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   書評:放射能問題に立ち向かう哲学
    03.23.2013
      



 20日にベトナム・ミヤンマーから帰りました。この二ヶ国の人々は、やはり相当違います。どこで分かるのか、と言えば、それは交通状況。ミヤンマー人は、昔の日本人のようでした。昔とはいつごろなのか。それは、たけしが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言う以前。この話もいずれ。

 大量の写真は撮影したのですが、実際には、同行したNITEの職員が私のカメラで撮影したもので、公開用のものは、かなり限られています。整理ができ次第、公開したいと思います。


 ということで、今週は、「放射線問題に立ち向かう哲学」という本の書評です。

 結果的には、やはりこの手の本を書くのは難しいことなのだろう、という感想です。科学的な事実に基いて、哲学を構築することになりますが、どの事実を取り上げるのか、それをどのようなスタンスで取り上げるのか、によって、本の構成が変わってしまいます。

 今回、議論の基盤として使用された事実の選択は、余り適当なものではなかったと判断しました。もっとも、ベトナム・ミヤンマーへの機中が主な読書場所でしたので、誤解がある可能性が高いですが。


「放射線問題に立ち向かう哲学」
著者:一ノ瀬正樹
筑紫書房 2013年1月15日発行
出版社: 筑摩書房 (2013/1/15)
言語 日本語
ISBN-10: 4480015647

 この著者は、「確率と曖昧性の哲学」という本も出している。
出版社: 岩波書店 (2011/3/30)
ISBN-10: 4000258052
ISBN-13: 978-4000258050
 今回の哲学は、恐らくこの前著の延長線上にあるものなのだろう。



目次
第1章 低線量被曝とがん死
第2章 「放射能」というイコン
第3章 放射能と人体
第4章 安全と安心
第5章 因果関係への問い
第6章 確率と因果関係
第7章 年間1ミリシーベルト
第8章 予防原則の問題性
第9章 借金モデル
第10章 LNT仮説と不可断定性
第11章 「道徳のディレンマ」を生き抜く


第1章から第3章までは、本Webサイトの読者であれば、不必要かもしれないと思うのでスキップ。


第4章 安全と安心

 この章は、100ミリシーベルトと1ミリシーベルトという節からスタートする。

 この議論で、著者は、1ミリシーベルトが法的規制値であるという議論を行なっている。ちなみに、以下のようなことである。



日本の法令では1ミリシーベルトを規制値としている。

この法令は、
「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律施行規則」の第十九条第一項第二号


実際調べてみると、法文はこうなっている。

二  前号の方法により廃棄する場合にあつては、次に定めるところにより行うこと。
イ 第十四条の十一第一項第四号ハ(1)の排気設備において廃棄する場合にあつては、当該設備の排気口における排気中の放射性同位元素の濃度を文部科学大臣が定める濃度限度以下とすること。
ロ 第十四条の十一第一項第四号ハ(2)の排気設備において廃棄する場合にあつては、排気中の放射性同位元素の濃度を監視することにより、事業所等の境界の外の空気中の放射性同位元素の濃度を文部科学大臣が定める濃度限度以下とすること。
ハ 第十四条の十一第一項第四号ハ(3)の排気設備において廃棄する場合にあつては、排気中の放射性同位元素の数量及び濃度を監視することにより、事業所等の境界の外における線量を文部科学大臣が定める線量限度以下とすること。


 この文部科学大臣が定める線量限度が1ミリシーベルトという訳である。

それを追跡すると、次のようなものであることが分かる。

○放射線を放出する同位元素の数量等を定める件(平成十二年科学技術庁告示第五号)
最終改正 平成二十四年三月二十八日 文部科学省告示第五十九号


が定めている。しかし、どこを見ても、なぜ1ミリシーベルトなのか、という理由が書かれているというものではない。

 要するに、この法律は、「施設を運営する上での規則であり、日本全体が1ミリシーベルト以下にしなければならないという意味ではない」、という毎日新聞の小島正美記者の記述の通りである。

 一ノ瀬本は、この小島氏の記述を引用しているにも関わらず、以後、それを無視し、この「施設」の運営・管理に関する規定であることを除外した論理を進めている。これは論理の進め方として、オカシイのではないか。

 それも哲学だと言うのなら構わないのだが、これを今回の福島原発から放出された放射性物質に対して、通常の運転をしている施設の管理のための規則を適用することは、どうみても間違いである。

