| 環境問題を正しく見るコツ 01.08.2006 ![]() |
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環境問題を正しく判断することは難しいという人も多い。それは何故なのだろうか。一つには、余りにも多様であること。そのために非常に多くの知識を必要とするので、とても人間1人分の脳に蓄えるのは難しい。確かにその通りである。環境問題のすべてを語ろうとしたら、10人前以上の脳が必要だろう。もう一つは、相反し交錯する原理原則が数多く存在し、そのため、どのような場合でも、絶対的に正しいものを導くことはできない。確かにこちらもその通りである。 まとめれば、(1)多種多様な知識、(2)相反し交錯する原理である。しかし、この(1)、(2)にしても、なんとか対応の仕方はあるように思えるのである。恐らくそのコツは、何が正しいかを知ろうとしすぎないことではないか。むしろ、「何が正しくないか」、「情報はどのように歪んでいるか」、を知ることなのではないだろうか。 C先生:新年早々、かなり反語的な話題を取り上げたい。環境問題を議論するとき、非常に陥りがちな傾向として、「何が正しいか」を議論しすぎるということはないだろうか。むしろ、「何が正しくないか」、「情報はどのように歪んでいるか」、を議論すべきではないかということ。これが本日の主題である。 A君:一般に、知識として「正しいこと」を覚えさせる。これが今の教育ですからね。まあ、分かりにくいでしょう。 B君:先日、某大学の大学院生に会ったら、環境問題に正解は無いから困る、と言っていた。環境を専門とする者の一つの常識としてそう言っているように聞こえた。ものごとを一面的に見れば、そんな感想をもつ可能性は高い。しかし、「環境問題の見方は、むしろ逆方向に見るべきなのだ」、と言ったら、理解できないような顔をしていた。 A君:それは、これまで普通の教育を受けてきたら、「正しい知識を得ようと努力するのがその本質である」、と体の芯まで染み付いているので、そう簡単に、逆方向ということは分からないでしょう。 B君:その学生は、どうやら防災関係を専門としているようだ。そして、言ってたことだが、具体的に困っていることは、ある河川の改修に関して、地元住民は、洪水などの災害がなくなるような改修工事、すなわち、コンクリート護岸型の改修を主張したが、NGOから、その河川に生息する希少生物を守るために、自然な堤防を残すことが主張されるようになった。どちらも正しいので、絶対的に「正しい解」は、存在しない。どうやって今後話を進めていくべきか、良く分からない、ということのようだ。 C先生:毎年国連大学でやっている鳥瞰型環境学における最大の原理が、実は、逆方向からモノをみることなんだ。 A君:といっても分かりませんよね。もっと分かりやすく具体的に言えば、「何が間違っているか」、を共通理解としてまず持つ。そして、次に、もっとも悪くは無い回答を協働して探すというやり方。 B君:実際、そのようなアプローチをしようとしたとき、「何が間違っているか」、ということきちんと判断できない人も多いのが一つの問題ではあるんだが。 A君:「水からの伝言」に書かれている物理現象は、今後、いかに科学が進歩しても決して正しいことにはならない、ということを判断できることは、高度なのかもしれない。 B君:江本氏の言う、「波動」が何を意味するのか分からないが、ドブロイの物質波あたりを無意味に拡張しているような気がする。 A君:先日AERAなる雑誌に掲載された批判記事(05年12月5日号p34、編集部有吉由香)への江本氏の反応は、「科学ではなく、ファンタジーだが、今後解明されていく」ということを述べているが、実のところは、今後解明されるような問題ではない。如何に現代科学が未成熟だとは言っても、何が今後解明され、何が解明されないかぐらいのことは分かっている。 B君:水の分子構造とその時間変化、構造とダイナミックスとでも呼ぶのだろうか、そんな基本的なことをちょっと勉強すれば、江本氏の理論は間違っていることがすぐに分かる。 A君:環境についても、そんな状況にある。しかし、「その基本中の基本」の間違いを知らない人が多い。これは、どのような情報を信用でき、どのような情報は信用できないか、その判断力が無いからだ。 C先生:先日の「世界一の誤解」の記事で書いたようなことは、その基本中の基本。例えば、「ミネラルウォータは、何か(それが鉱物=ミネラル)水以外のものが溶け込んでいるからミネラルウォータ」なので、その基準は水道水よりも緩くなければ、合格しない。こんな基本的なことを分かっていれば、「ミネラルウォータは水道水よりも純度が高い」ということが間違いであることはすぐ分かるはず。しかし、こんなことが、メディアが報道することは無い。 A君:現在販売されている遺伝子組換え食品も、食べることに限れば、通常の食品よりも危険であるというのは間違い、ということも言えますよね。 