| 電気用品安全法へのご意見について 02.26.2006 ![]() |
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北京にて。 この話は、実社会に対して、やはり相当影響があるようだ。深刻な議論が行われる傾向が強い。しかし、残念ながら、その本質に迫った議論は行われていないように思われる。個別のご意見に対する回答を書くのではなく、全体に対して、個人的見解を述べてみたい。 まず、法律というものについて、誤解があるのではないか。法律は、文章である。実際に我々が行う日常の行動は、文章によって正確に記述できるものばかりではない。特に、行動の意図を文章で記述することが難しい。 法律とは、悪質な意図を持った犯罪行為を、裁判というプロセスで裁くことができるように、厳しい解釈ができるように作られている。法律は、善意に基づく日常的な行動によって生じた結果を厳罰に処するために作られているものではない。もっとも、過去において、そのような意図で法律を作ることが無かったとは言えないし、世界の一部では、未だにそのような状況はある。 今回の法律を、一般人として理解するには、経済産業省がHPに提示している範囲で十分である。法律の専門家でもない一般人が、分かりにくい法律の文章や1000ページにも及ぶような付属文書を読み下さなければならないとしたら、それは、経済産業省の怠慢である。一般人を対象とする法律の普及は、十分に行う必要がある。加えて、今回の経済産業省の出した文章も、残念ながら十分ではない。もっと分かりやすい文章を書くことをすべての役人は心がけるべきである。 もしも、経済産業省から不法行為として指摘を受けた場合があったとしても、少なくとも中古品販売業の立場であれば、この法律の目的が安全性の確保にあるということを、上述の文章の範囲内で理解し、善意で実践をしている限りにおいて、深刻な結果は生まれないし、生まれるべきではない。 直接関係することではないが、谷みどりさんが個人的に行って結果的に潰れたブログのような試みは、現段階になって行うのではなく、法律施行の前から、すなわち、平成13年以前の時点で企画され、実行されるべきであった。もっともその時点でブログがあったか、と言われると、疑問であるが、通常のHPでも議論は可能であった。 (2)この法律の目的は何か 「電気用品の製造、輸入、販売等を規制するとともに、電気用品の安全性の確保につき民間事業者の自主的な活動を促進することにより、電気用品による危険及び障害の発生を防止する」、となっている。 ここで分からないことは、「危険防止」、「障害発生防止」が具体的に何を意味するか、ということである。しかし、「民間事業者の自主的な活動を促進すること」によって何ができるか、というところに鍵がある。中古品販売業のような事業者が、自主的な活動として何ができるか。その範囲は自ずから限られている。しかし、大企業(製造業)であれば、それこそ、材料の選択、機器の設計などすべての責任を負わなければならない。 中古品販売業が、製造者の届出を行ったとして、この法律の目的である安全性の確保を実現するために何が実行可能か。特定電気用品以外であれば、(1)外観、(2)絶縁耐力、(3)通電試験、程度をそれなりの範囲内でこなせば十分だというのが、この法律の示す「常識的な解釈」であり、この範囲を超したら、事業の阻害になるだろう。 すなわち、ショートによる発火の可能性をこの法律の言う危険性の大きな部分であると考え、かつ障害としては、大電流が流れることによる副作用(人に対しては火傷・感電、電気系については停電など)だと考え、(1)外観、(3)通電試験によって、明らかに「危険な製品」は排除し、それだけでは分からない材質の劣化による安全性への危惧を(2)絶縁耐力で調べよう、といった考え方だと思われる。これは、妥当な妥協点なのではないか。 絶縁耐力でテストが不可能な部分、すなわち、電源に直接関係の無い部分からの発火や感電の事故であれば、それは、オリジナルの製品の責任である。決して、この自主検査を実施する事業者の責任ではない。