 その悪い帰結として、そもそも1ミリシーベルトは安全なのか、という議論をすることになってしまっている。そこに、重大な誤謬がある。1ミリシーベルトという値は、別に安全性を根拠として導かれたものではない。これを記述していない。

 これは、安全工学シンポジウムで中西準子先生の講演を聞いた昨年の7月に、やっと「そうなんだ」と悟ったのが本Webサイトの筆者でもあるので、余り偉そうなことは言えたものではないが、そもそも1ミリシーベルトとは、「この程度の過剰被曝があったとしても、誰も全く気にしない」ということで決まった数値である。

 すなわち、1ミリシーベルトという法令の基準値は、思わず、「なぜ」と呟いてしまう理由で決まっているのである。

 その議論の根拠と言えるかどうか、若干疑問ではあるが、以下のような事実はある。

 大地を発生源とする放射線は、高いところと低いところがあって、日本はその線量が低い地域であり、ヨーロッパは高い。ヨーロッパの中でも、花崗岩が多い地域では高く、北欧は高い。パリは、建物が石造りであることもあって、比較的高い。

 日本からパリに移住すると、年間1ミリシーベルト程度の追加被曝を受けるが、そんなことは誰も気にしないだろう。これが1ミリシーベルトの根拠であって、CODEXなる組織が議論して決めた値である。

 繰り返すが、この1ミリシーベルトを安全かどうか、という議論を行って決めたのではない。

 もともと1ミリシーベルト以下なら安全で、それを超したら危険だなどというデータは、どこにもない。

 それなら、施設を管理する上で作られた法律が1ミリシーベルトを順守することをなぜ要求しているのか。低い線量の放射線の被曝を受けても、それが健康に良いといわれるホルミシスという主張もあって、それは疫学的検証例からは確かにそのように見えるけれど、すべての人が信じている訳ではない。となると、「なるべく被曝をしないということが正義だという仮定をして対処することが、この社会の知恵である」、という基本的な理解に基づいている。

 どういう意味で社会の知恵なのか、と言えば、誰でも気にすることなく受け入れているような値を基準として採用していれば、その程度の追加被曝があったとしても、誰にも文句は言われない。もしも、なんらかの裁判沙汰になったとしても、その責任は追及されることはないだろう、という数値が1ミリシーベルトである。

 なぜ、このような発想が重要なのか。この話をやや拡張してみたい。

 それは国際規格の話である。その存在意義には、なんらかの訴訟が起きたときに対応を容易にすることも、制定の目的にするという動きがあり、これがとみに重要になってきている。

 例を考えてみよう。iPS細胞が将来活用されるとして、その治療が完全にゼロリスクであるということは考えられない。となると、どのような対策と配慮をすることによって、リスクは回避できるはずであるという基準を作って、この基準が守られている限りにおいて、何かが起きた場合に、文句は言うな、ということが明示されていることが、iPS細胞が活用され、iPSを必要とする患者を救うために重要な社会的枠組みとして必要・不可欠だということになる。

 もちろん、iPS細胞を使った治療を行う前には、患者と治療機関の間で合意形成が行われるだろうけれど、その基準を国際的に決めておくということが必要な社会になっているのである。

 もう一つの例である。ヒトの活動を援助するロボットができたとして、歩けない人が独力で歩けるようになる。これは素晴らしいことであるが、そのロボットが誤動作するかもしれない。そして、老人であれば、ロボットによって骨折をしてしまうようなことが起きる可能性もある。

 このとき、ロボットメーカーがその補償責任をすべて背負っていくのか、そうでなく、装着する側もリスクを背負うべきなのか。

 こんなことも、国際的な規格ができないと、ゼロリスクを求めるこの国では、折角の運動支援ロボットが陽の目を見ることが無くなってしまう。

 話を放射線に戻す。医療施設内であれば、意図的にやや大量の放射線を治療・診断目的で浴びることになるが、これは、当然それを選択するのだから、仕方がない。しかし、医療目的以外に、不用意に別途なんらかの放射線を事故として浴びることは無いように配慮するとしたら、まあ、1ミリシーベルトという値を引用しておくことがもっとも無難だという数値になる。

