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    日本人の信仰 島田裕巳著  04.28.2019
        第三回 武士道・天皇などの影響

               



 10連休中です。新ネタになりそうな本とか論文を読んでいます。しかし、本日分には間に合いませんので、今回は、書き溜めた記事を使います。

 それが、なんと、またまた、島田先生の「日本人の信仰」です。さすがに、今回で終結ですので、一応、「環境学ガイド的な結論を述べること」を目指します

 これまでの2回分の狙いを復習します。日本という国の宗教観をもう一度、根底から見直して、最終的には、パリ協定の「気候正義」が日本人に対しても「気候正義」として、しかも、実感として理解して貰えるような情報を発信し、新たな感じ方を広めたいと思って、「日本人の信仰」なる本のご紹介をしてを2回いたしました。 が、なかなか面白くて、とうとう、第3回に到達しました。

 しかし、目的が達成できたとは言えないようです。最初に想定される結論を述べてしまうと、やはり、日本人に、「気候正義」という言葉のままで、心の底から理解して貰うのは無理だろう、と思われます。むしろ、日本人の特性をもっと精密に分析して、有効と思われる別の表現を見出すことが、解決に繋がるのではないだろうか、などと考えています。

 ちなみに、現在、読んでいた論文は、”Climate Justice and Capabilities: A Framework for Adaptation Policy" by David Schlosberg、無理やり日本語にするとデイビッド・城山さんになりますね。はたして、次回に間に合うのか。残る連休の活用次第ですね。

   
C先生:これまで二回の記事を書いてみて、やはり、日本人にとって、パリ協定の「気候正義」がすんなりと理解できる状況にはないことが再認識できたように思っている。しかし、何か新しいアプローチによって、少なくとも、西欧では「気候正義」が主流であるという認識(他人事としての感覚でよい)を持って貰うことまでであれば、不可能とは言えないのではないか、という感覚をもっている。すなわち、まだ諦めてはいない。そこで、今回は、なんと第三回目ということになる。今回、やはり、西欧でも通用し、日本でも通用するような、新たな伝達方法を見つけ出してみたい、と思っている次第。

A君:第四章からです。ページ数で言うと、107ページからなので、丁度、半分が残っています。しかし、いくらなんでも、今回で終わるでしょう。まず、第四章から第六章のタイトルをご紹介。
 第四章:道徳の源泉としての武士道天皇
 第五章:日本の宗教の厚みと深み
 第六章:いったい日本人は何を信じてきたのか

 おわりに
という構成です。

B君:武士道と天皇か。現代人がどのような影響を未だに持ち続けているのか、そこに興味がある。

A君:それでは行きます。最初の主題は、新渡戸稲造から始まります。新渡戸はクエーカー派のキリスト教徒でした。

B君:クエーカー派というのは、説明は難しいが、どちらかと言えば、自由形式のキリスト教だろうか。聖職者が必ず居るという訳ではなくて、Friends Churchと呼ばれているものもある。カトリックでもプロテスタントでもなくて、第3のキリスト教と考えるのが良いのかもしれない。歴史的には、1650年代はじめに、清教徒革命を経て成立したイングラインド共和国で始まり、その創始者は、ジョージ・フォックス。その後は、かなり異端扱いをされたようだが。

A君:日本にも「フレンド」と呼ばれる学校がありますが、それは、もともとはクエーカー派のミッション・スクールのようです。

B君:新渡戸稲造に戻るけれど、北海道大学の前身である札幌農学校の出身。卒業後、開拓使庁に勤務したものの、東京帝国大学文学部に進学。しかし、教育のレベルに満足できず、アメリカに留学し、そこで、クエーカー派に出会う。
 アメリカを経て、さらにドイツに留学をし、帰国後は母校である札幌農学校で教えた。ところが、鬱病になって転地療養をし、アメリカに滞在しているときに、武士道に理想を求める書である「武士道」を執筆した。

A君:鬱病と武士道はなんとなく食い合わせが悪そうですね。

B君:新渡戸がベルギーの有名な法学者ラブレーに出会ったとき、「なぜ日本では学校で宗教教育を行わないのですか」と質問され、「とにかく宗教教育は行いません」と答えたら、「無宗教! それでどうやって道徳教育を授けるのですか」と驚愕の表情で質問された。

A君:新渡戸自身も、その質問に驚いたし、返答できなかった。その後、色々と考察した結果、「日本には武士道があるからだ」と思い、『武士道』を英語で執筆したということらしい。

B君:しかし、『武士道』の記述の大部分は、なぜ切腹するか、などの話なので、日本人の一部のメンタリティーの説明にはなったとは思うものの、それでは切腹という責任のとり方が、宗教と、あるいは正義とどう関連するのか、と言われると、なんとも難しい。これが島田先生の主張。