B君:通常の食品は、例えば品種改良がされた野菜の安全性など、実に、だれもチェックしていない。品種改良ということは、実は、遺伝子が変わっていることなのだが。 A君:一方、遺伝子組換え食品だと、一応のレベルの安全性チェックは行っている。だから、食べることに限れば、危険だとは言えない。 C先生:勿論、それ以外の要素があるから、遺伝子組換え作物を推奨している訳ではない。詳しくは、 B君:本日の本題のひとつ、その大学院生との話に戻る。すなわち、「川の防災の話」に戻るが、川の防災で「間違い」と言えば、「1000年間に1回程度の洪水が起きるレベルの防災を実現することは間違い。理由は、無駄だから」。もう一つ、「希少生物を現状のまま保護することがいつでも可能だと思い込むことは間違い。これは自然は常に流動しているから」。 A君:これまで川の堤防の設計などは、50年に1回程度の洪水が起きることは避けられないという考え方で作られています。 B君:これを国などの管理者の立場の者が主張すれば、「それでは不足だ」、と言う住民が居るかもしれないが、現在の税金などの額が、そのような前提で決められているとも言えるので、もしも、これを200年に1回の洪水程度まで防災のレベルを上げるのなら、税金が高くなることになる。しかも、これまでは、防災関係の税金も、川の傍に住むか、洪水などが全く関係な場所に住むかによって変わっていない。 A君:今後、小さな政府を目指すことを合意して、小泉さんに投票したのなら、「もしもより高度な防災を求めるのであれば、自己負担を増加させるべきだ。それが小さな政府だ」、と小泉さんに言われたら、それを受けるしかない。 B君:希少生物の方も、「希少生物だからといって、保護だけを考えるのは間違い」。生態系の保護について、特に、希少生物の保護について、どのぐらいの価値を見出すか、誰も理屈を付けることはできない。「希少生物が消滅せず、ある程度、回復できるような対応を取ること」が妥当なところである。しかし、そのために、どのぐらいの対策を取らなければならないか、その限界が良く分からない。 A君:分からないものは、ある程度マージンをとって対応をする以外に無いですね。 B君:ところが、自然を相手にすると、どのぐらいのマージンを取るべきか、それがまたよく分からない。 C先生:自然保護という学問体系が、いまだに確立していないことがその原因かもしれない。 A君:それに対して、人の安全性のマージンの取り方は、「命の値段」という考え方で多少の解釈は可能。 B君:一方、自然の価値については、このところ、かなり認識が進んできた。定量的な議論ができるところまで行っていないが。 C先生:アスベスト問題のときに記述したが、1973年頃、命の値段は2000万円だった。しかし、現時点では、どう考えても1億円以上になるだろう。すなわち、5倍以上になったのだ。一方、一人当たりのGDPは、2倍程度になったに過ぎない。この人命の価格に見合った防災体制を取ろうとすれば、それなりの税金を取らなければならない。 A君:河川の防災といった問題も難しいですが、このところの状況を見ると、もっとも難しい問題があるかもしれませんね。NIMBY(Not in My Back Yard)の類。 B君:これは、「我侭」という問題と、「宗教」という問題が絡む。 A君:我侭だと言ってしまっては身も蓋も無い。当事者が我侭というよりは、非当事者が我侭だというのなら、分かりますが。 B君:本当の当事者が問題である場合は少ない。非当事者が我侭であり、非当事者が宗教を持ち込むのだ。 A君:例えば、火葬場を作ろうとしたとき、その隣接地域に住む当事者にとってはこれは大変なこと。なぜならば、もしも火葬場が新設されると、その地価が低下するという悪影響を受ける可能性がある。したがって、当然反対する。 B君:しかし、非当事者にとって見れば、痛くも痒くも無い。「反対のための反対」、「政治的理由による反対」、あるいは、「宗教的理由による反対」を行う非当事者が出てくる。ところで火葬場は今の日本の状況からみて、絶対に必要な施設である。となると、どうするのか。 A君:いずれにしても、この場合であれれば、「火葬場は不要というのは間違い」。これが共通理解のスタートポイントでしょうね。どんな町でも市でも、火葬場無しには、社会が成立しない。となると、火葬場を新設することによって、ある当事者が被害を受けるとしたら、それなりの補償をするのが当然。その補償金は、非当事者が負担するのが当然。多くの場合には、税金のような形で。 B君:そんなに簡単に行くとは思えないが、まあ、そこが出発点なのだろう。 C先生:火葬場だとまあなんとかなるのだが、最終処分地となると、「宗教」が出てくるのが現実なのだ。現時点で、「まったくごみを出さない生活が可能」というのは、完全なる間違いなのだ。すべての人が最終処分地のお世話になっているのだが、その実感を持つことができる人は、本当に限られた人なのだ。