来主張していることで、キリスト教では、あるいは、イスラム教にも同様の考え方があるらしいが、最後の審判のときに、地獄に落ちるかどうか、という極めて厳しい「審判=審査と判定」が待っている。

A君:確かに、一神教の神様は、すべての人間につながっている命の糸を持っているので、いつでも、糸を切れる。非常に怖いですね。それに比べると、日本の神様は優しいかもしれないのですよ。

B君:ただ、問題は、不正に対する神の態度が違うかもしれないけれど、地球をぶち壊すという人間の行為に対する神の対応を考えると、キリスト教の神は地球を作ったし、人類の最初の2名を作った存在なのだけれど、日本の神は、ちょっと違う。日本列島は神が作ったけれど、地球を作った訳ではない。この違いは意識の違いとして何かあるのだろうか。ヒトに関しても、日本列島を作った伊邪那岐、伊邪那美は多くの子供を作ったけれど、人類をゼロから作った訳ではない

A君:やはり、キリスト教の教義の方がはるかに怖いですね。実は、第三章になると、若干、そんな議論がされているのです。
 最初の課題が、実際上、日本人は信仰というものに、かなり強い関心を持っている。しかし、なぜ、自分たちのことを無宗教だというのだろうか、これを明らかにしたいということです。

B君:やはり歴史的なことから解釈するのだろうか。

A君:まあ当然ですね。日本は古くから仏教は存在していたのですが、仏教と呼ばれていた訳でもなくて、「仏法」とか「仏道」とか呼ばれていた。仏法の「法」は法律を意味し、仏道の「道」は進むべき方向性を示していた。ところが、明治になって宗教という言葉が使われるようになると、信仰的な側面が強くなった。仏教は、やはり、信仰の上に成り立つものだという理解になった。

B君:当然、そうなると、一人の人間が二つ以上の宗教を信じることが妙なことになるだろう。

A君:そういうことです。究極の教えですから、それが個人にとって複数あること自体がおかしいということになる。

B君:しかし、日本では、キリスト教はある程度普及したものの、メジャーにはならなかったし、イスラム教に至っては、ほとんど信者がいない。なぜ、日本に世界ではメジャーなキリスト教やイスラム教が普及しなかったのだ

A君:それは、先に仏教があったから。しかも、かなり深く社会に浸透していたから、仏教が他の宗教の普及の防護壁になった。

B君:なるほど。アジアは、宗教面から言うと確かに妙なところだ。キリスト教が普及しているアジアの代表は、フィリピンだが、その理由は、それ以前にキリスト教に対抗できる宗教が存在していなかったからだという説明が正しいだろう。
 イスラム教についても、同じようなことが言えそうだ。特に、インドネシア・マレーシアのイスラム教は、フィリピンのキリスト教と同様の理由で、メジャーな宗教になったのだろう。
 ところで、神道はどういう経緯で日本に存在し、どんな状況だったのだ。

A君:「神道」ですが、島田先生の分類によれば、日本にのみ存在する「民族宗教」であり、同時に、「自然宗教」。すなわち、自然発生的にできた。そのために、信心の対象は「ありとあらゆるもの」がなりえて、奈良の大神神社のように、ご神体は背後の三輪山ということが普通にあるのです。島田先生は、神道のことをなんと「ない宗教」と呼んでいるようです。創唱者もいなければ、教えも経典もない。しかも、さらに言えば、救いもない

B君:「救いがない」というのは、まさに適切な表現だ。そこに、「釈迦という創始者がある宗教」である仏教が伝わってくるのだけれど、もし、神道が「ない宗教」ではなくて「ある宗教」だったら、仏教と対立したに違いない。また「ないもの同士」だったら、喧嘩になった。しかし、仏教と神道は、「ある」と「ない」だったもので、特に喧嘩をすることもなく、共存することになった。

A君:確かに、「神仏習合」というようなことになっていますね。それが「神仏分離」になったのは、明治になってから。

B君:その「神仏習合」とは何が起きたのだ。

A君:島田先生がその象徴なのだという仏像があるのです。それが、「僧形八幡神座像」で、快慶が作った国宝で、今は、東大寺にありますが、元々は、東大寺の鎮守八幡宮(現在の手向山八幡神社)のご神体だったとのことです。

B君:八幡さまなのに、どう見ても姿は完全に僧侶だね。なぜ、こんな姿なのだろう。

A君:この神様は、前世における業の結果でこの姿になってしまったけど、その境遇から脱したいという。しかし、神の身を脱するためには、仏道の修行をする必要がある、というのが説明です。

B君:すごく分かりやすい。仏教側が優位であることを示すために作った仏像

A君:中世においては、名高い神社には、神宮寺というお寺が建てられた。それは、神々が解脱を求めているから。このようになったのも、仏教はしっかりした宗教哲学があったのに、神道は何も「ない宗教」だったからということです。

B君:現時点では、神社に行けば柏手を、お寺では合掌をするけど、これは古くから続く伝統でもなんでもない。神仏習合の時代には、区別が無かった。それどころか、神々は仏が姿を変えてあらわれたものだとされていたということのようだ。