A君:次の話が、伊藤博文の憲法の話。伊藤博文は、明治になったときにすでに20代半ばだったので、長州藩の武士としての経験を持っていた。吉田松陰による萩の松下村塾で学び倒幕運動にも参加しています。

B君:その後、明治政府の中で力を付けていって、1882年に憲法に関して調査するために、ヨーロッパに向かう。その結論として、「日本国憲法の機軸になるのは、皇室以外にない」、と主張して、実際に憲法を作る。

A君:伊藤博文が欧州で見たことは、宗教が、つまりキリスト教が国家の機軸をなしているけれど、日本においては、宗教はそのようなものではない、という結論だった、という訳ですね。

B君:そのために、大日本帝国憲法の第一条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」となっている。第三条では、「天皇は神聖にして侵すべからず」

A君:この憲法の精神は、どうも「万世一系」だから、当然だろ、というところにあるようですね。しかし、記述されているように、皇統は一度途切れたのではないか、という可能性の方が学説としての信頼性は高いようですね。

B君:さらに明治政府は、教育勅語を発布するのだけれど、そもそも教育勅語は315文字しかない。そして、「非常事態になったら、自らの命を賭して、皇運を守らなければならない」。

A君:しかも、中国や韓国は儒教だから、親に対する「考」が一番。一方、日本では、「忠」という態度が重要だと考えられていた。

B君:こんな状態で、太平洋戦争に敗北する。そして、天皇は「象徴」になる。こんな記述で、第4章が終わる。

C先生:まだ、この部分までだと、信仰というキーワードがあまり出てこない。確かに、大日本帝国憲法では、天皇は神だったことまでは事実として良いと思うけれど。

A君:という訳で、次が第5章「日本宗教の厚みと深み」という題目です。

B君:最初の話題が、「国家神道」の解体。日本国家が神道と結びつきが強いという認識で、それを過去の軍事主義の根幹的理由として、禁止した。

A君:その後の記述は、日本人は何に対して祈りを捧げるのか、という議論になります。そして、キリスト教もイスラム教も、「何に対して」という対象は神なのだけれど、その神がどこに居るのか、となると、彼らの答えは、「どこにでも居る」。これに対して、日本の場合には、「ある場所に居る」。その場所としては、神社などは当たり前として、自分の家の神棚であっり、自然の巨岩だったり巨木だったりする。そして、寺院には仏像が置かれる。

B君:しかし、イスラムは偶像崇拝は禁止なので、神の像は無い。キリスト教では、神の絵が描かれることも無いとは言えないけれど、普通は、イエス・キリストの像とか、マリア像とかが崇拝される。

A君:日本人だと、神社などの建物の内部だけでなく、外部に居る場合でも、その周辺の森や山などに、神の気配を感じる能力を持っている。これは、おそらく、日本独特の感じ方だと思います。

C先生:まあその通りだ。しばしば皆さんにご紹介しているけれど、山形県の湯殿神社には、本堂がない。そもそも御神体が何か、と言われると、それは、高さ数mの岩で、その頂上から温泉が沸き出ているもの。しかも、裸足になって、その岩の上にまで登ることができる。御神体の上に立つという貴重な経験ができるのだから、是非とも湯殿神社には行くべきだ。

A君:議論は、日本の宗教と、イスラムあるいはキリスト教との比較に移行します。イスラム・キリスト教に比べると、「祭」が盛んなのが日本の宗教の特徴。積極的に、キリスト教の祭りまで取り入れてしまうぐらい祭りが大好き。

B君:それに対して、イスラムの祭りは2回。断食明けと巡礼月にそれぞれ1回のみ。

A君:キリスト教だとやや多い。クリスマス、イースター、ハロウィーンなどなど。日本では、キリスト教でもない人々がハロウィーンを祝ってというよりも、大いに騒ぐ理由に使っている

B君:それどころか、日本では、阿波踊りだってお盆の宗教行事の一種だと考えられる。

A君:ということで、第6章、最後の章です。「いったい日本人は何を信じてきたのか??」

B君:まずは、キリスト教の解析。キリスト教の根本原理である原罪というものがあって、これは日本人には理解しにくい。それどころか、同じ出自であるユダヤ教には、原罪というコンセプトはないらしい。

A君:キリスト教は教会があって、それを経済的に維持するために、色々と仕組みを考えるのではないですか。その一つが原罪だったというと分かり安い。

B君:そう記述されていて、教会が信者の救済のためにできることとして「七つの秘跡」というものがあって、その一つが、「懺悔」。定期的に聖職者に信者は自分の罪を告白をしなければならない。七つの秘跡は無視すると、最後の審判によって、地獄に堕ちることになる。

A君:この懺悔が、免罪符に結びついて宗教改革が起きて、プロテスタントが発生するのがキリスト教。

B君:最後の審判の判定は、ヴォロネッツ修道院の絵によれば、自動審判装置が行うように見えるのだが、他の絵だと、神が行う。いや、ヴォロネッツの絵の場合でも、実は、神が行っているのだと思う。

