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  アジアの工場の行方
  09.02.2012
      日本の製造業は、プロが使うものに特化



 またまた、執筆中の本からの流用です。21世紀版「成長の限界」を副題にする予定の本ですが、本のタイトルは未定のままです。「成長の限界」を考察する際には、やはりそれぞれの国の特性に合った産業構造を持つことが非常に重要だと考えます。

 これまで日本の得意技だった電気製品などの工場は、韓国中国に移動しましたが、これも、ある意味で当然の流れだと思います。これを防衛することに、それほどの意味があるとは思えないのです。なぜなら、すでにタイ、インドネシアに行き着いたこの流れは、バングラデシュへ。そして、アジアの工場の最終到達地点は、ミヤンマーだからなのです。

 カンボジア、ラオスは、ひょっとすると、取り残されてしまうかもしれません。そこには、なんらかの国、あるいは、国民の特性が隠れているように思うのです。


★職業を巡る不安が、世界中で大きくなっている
★土地があればなんとかなる、が成立しない
★農業は、すでに1人の農民が100人分の穀物を作ることができる
★オランダ流の農業が、日本に残る農業の姿  それ以外は、景観の維持のための農業
★アジアは「世界の工場」としての役割を果たす
★アジアの工場は、人件費が安く、そこそこの品質の商品が作れる国に滑っていく
★その最終到達地点が見え始めた =ミヤンマー
★そのなかで、日本国内で作ることができる製品とは
★映像機器とプリウスにその鍵がある
★プロの感性にも環境技術にも使える「擦り合わせ」=感性に合わせた超高度擦り合わせ
★日本製素材類は、プロ向けの製品だから売れている
★プロに評価される製品は、当面、日本製が優位を保つことができる
★それには、世界一うるさい消費者になるべし=一眼デジカメを買おう!そして、「プロの眼」を持とう。


 国民のすべてがまともな職に就いていて、それが、今後長期間に渡って継続すると安心できる状況にあれば、その国は、政治的にも経済的にも、極めて安定であろう。

 しかし、現実を見れば、EUの通貨危機を見ても、また、アラブの政治的な変動を見ても、世界中に不満と不安が高まっている国が増えているように思える。

 不満の多くは、期待はずれの政治と経済が原因だと思われるが、不安はなぜ高まっているのだろうか。まず、その考察を行なってみたい。

 まず、全ての国で、不安は高まっているのだろうか。どうも、先進国の方が不安が大きいと思われる。それには、いくつかの要素があるが、個人の努力でなんとか問題の解決が可能だと思われる状況は、社会が進化し、同時に、巨大化することによって、確実に失われた。かつての世界の状況であれば、自らの努力で克服できる要素が大きいことは確実である。いざとなれば、土地から離れなければ、自給自足という最終手段があって、ここに戻るという覚悟を決めることで、安心が得られていた。

 それなら、農業を営んでいる最貧国では不安ではないのか。農業は、農産物を他人に売ることでは、儲からない職業になった。大昔の生活のように、なにもかも自給する訳にはいかない。アフリカの農業であっても、すでにこれがあたり前である。携帯電話の普及率は、アフリカでさえもすごいものがある。2000年にわずか2%であった普及率が、2011年にはなんと63%になったという。

 勿論、国による格差はまだ大きい。しかし、農民にとって、携帯電話を持つことは、自給自足の生活だけでは非常に難しいことである。

 他人に農産物を売ることによって、貨幣を得て、それで買うことになる。すなわち、かつて、工業製品がそれほど生活の必需品ではなかった時代には、自給自足が最後の砦だったが、今や、自給自足は不可能だと考えるのがあたり前になった。

 農業が儲からなければどうするのか。それは、教育を受けて、都会に出ることになる。しかし、都会に出ても、仕事があるとは限らない。

 職業というものの変遷も、安心を考える際に、歴史的に重要な変数である。かつて、地球上にはほとんど農民しかいなかった。しかし、近い将来、米国型の大規模農業を行うことができれば、一人の農夫が1000人分の食糧を作ることができるようになるだろう。そんな状況になったとき、日本の人口が1億人だとしても、日本向けの農民は10万人で足りることになる。この10万人は、日本国内は居ない。日本国内では、手のかかる付加価値の高い農業、いわゆるチューリップに代表されるオランダ農業が行われていることになる。

 これは、職業というものの分布が非常に大きく変わりつつあることを示している。なぜ職業が重要なのかと言えば、それは、過去を振り返れば、まともな仕事=decent jobを持っているかどうかが、精神的な安定性にとって必須な条件であったと思うからである。

 もう一つの不安要素が、未来が見えないということである。未来は、どのような状況でも見えないのがあたり前である。未来予測は当たらないのがあたり前であることも、すでに述べた。しかし、未来を予測し、どのような社会になっているかを考えることは、安心・不安の心理にとっても、極めて重要なことである。

 「未来予測」のもっとも重要なターゲットは、その社会の安定性を計り知ることにあって、それには、経済的にどのようになるかだけでなく、人々が精神的に満足しているかどうかが非常に重要だからである。