勿論、外観テストや通電試験によって容易に発見可能な場合は、別の話である。 大規模事業者にとって、この法律の意味するところは、実に大きい。例えば、塩ビや臭素系難燃剤といったものをどのように考えるかである。塩ビは、日本ではダイオキシン騒ぎの余波を受けて「環境魔女」になり、また、臭素系難燃剤は、EUのRoHS指令が、2種類の物質を禁止したことによって、すべてが「禁忌対象」になった。物質のリスクは、ライフサイクル全体にわたってのリスクであって、これらの物質は、製造段階、リサイクル・廃棄段階でリスクが生じる若干の可能性があるが、使用段階ではほぼリスクはほぼゼロである。製造段階は、化学企業の問題である。リサイクル・廃棄段階では、そこでのリスク削減の責任は組み立て産業・自治体・リサイクル産業・処理産業にある。特に、組み立て産業がどのような製品設計を行うか、これがもっとも重要なポイントである。 再び論点を戻せば、リスク回避についての素人である消費者の安全を、事業者がそれぞれの責任の範囲内で守ろう、というのが、この法律の趣旨だと思われる。 (3)リユースの阻害になるか 「リユースを推進することが、現行の循環社会基本法の基本理念ではないか。この電気用品安全法は、それと矛盾する」。 リユースシステムをどのように活用するか、それは、自然環境にではなく、人間社会の仕組みに大きく依存する課題である。その気になれば、言い換えれば、社会的な合意が得られれば、どうにでもなることである。今回の問題にしても、リユースの阻害にならないような形での、法律の施行が可能である。あくまでも、日本社会の問題に過ぎないからである。法律が一人歩きしないようにすることが必要で、法の趣旨は何か、それを議論しつつ最善の調和点を探って合意する、これが知恵ある社会というものである。 そのためには、今回の法律によって、どのような商品が有効に使用(リユース?)されず廃棄に追い込まれるのか、例示が必要である。ビンテージ電子楽器、真空管式アンプなどは明らかされているが、それ以外の品目では、具体的な商品を上げた詳細な議論がなされないのが不思議である。 製品の元々の製造者、特に大企業が、この法律の趣旨の範囲内で、中古品販売業に対して、過度な干渉をすることは許されることではない。安全性確保を目的とした電源コードの交換など、電源一次側の改善・修理については、その製品の本質とはほぼ無関係であり、その部分に限った作業であれば、今回の法律の趣旨に沿った作業だと理解すべきである。すなわち、主として絶縁耐力の試験に直接関わる部分が、中古品販売業が改造可能な主な範囲である。通電試験によって、たとえ動作が不安定であっても、それは多くの場合、安全とは無関係であり、場合によっては、全く動作しないものでも、上記3種のテストを完了すれば、販売は可能と考えるべきである。外観についても同様である。当然のことであるが、修理という範囲内であれば、製品のオリジナルな機能を回復することが目的であり、許容される。その際、安全性の確保についても、すでに述べた範囲内で責任が生ずる。 上に述べた範囲を超えた改造、すなわち、安全性に無関係な改造を行って、中古製品販売業が自己の商品として販売することは、この法律の主旨を逸脱するだろう。すなわち、知的財産権の問題になるだろう。 (5)社会の仕組みが変わることによって、特定の個人が不利益をこうむる これは、残念ながら事実であって、現代社会の宿命のようなものである。いくらでも例がある。環境分野で、もっとも理不尽だったのが、東京都などの条例によって行われたディーゼルトラックの国の規制前倒しによる改造の強制と、未改造車の使用禁止だったかもしれない。しかし、社会全体のことを考えると、妥当という考え方も有りうる。 中古品販売業も、業を営んでいるのだから、ビジネスリスクの存在について、もっと敏感であるべきである。 リサイクル業のビジネスリスクも、このところ厳しい状況にあるが、それはもっぱら見通しの甘さに原因がある。行政が推進しているから大丈夫だろう、という甘い思い込みが原因である。未来のことは誰も分からない。行政だって同様である。自己責任で未来を読むことが、小泉政権の言う「小さな政府」の姿である。