A君:そろそろ結論が近い感じですが、なぜ日本人は一神教の神を受容しなかったのか。

B君:日本における天災の話になって、もし、日本で一神教を信じていたら、天災があるたびに、なぜ、我々日本人は、このような厳しい目に合わなければならないのですか、という疑問を神に向かってぶつけるだろう。それは、神そのものの存在に対する疑問につながることになってしまう。これが、島田教授による日本人と一神教との相性の悪さの説明だ。なるほど、と言えそうだ。

A君:その点、起きてしまった天災が、どの神の責任なのか分からない多神教の方が、日本では、受け入れられる。まあ、分かりますね。

B君:そして、「無常」という思想がその根底にあるからだという説明になる。確かに、そうだと思う。日本人のマインドにとって、日本という国土の災害の多さは、極めて重要な要素となっていると思う。

A君:日本人は、「無」という文字が好きなようで、「無我」、「無欲」、「無心」、そして、「無常」が重要な宗教観となっている。

B君:「無」が宗教の根底をなす、ということか。般若心経には、21回も「無」が登場するから、人気があるのか。

A君:そして、最後の最後になって、「信仰」と「信心」が違うという指摘になりますね。「神や仏を信心する」という言い方は、海外では無いかと思いますね。「神や仏は信仰するもの」ですから。

B君:島田先生の説明だと、無を重視し、無心の境地に至ることを理想とした日本人。無心という状態においては、何かを選択するということはない。

A君:しかし、島田先生の最後の主張のように、日本人は、すべてを何かに委ねる訳ではないのです。常に、自分でもなんらかの努力を続けていくのが、日本人の日本人らしいところ。これが、すべての鍵になる結論ではないですか。

B君:「すべてを委ねる訳ではない。常に、自分でも努力を続けていく」、「これが日本人の宗教観の本質」。これは素晴らしい結論かもしれないね。

C先生:そろそろ、結論でも良いようだ。全く関係の無い話から入る。かなり前になってしまったが、ICEFのステアリングのために、パリに2泊したとき、帰国日が土曜日だったもので、例のイエロ−・ベストのデモがあった。市内はかなりの厳戒態勢だったが、個人的には、お空港への車を用意して貰えたので、ほぼ影響なしで、ド・ゴール空港まで順調に到着できた。もっとも、途中で、一人のデモ参加者が多くの警官に追いかけられて拘束される現場を見てしまったが。
 ところで、その前日、パリでは、実は、もう一つのデモが行われていたのだ。それが、なんと「気候変動対策強化を求めるデモ」だったのだ。
 この話は、皆さんはすでにご存知のように、このデモの発信地は、スウェーデンであって、グレタ・トゥンベリさんという16才の高校生が、「学校をサボることも悪いけど、それより、温暖化対策に無策な大人達に対するデモを行うことが重要だ」、と主張して、2018年に一人で始めた抗議行動が、ヨーロッパ各地に広がっているようなのだ。
 これが道徳的・宗教的な行動なのか、と言われれば、本質はかなり違うのだが、これを突きつけられた大人がどのように反応すべきなのかとなると、そこには、やはり「何が本当の正義なのか」という疑問に対する大人としての回答があるべきだと思うのだ。
 いくら日本人が「無」が好きだからといっても、すべてのモノが「無」になってしまっては、どうしようもない。「無」になりうるものは、「心=無心」であったり「欲=無欲」であったりするだけで、実態が無くなってしまったら、生命としての存在も無くなってしまうのだから。
 無くなってしまったら困る実態として、もっとも重要なものは何か。我々の現在の思想から言えば、それは地球の現況だとは言えないか。その上で生存している人類や他の生態系も含めての話だ。すなわち、いくら日本人が「無」が好きだからといって、「無」生物の地球になれば、そもそも人類の生存は不可能だ。「無」淡水の地球になっても、「無」森林になっても人類の生存は不可能だ。
 今の日本人に、「無我」の境地はお好きでしょうが、「無」の地球になってしまったら、それはどう思いますか、と聴いて見ることが重要なのではないか。特に、若い年齢層に、住む地球が「無生物・無水・無安定」な地球になってしまったら、「それは、ハッピーなのですか」。こう聴くべきだろう。
 そのとき、当然のことながら、重要なのは、日本には、地球温暖化懐疑論が相変わらずというか、未だにと言うべきか、残っていることだ。どうも、日本人の科学的リテラシーの低さがその原因のようなのだけれど。もっとも、最近、金融系のTCFDなどの要請によって、企業での懐疑論者は若干減りつつあるように思うけれど。
 「無の地球が良いのか」という表現が、キリスト教徒には有効である「気候正義」に替わって、日本人向けに有効な表現になりうるかどうか、今後、試してみたいと思う。