 人々が不安におののいている、あるいは、人々が不安に打ちのめされている、までは行かなくても、人々が不安を振り払うことができない程度であっても、社会的な安定性を保つのは難しいように思える。

 そこで、「未来予測」を感覚として身につけることによって、より的確に未来を見ることができるようになれば、多少の不安は解消するかもしれない。あるいは、かなりの諦めの境地になれるかもしれない。

 「未来予測」という感覚、これは、歴史を学ぶことによって、かなりの感覚が身につく。ただし、単なる歴史ではなく、色々な歴史上の重要な変数が、どのような推移をしてきたか、それをグラフのような形で頭に描けることが重要のように思える。

 歴史的に重要な変数とはなんだろう。もっとも重要な変数は人口の増減ではないだろうか。そして、人口に付随する重要な変数がある。それは人口の増減に直接かかわる出生率であり、死亡率である。

 その国の人口とその増減、さらに、世界人口とその増減をしっかりと歴史的に把握することは、未来予測の基本中の基本である。

 次に、何をして人々が生活をしているか、すなわち、雇用という変数である。国内であれば、GDPの根源、すなわち、経済活動別付加価値は何かという話になるかもしれない。

 GDPが多ければ、その国が幸福というわけではないが、少なくとも、どの職業がどのぐらい稼いでいるか、ということを知ることは、地球との関係で、未来戦略を考える上では重要な情報である。

 日本であれば、覚えておくべきことは、農林水産業が1%、製造業が20%、鉱業が2%、建設業6%、商業・飲食・宿泊が13%、運輸・通信が7%、その他(金融・保険・医療・教育・娯楽・エネルギー・水)51%である。

 そして、この数値が今後、どのように変わるかをしっかりと見極めることである。

 今後、日本の農林水産業のシェアが増えることはない。オランダ流のような高付加価値農業を目指すと同時に、水田耕作は、日本の原風景という文化を維持するために支援をすることになるだろう。

 この日本の数値は、資源国ではない先進国では、ほぼ共通のものである。特に、ドイツとはかなり似ている。もっともドイツは、まだ、国産の褐炭で発電をしているので、多少、鉱業の割合が多い。

 日本とは、大きく異なる経済構造の国が、まだあって、農業による付加価値の割合が10%を超している国がある。アジアでは、タイ、中国、インド、インドネシア、フィリピンなどである。

 これらの国は、農業人口を減らす以外に方法はないので、これからどのような産業を維持するか、重要な問題になるだろう。多くの選択肢は、アジアの場合には、「世界の工場」であろう。ということは、生産量の多い製造業は、これらの国で営まれることが確実である。労働コストが高騰した国から、労働コストの低い国へと産業は移行するので、タイ、中国から、インド、インドネシアへと世界の工場は移動する。フィリピンは、全くの出稼ぎ国なので、国内産業より出稼ぎを増やすという戦略になるのかもしれない。アジアの工場は、最終的には、ミヤンマーに到達することだろう。それも思ったよりも早く。

 ヨーロッパで農業の割合が多い国は、フィンランド、スペイン、ギリシャが3%、フランス、ポルトガル、オランダ、イタリアが2%である。しかし、ヨーロッパの農業は、戸別補償が行われて場合が多い。今後、多少、農業人口を減らす以外にないと思われるが、食糧自給と、環境保全など、農業の多面的機能維持を目的とした補助金が継続するのではないだろうか。

 しかし、これらの国の農業は、地球の気候変動によって乾燥化が進行することが確実であるので、農業依存を下げる覚悟が必要だと思われる。

 オーストラリアは、小麦や牛肉など農業生産をしているように思えるが、やはりGDPの2%で、ニュージランドは牧畜が盛んだと思われるが、それでも3%である。広大な耕地で、大規模に行うことで、なんとか所得を得ているのだろう。オーストラリアでは、乾燥化が進む可能性はあるが、大規模農業の場合には、数年に1回の不作は織り込み済みで行われている。

 南アメリカの農業は、アルゼンチンが8%、ブラジルが6%とかなり多い。そのため、将来、失業者が増えることを覚悟する必要があるだろう。

 最先端国は、その他=金融・保険・医療・教育・娯楽などで稼いでいる。リーマン・ショックの影響で、日本のその他の割合も51%から54%に増えた。ドイツも52%から55%に、デンマークも51%から57%に増加。

 ところが、リーマン・ショックで金融などが被害を受けた国は、2008年と2009年のその他の割合がほとんど変わっていない。米国が57%から56%へ減少。イギリスが56%〜57%へ微増である。

 韓国は日本の競争相手のように思われているかもしれないが、農業で3%を稼いでおり、「その他」の割合がまだ41%に過ぎない。中国の農業は11%。「その他」の割合はさらに低く25%程度である。今後、人件費が高くなりつつあるので、アジアの工場もそろそろ終わりである。となると、国内雇用をいかに確保するかが鍵の国だろう。