 第5章から第9章の議論は、ここでは省略したい。


第10章 LNT仮説と不可断定性

 この章は、LNT仮説の話を取り扱っている。しかし、LNT仮説へのアプローチもちょっと違うのではないか、という取り扱いである。

 リスクを過大に評価することは、結果的に、想定外の被曝事故を防止することになるから、ある程度構わない。リスクをもしも過小に評価していたら、これは想定外が連発される可能性がある。

 ということで、仮定として使われているのがLNT仮説である。だから、LNT仮説は、リスクを過大評価しているところに、その存在価値がある。

 過大評価は良いとは思えない。しかし、これを学問的に修正しなければならないような事態は今後とも発生しない。いくら学問が進化しても、そのようなことにならない。なぜならば、被曝量のリスクを適正な方法で疫学的に定めようと思っても、何100万人もが大規模に被曝をするよな事故が必要になる。このような大規模被曝は、そう簡単には起きないからである。

 今回の福島程度の大規模な被曝でも、1ミリシーベルトという数値が、安全面からもある種の基準になるといった結論がでるほどのデータ件数があるという訳ではない。疫学が依存している統計的手法というものの限界であって、これは統計学が悪い訳でもなんでもなくて、そのような不確実性というものは、人間社会において普通のことであるにすぎない。


この本で不足している議論はALARAの原則

 本書でも、第3章の最後でほんの少々取り扱っているが、そこ以外で充分な議論がない。それは、ALARAの原則である。

 本来、福島の事故に対して、どう対応すべきだったのか。これも、実は、ICRPが言っていることであり、また、この書籍の中でも取り上げられていることである。すなわち、ALARAの原則に従って対処する以外に方法論はない。

 リスク学というものは、もともと、想定されるあらゆる被害の合計を最小限にすることを目的とする生活の知恵であって、リスク学にそれ以外の存在意義はない。

 ALARAの原則が適用されるには、国が非常事態を宣言しなければ無理だなどという議論もあったが、それも全く筋が違う。あくまでも生活の知恵は、生活者が自分のために使うものである。もちろん、知らなければ使えない。だから、こういう知恵がありますという広報はあってしかるべきだった。

 しかし、文部科学省がそれを広報しようとしたら、当時の内閣参与だった小佐古氏が、20ミリシーベルトなどは考えられない高線量だ、と涙の会見を行って、辞任した。これで、文部科学省は嘘をついているということになってしまった。

 福島からのデモ隊が文部科学省を取り囲んだとき、たまたま文科省で会議があった。異様な雰囲気だったが、あれ以来、ALARAの原則は無視されるようになった。

 しかも、不思議なことに、ICRPも、ALARAの原則が生活の知恵であるということを言わなくなってしまった。

 これは、ICRPがもっと強く主張すべきことだったと思う。

 もしもICRPが日本でまだ機能しているのであれば、その最大の責務は、平成24年4月から5倍も強化されてしまった食品の安全基準を見直すべきだという主張がでてしかるべきである。

 今回の事故による放出総量とその分布を考えると、20ミリシーベルト以上は、強制避難の対象地域とする判断は間違っていなかったかもしれない。これから数年間経過すれば、様々なデータに基づいて、それでも過剰対応だったという一般的な理解に収束するだろう。結果論に過ぎないが、それはそれで仕方がないことである。

 なぜならば、放射線被曝に対しては、リスクの過大評価をもって推定するという根本的な方針がICRPなどによって作成され、それが各国の方針として存在しているが、それは決して間違っているとは言えないからである。

 ここまで主張してきたことを端的に表現すれば、低レベル放射線被曝の対応策は、二つの事項の非常に単純な解釈によって決定することが可能である。逆に、それ以外の余分な考察や解釈はいらない。

 その二つの事項とは、一つ目が、1ミリシーベルトとは、誰でも容易に受容するという基準であって、これはあくまでも管理基準として適当であるから採用されてきた。安全性とは無関係である。

 二つ目は、起きてしまった事態への対応は、ALARAの原則によって対応するのが正しい。とりあえず20ミリシーベルトを基準値に据えたのであれば、最終目標値である1ミリシーベルトをすぐさま目標値にする必要はなく、徐々に、その目標に向かえばよい。