逆に「大きな政府」を目指していて、ヨーロッパのような税金が非常に高い社会では、行政は、もっと責任を取るべきだろうが。 (6)「売れないものはゴミという表現」は不適当か HPで使ったこのような表現は不穏当だから撤回すべきだというご意見をいただいた。しかし、その議論は、今回の考察範囲である、「電気用品」を遥かに超えたものである。 「電気用品」については、多少の改造費を掛けることによって売れなくなるようなものは、やはりゴミである。5年以上前に作られた新古品も、同様である。 もっとも、電気用品に限らなくても、この表現は妥当である。指摘されている文化財についても、もしも、行政が多額の金額を投入して保存すべきようなものであれば、それは売れる可能性が高い。もっとも行政が予算を投入して補修をすべきかどうか、それはむしろ個別に議論をすべき問題のように思えるが。 (7)パソコンを例外としたことが納得できない なぜパソコンが除外されたのか、その理由は知らない。 推測すれば、パソコンは、二次側は12V、5Vと低圧である。しかもスイッチング電源だから、絶縁の問題が少ないと評価されたのではないか。 それなら、コンピュータの一種であるゲーム機が対象にされたのはなぜか。 これも理由を知らないが、推測すれば、やはり「子どもが使うから」、という単純な理由なのではないだろうか。塩ビ製玩具も、子どもに対する安全性を確保するという理由で、かなりオーバーな規制がなされている。 そういう解釈も可能かもしれない。調査が必要ではあるが。しかし、それならどうしたら良いのか。国民は、選挙によってその意図を示すことができる。小泉政権をサポートしてきたということは何を意味するのか。それは、「小さな政府」を作ることではなかったのか。そのために、検査システムも民間の自主的な枠組みに移したとも言える。 (10)現在の中古品販売業に、チェックをする能力などない そうだとしたら、しかも、中古品として売られているものの信頼性が下がりつつあるとしたら、誰が安全を確保するのか。買う側なのか。 日本という国は、世界的にみて極めて不思議な国である。国民の大部分が、法律が制定されれば、それを守ることが当然だと思っている。実は、このような考え方を持つ国民が過半である国は、190を超す世界の地域・国では例外である。ヨーロッパの状況もまあまあ遵法主義であるが、日本のような極端な遵法主義の人ばかりではない。 したがって、日本の法律は、言葉の選択が難しい。例えば全面禁止といえば、本当に全面禁止にしかならない。ほんの一部の例外が存在する場合でも、原則禁止としか書けない。ところがヨーロッパにおいても、「全面禁止、ただし、例外を許容し、徐々に規制を強化して本当の全面禁止に移行する」、といった記述が行われる。 昨年の最大の話題であった、アスベストでも同様の状況にある。ドイツは、例外規定が非常に多い。EU全体でも、「全面禁止、ただし、隔膜法による食塩電解プロセスでの隔膜としての使用は許容」されている。これを基本にして、各国が独自の枠組みを設定している。 法律それ自身は、文章でしかない。生きていない。しかし、法律は生き物である。どのように解釈するか、それによって有効に生きもするし、死にもする。そして、何が法律に違反し、何が法律に違反しないのか、その境目は決してクリアーではない。しかも、お上がそれを決めるものではなく、社会全体がその時点で共有している規範のようなものがそれを決めるのである。すなわち、規範といっても、本当の意味での絶対的な規範は存在せず、時代によって浮動するものである。裁判官は、それを代表する存在でしかない。 いずれにしても、余りも技術的細部に拘ったり、お上が全てを決め(天下りのため??を含め)一般市民は被害者になるのだ、といった極端な議論を避ける努力が必要である。全ての人から構成される(当然、私個人を含む)社会全体が、法律の運用を決めるのである。日本から、「お上」という発想を除去することが極めて重要であり、しかも緊急課題である。 |
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