A君:となると、現在の正式な参拝作法とされている「二礼二拍手一礼」は、明治に決まったということが理解できますね。

B君:神仏分離の時代になると、何が起きたのだろう。

A君:どうやら、廃仏毀釈の期間が短かったためか、多くのお寺が生き残り、明治には、神社に参拝するとともに、お寺にも行くという生活が普通だった。村には、必ず、神社とお寺が両方存在していたので。

B君:それが、明治時代に神道が「国家の宗祀」となったので、一般の宗教とは区別された大日本帝国憲法では、条件付きで信教の自由が保障されたので、神道が宗教とされれば、その強制は憲法違反だった可能性がある。もし、神道が宗教でなければ、他の宗教と同時に信仰することができる。

A君:ところが、第二次世界大戦も終わって、神道も明確に宗教として扱われるようになった。その状態で、「あなたの宗教は何か」と聞かれれば、神道と仏教の両方にかかわってきた人は、どちらか片方には決めにくい。そのための答えが「無宗教」だった。

B君:日本人がなぜ無宗教なのか、その理由が見事に明確になった。島田流の解析、恐るべし。

C先生:なかなか日本の宗教は複雑怪奇だな。それには、やはり国家が宗教を支配したことも大きな要素だということだ。やっかいなのは、しばしば国家が宗教を支配しただけでなく、それによって、「正義」も支配してしまったことなのではないか。キリスト教の中心には、もちろん神がいて、それが「正義」を判定するが、日本では、国家が「正義」を決めることを続けて来た。現時点でも、いささかそんな傾向があると思う。したがって、一般市民としては、「正義」という言葉も、使いたくないのだ。そこに、パリ協定が「気候正義」と来たもので、これには参ったのが日本人の本音。やはり、2015年にできた、SDGsも実は、「地球上における正義とは何か」という発想が、その根底にあるので、なかなか日本人にとっては、難物なのだと思う。

A君:まあ、これで昭和20年代までの説明は終わったのですが、それに加えて、いくつかの新興宗教が出てきた。そして、最後の最後には、オウム真理教まで出現。そのために、宗教は何か、と聞かれたときに、無宗教だと答えることがもっとも無難な答えになってしまった。これがもう一つの日本という国の不幸。

B君:まだ、第三章について議論しているとしたら、その最後の部分にすごいことが書かれている。それは、キリスト教との絶対的な違いがあって、それが「洗礼」。儀式のやり方は、キリスト教の宗派によって様々だけれど、とにかく、キリスト教には、教徒になるために「洗礼」という儀式があることは、仏教にも神道とは大きく異なる

A君:イスラム教にも同様の儀式があるようですね。「信仰告白=シャハーダ」といって、多くの信者の前で、「アラーの他に神はない。ムハンマドは神の使徒である」と宣言するらしいです。ただし、もともとイスラム教の地域では、イスラム教徒として育てられているので、省略されてしまうようです。

B君:イスラム教徒であれば、毎日5回の礼拝を行う必要があるので、無用の長物なのだろう。

C先生:これで第3章がおわりになるが、そのまとめがまたすごい。

A君:その通りですね。「日本の近代社会では、キリスト教のあり方が宗教のあるべき姿であるとしてとらえられ、そのような機会を持てなかった日本人は、信仰を持っていない、すなわち、無宗教だと捉えるようになっていく。日本人自身も、自分が信仰を獲得した明確な自覚がないため、それをもって自分たちを無宗教だと考えるに至った」。

C先生:加えて、怪しげな宗教、特に、新宗教が普及したので、自分は、その新宗教とは無関係だということを示すために、アンケートなどに対して、無宗教を選択するということになる。そして、島田先生の最終結論は、「無宗教は表面的である可能性が高い」、としている。
 このような日本人が、気候正義が中心的ドグマになっているパリ協定を理解しにくいのは良く分かるのだが、元々日本人が持っている自然崇拝の根底には、地球を大切にするという思いがあるはずもっとも地球レベルではものを見ていないで、日本国内のみを良く見ているのは、宗教とは無関係だけれど、日本人の一つの特性かもしれないのだが。
 このところ考えていることの一つが、パリにいた3月15日にスウェーデンの高校生が始めた「若者による気候変動対応を強化せよ」でもが、パリでもかなり大規模に行われた。どうやら、同じ日に、日本でもデモが有ったらしいのだが、その人数は、少なかったらしい。Web情報では、20名だったとのことだ。この未来社会に対する若者の要求について、日本人が「それは、気候正義の要求だ」と解釈するようになれば、日本でも、若干、気候変動強化への要求が広がることだろう。
 さて、今回は、ここで終わろう。しかし、ここまで来てまだp106か。半分しか検討していないことになる。これほど、長い記事を1冊の新書で書くのは初めてになることは確実だけれど、第四章が「道徳の源泉としての武士道と天皇」、第五章が「日本宗教の厚みと深み」、第六章が「いったい日本人は何を信じてきたのか」。以上に加えて、「おわりに」がある。これらを詳細に読んでみて、さらに、記事にすべきことがあれば、また、チャレンジしてみたい