 このような観点から言えば、明らかにこの書籍は、論理学的な興味をもって、余分なことを取り上げて議論しているというものであると言わざるを得ない。


結論

 ということで、個人的にはこの本を必読の書であるという評価はしない。むしろ、もっと単純に物事を考えようと主張したい。

 しかし、昨年の秋時点までで分かってきた様々な状況がカバーされている書籍ではあって、客観的な事実のまとめとしての役割は果たしている。

 もっとも、昨年の5月の国連の報告書に続いて、放射線による被害は、かなり過大評価をしても極めて限定的であるというWHOの報告書が発表されているなど、状況は常に動いているので、昨年の秋までの情報を手元に残して置くことに、どのぐらいの意味を見出すか、それは、完全に個人の価値観に依存する。

 むしろ、一部に確実ではない記述があることには注意されたい。例えば、小出氏が主張しているとしているバイスタンダー効果は、小出氏の意図とは全く異なった効果である可能性が高い。ある細胞が放射線を受けると、隣の細胞に対して、被曝への対策を促す効果であると見ることが、放射線生物学の主流のようである。

 哲学者が放射線の低線量被曝に挑戦したことは、ご立派である。かなり勉強をされたことが明らかな本である。このぐらいの勉強ができるだけの知性ある人が多ければ、この国で起きた放射線の危険性を過大に評価しすぎたことによって悲劇が少なくて済んだことだろう。

 この国では、自分達の主義主張を広めるために、放射線は怖くなくてはならないという立場をとる人々の存在も大きいので、やはり、2年間程度の時間を掛けて、現在程度の状態になるのが、精一杯だったのかもしれない。

 まあ、あと3年ほど経てば、ダイオキシン騒ぎと同様に、ごく普通に、ここでは、1ミリシーベルトの意味と原則、ALARAの原則であるが、これらの原理原則で、放射線のリスクに対応することが当たり前という結論になっていることだろう。

 CODEXの議論での1ミリシーベルト、それに、ALARAの原則。この2つを中心課題として取り上げ、哲学的な構築をすれば、全く異なった本になったことだろう。今回、選択された基準である1ミリシーベルトは安全か、1ミリシーベルトを守る法的な意味はなにか、いずれも、哲学的検討の根幹となる中心課題としては、科学的な根拠を欠いていると思う。


他の書評のご紹介

 朝日新聞に掲載された鷲田清一先生の書評はこんな風だった。実は、放射線に関して、中身が読めなかったものと推量している。著作権の問題があるので、一部のみご紹介。全文はWebでどうぞ。

[評者]鷲田清一(大谷大学教授・哲学)  [掲載]2013年02月24日   [ジャンル]社会 
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013022400020.html

「不明なこと・偽の問題」明確に

前略
 そこで著者が取り組むのは、「低線量放射線を長期に被曝したら、がん死する」という言明における「たら」が、いったいどのような論理的性質をもつものかを、「因果性」をめぐる哲学の議論をベースに解き明かすことである。精緻(せいち)をきわめた議論をへて導かれるのは、因果関係というものがつねになんらかのシナリオを下敷きにしていること、安全/危険についての議論には(線量の測定から確率の読みまで)断定の不可能性ということが本質的に含まれていることだ。問題はだから、どれほどのリスクかという「程度」にあり、それにもとづいて「より正しい」シナリオをどう模索し、行動に反映してゆくかにある。
後略


 普通に読んでしまえば、特に、問題だとは感じない人も多いかもしれない。

 実際、「安全/危険についての議論には(線量の測定から確率の読みまで)断定の不可能性ということが本質的に含まれている」、という鷲田先生流の理解は、絶対的な間違いではないのだが、こと放射線に関しては、測定/確率の不確実性というものは、実のところ不確実性だと言えるほど大きなものではなく、そこに存在する不確実性のほとんどすべては、生命体というもののもつ不確実性である。すなわち、生命に関わる他の事象と全く変わらない。
 例えば、「ちょっと転んだだけでも、打ちどころが悪ければ死ぬかもしれない」、という生命体のもつ不確実性の話と変わらない。
 リスクという考え方を「幸せに生きるための知恵」であると主張している者から見れば、鷲田先生流の考え方は、単に、不幸になるモノの見方に過ぎない。
 やはり、自然現象の不確実性、科学的方法の不確実性を定量的に表現できるかどうか、これが最大の問題で、定量的表現ができた後に、哲学が出番になるのではないだろうか。そして、その主題は、生命現象の不確実性をどう見るか、になることだろう。