 日本の現状の経済活動の割合は、すでに先進国の限界のような数値になっており、今後、製造業が多少減るであろうことと、そして、その他の活力が多少増える程度であろう。

 今後、職業を国内に供給し、それによって「安心」を得ようとすれば、製造業が何を生産するのか、という問に答える必要がある。世界の工場として、物量で勝負することは、すでに中国だけでなく、それから先の国々に移行し、日本はとっくに卒業しなくてはならないからである。

 この全く逆のケースが、スイスにおける手工業による高級腕時計である。腕時計を時間を測定するだけの道具だと見れば、それこそ1万円以下で買える太陽電池付きの電波腕時計の性能、常に誤差1秒位内という性能に、全く敵わない。

 しかし、時間を測定する機能は遥かに劣るのは明白なのだが、手工業によって作られるスイス製腕時計は、希少性があるから売れる。勿論、手工業だから数はできないので、産業の規模は知れたものでしかない。

 希少性のある製品なのか、それとも、大量生産された高機能製品なのか。日本が現時点で得意としているのは、どうも、その中間にあって、「プロの感性にしっくりくる製品」なのではないだろうか。

 次の図は、ご覧頂きたい。日本製品の市場規模と世界市場における占有率を示している。


図 市場規模と世界市場占有率で分類した日本製品群

 日本製品で、世界シェアの大きな製品としては、映像機器がある。90%近いシェアを持っている。なかでも、デジタル一眼レフは、他国の追従を許さない。銀塩カメラの時代には、ドイツ製に敵わなかったが、今や、世界独占状態である。その様子は、ロンドンオリンピックなどでカメラマンが使っている一眼レフを見れば、一目瞭然であった。

 プロから何が評価されるのか。それは、一般用の映像機器と明らかに違う画質の良さだけではない。中級以上の一眼レフになると、シャッターの重さの調整も、サービスステーションでやってくれる。機器のマン・マシンインターフェースを、プロの感触に合わせた形で作られているのである。

 このような細かいプロの感覚を再現する能力は、どうも日本人の特技のようである。そんなことを感じるのも、今、この原稿を作成するために使っているキーボードは、恐らく、世界でもっとも打鍵感覚の良いキーボードではないか、と思っているからかもしれない。東プレという製品で、通常のキーボードの10倍以上のお値段であるが、現在、自宅、オフィス、予備用と合計3台所持している。このキーボードなしには、原稿作成の効率が明らかに下るから、必需品なのである。

 トヨタのプリウスが最初の製品となったハイブリッド車も、世界のシェアが高い製品である。これは、車の環境性能として今やもっとも重要になった燃費の面で、従来技術の車の2倍近い性能を出すことができるという画期的な技術である。

 最近、トヨタは、ドイツのBMWと提携をすることになったが、欧州の自動車企業には高度な技術が存在するはずなのに、どうしてこの技術を独自で作ることができないのだろうか。

 そのカギとなる答は、どうも「擦り合わせが難しいから」のようである。エンジンとモーターの駆動力をあたかも一体のもののように調整すること。しかも、どのような運転条件でも、スタート時、減速時、登坂時、雪上走行などなど、あらゆる条件下でも一体のものとして動かなければならない。まさに、擦り合わせ技術の極致のようなソフトウェアで駆動されている製品なのである。

 ホンダ式の簡易なハイブリッドでは、エンジンとモーターの駆動軸は共有されている。しかも、モーター出力は、エンジン出力の1/10程度でしかない。そのため、徹底した擦り合わせを行わなくても、なんとなく走るハイブリッド車ができる。しかし、そのため、例えば、平坦路でモーターのみで走ると効率が良いときでも、エンジンは回っている。

 ホンダであっても、どうも、プリウス的なハイブリッド車を販売するには、現時点では特許の使用などを含めると、トヨタの支援が必要なのかもしれない。

 もう一つの日本の生きる道は、プロ向けの素材である。相手はやはりプロである。同じような素材や原料であっても、ちょっとした違いによって、最終的な出来上がりが違ってしまうことをよく分かっている人々が相手である。

 すなわち、品質が5〜10%良いだけでも、それを使うプロセスが極めて繊細かつ微妙なものであれば、最終製品の歩留まりが格段に向上するという場合がいくらでもあり得るのである。

 いまや韓国に抜かれている有機ELによる表示だが、そこで使われている積層するプラスチック材料は、日本製らしい。やはり、中小メーカーを含めて、様々な企業が常に品質競争をしている日本という国は、欧州や米国のような一カ国一化学企業という競争の無い国よりも、様々な原料物質の選択肢が広いのである。

 以上のような事実を考え合わせると、日本という国が世界の工場であり続けることは不可能ではない。しかし、作り続ける製品は大量生産品ではない。擦り合わせが必要な製品であり、その結果、プロの感性に適合する製品だけ存在意義を持つように思える。

 何ごとにも悪ゴリをしてセミプロ級を目指してしまうというマニアックさが日本人の特徴であったが、どうも、このところ減りつつあるような感触である。しかし、このようなマニアックな日本人の感覚が、今後の日本経済の将来の道を切り開いていくように思える。

 それには、日本人自身が、世界一うるさい感性をもったプロ的消費者になるべきである。一眼デジカメを所有せず、携帯などで写真を撮っている人ばかりになれば、日本の将来が危うい。