しかも、それを扇動している非当事者は、最終処分地の必要性は十二分に理解しているにも関わらず、最終処分地は不要だという主張をしている。 A君:今年のテーマがライフスタイルの再認識のようですが、それには、自分のごみがどこに行って、そして最終的にどうなっているのか、その認識が必要。それには、情報なのでしょうね。 C先生:そんな意味で、情報リテラシーを広く社会に伝達することも、今年のテーマの一つにしたい。言い換えれば、「情報の歪み」を理解することだ。 A君:非当事者が自らの目的のために、情報に歪を加えること、これを理解することの方が、一般論としての情報の歪みよりも理解するのが簡単でしょうね。 B君:確かに、非当事者が情報を歪ませる場合には、その意図が見え見え。だから、一般市民がそれを全面的に信じることは少ない。 B君:それなら、再度ここで、メディアが提供できる情報ということについて考えたい。メディアに共通して言えることは、「メディアが情報を中立的に伝達すると考えたら、それは間違い」。 A君:それはその通り。しかし、メディアにも様々な種類があって、最悪なのが、民放のテレビ。それは、その番組のスポンサーの嫌がるような情報は決して流せない。 C先生:「世界一受けたい授業」のときも、ミネラルウォータの安全性は水道水よりも低いということについて話すことなったが、「ミネラルウォータというキーワードをこちら側から出してはいけない」、というのだ。タレント側が自然に言い出したとき、それに乗るのならば、それはOK。妙な論理だが、仕方が無いということでスポンサーが諦めるのだろうか。 B君:新聞の場合、紙面の広告というものと、記事の関係は必ずしも一対一ではない。だから、何とかなるが、大阪などのメーカー、例えばシャープなどは、少々批判的な記事を書くと、「もう広告は出さないぞ」ということになるらしい。 A君:それに比べると、関東のメーカーは比較的寛容らしいですね。 B君:週刊誌になると、ある程度メーカーも諦めている部分があるらしい。月刊誌だと、かなり様々なことが書ける。 A君:しかし、それよりも自由なのが単行本。しかし、大出版社の単行本だと、いくら伏字にしても分かると思うのだが、S社とか、X社とか言った書き方にするようですね。 B君:そして、最後に何でも言えるのが、本当はNHK。ところが、なぜか、自主規制をしているようなところがある。 A君:NHKには、批判的な放送は作らないという暗黙の了解があるのではないですか。 C先生:本来、視聴者のために番組を作るのが、NHKだと思うのだが、やはり様々な関係があると思える。しかし、NHKがもしも存在していなかったら、日本のテレビの状況は変わっていただろう。米国の三大ネットワークは、かなり良心的な報道の態度だが、もしもNHKが無かったら、民放ももう少々良心的な番組を作っていたかもしれない。NHKが存在しているために、「硬い番組はNHK。われわれ民放はバラエティー番組で視聴率競争」、というまずい共存共栄が図られているような気もするのだ。 A君:メディアの出す情報は、いずれにしても、歪んでいる。歪みの質と大きさは、メディアの種類によって違う。 B君:インターネットの中に存在している情報は、「玉石混交」だから、自分である程度選択できないと難しい。 C先生:昔から、インターネット情報のインチキさについては、議論がされてきた。しかし、最近、情報化社会が進んで、どのぐらい信用できるサイトなのか、簡単に判断がつくようになってきた。 A君:Googleバーは、最近の検索サイトには類似のものが増えてきたが、やはりオリジナルはこれのように思う。インストールされることをお薦め。 B君:どのぐらいの数値で信用できるとするか、それが問題。 C先生:経験的には、(1)、(2)、(3)を同時に満足するということならば、「そのサイトの表紙ページのPageRankが最低でも40%以上あること」、が条件。もしも(1)だけで判断をするのであれば、「60%以上」ならかなり信頼できると判定してよい。 A君:「実名と連絡先」があれば、かなり信頼できるのは事実ですね。 C先生:なぜ、こんな条件だと思うのか。その理由は、こんな感じだ。まず、(1)のアクセスが多いサイトは、もしも情報が間違っていれば、どこかのサイトに批判が出る。そこで、間違いを直すことが可能になる。しかも、(2)のように連絡先があれば、様々な方々から、訂正のメールを受け取ることができる。そして、(3)頻繁に更新していれば、その訂正が行われている可能性が高い。 B君:きわめて論理的。 A君:となると、インターネットの読み方を身に付けることも可能になって、結果として、正しい知識とは何かが分かる可能性が高い。 C先生:その意味では、現時点はなかなかよい時代でもあるのだ。インターネット以前の時代には、正しい情報を得る方法すら無かったのだから。 |
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