-------


   リスク・コミュニケーション再考その3
     04.21.2013
        「不安は解消できない」という立場でのリスコミ




 3回目になりました。なかなか筆が進みません。理由は、様々な考え方が浮かぶのですが、論理的に繋がらないからです。何回か講演をするつもりになって、論理を固める必要があるようです。もう一つは、リスコミにはやはり実験が必要だということで、ワークショップでもやってみないことには、仮説に留まるということです。すなわち、本当に有効かどうか、よく分からないのです。

 ということですが、これで良いのか、という不安を感じつつ、アップしてみます。


2.不安は解消できないという立場のリスク・コミュニケーション

2.1 その概要

 いくら説明されても、その内容に100%納得できるというものではないので、結局のところ不安は解消できない。こんな意見をよく聞く。

 それなら、いっそのこと「100%納得できる」と仮定することをやめるべきなのではないか。不安解消は、あるところから先は個人の問題だから、ということで個人の責任にまかせ、ある種の「悟りを開いてもらう」ことをお奨めする、というのはどうだろう。

 宗教の世界では、かなり以前から、最後は悟りを開いてもらうことになっている。悟りとは、人類の知恵であり、難題に対する一つの解決法だからである。

 いくらリスクを減らそうとしても、そのリスクもゼロにはならないし、まして、リスクの総量はゼロにはならない。逆に、想定外のリスクを高くしている可能性もある。ここまでは、多くの人々が知っている(と思う)。

 となると、不老不死を目指して努力することが無駄であることと同様に、無理矢理リスクをゼロにしようと努力してもムダなのではないか。ある程度小さくなったリスクであれば、それをゼロにすることを諦め、そのまま受け入れよう。このような考え方は、合理的な対応方法だとも言えそうである。


2.2 リスクゼロを当然としない条件

 「リスクをゼロにすることが難しい」、と言うことに正当性があるのは、そのリスクがすでにゼロに近い場合のみである。あるリスクの受容を求める場合に、そのリスクがまだまだ大きいときには、このような発言をしてはいけない。すなわち、ある突出したリスクがある場合には、それを少なくすることが対処するのが当然であり、それが正しいことだからである。

 というのも、多くの場合、リスクが大きいうちは、そのリスクを減らすのは比較的簡単であるが、リスクがかなり小さくなってしまうと、それを更に小さくするには、相当の努力が必要で、加えて、その努力に比例して相当のコストが掛かるのが一般的である。

 福島の除染であれば、50mSvを20mSvにするのはなんとかなるかもしれないが、5mSvを1mSvに落とすことは大変で、費用対効果が極めて悪くなるが、これは他の場合でも同じである。

 このような考え方をする根底には、リスクをいささかでも低下させるには、多くの場合、それなりの「コスト=投資や労力」が必要であるということが真理であると考えられているからである。

 ところが、若干でも健康に影響する場合に「コスト」という言葉を持ち出すと、命というものは、この世で無限に貴重なものなので、それをコストといった貨幣価値に換算して考えるのはケシカランという反論が出てくる。

 その理由は、貨幣価値には、無限大という概念がもともと無いからだろうと思われる。もう一つ、「健康が損なわれる=命の損失」という理解があるからだろう。

 これはある意味で当然のことであり、理論的にも哲学的にも正しいことである。少なくとも、日本という国の内部では、そう言える。

 しかし、欧米社会は若干違うし、日本国内であっても、最終的な解決法として、健康面で不利益を被った人に対して、所得の再配分を行うということが行われる。これ以外に、余り適当な方法論が無いから当然なのである。

 日本人は、この最終段階に行く前に、本来、ヒトの命のようなものを貨幣価値に換算するのはケシカランという正論を述べるだけ、欧米に比べれば、より人間的であるようにも思う。

 しかし、やはり他に方法論は無いのである。「目には目を」という習慣をもった国も無い訳ではないが、現時点では、この方式は主流とは言いがたい。

 したがって、所得の再配分を行うことでリスクの補償をすることは、当然であると、まず、理解し納得する必要がある。

 様々なケースで、今でも問題が残っている。それは、「所得の再配分を行うことでリスクの補償」という原理原則が悪いからではない。その原因は、一旦、合意をして補償が行われた場合にも、蒸し返して再度補償を要求するという行為が繰り返されてしまう、という歴史が厳然としてあったことである。

 このような歴史があることは、余りメディアも報道をしないのだが、補償を求める側の当事者でも、これが分かっていない人はいない。

 過去の歴史を知らない一般の人が「生命の価値無限大」の哲学を述べることによって、「理論的にも哲学的にも正しい」というメディアの合唱を誘導することが起きて、自らの利益が結果的に確保されるという状況を起こそうという人がいたとしても不思議ではない。

 今回、最高裁が、国の判定基準では認定されないケースを水俣病だと認定したことをどう理解し、どう発言すべきなのだろうか。環境省が、認定基準を見直さない方針であることに、反発する意見が新聞上には出はじめている。しかし、事実関係を十二分に知った上で、慎重に自らの意見を作り上げるという作業が必要のように思える。


2.3 小さなリスクに過剰反応する副作用

 話を少々戻す。リスクの大きさがある値よりも小さくなると、そのリスクと同程度の大きさのリスクが、あらゆるところに存在していることが普通であるが、それに気付くかどうか、それはまさにその人の視野の広さによる。

 それに気付き、次にそのリスクの原因を考えるようになると、最終的には、いくつかの根源的リスクにたどり着く。

 それらの根源的リスクを発生させている根源的要因をリストにすれば、

★地球という天体のもつ特性
★ヒトという生命体のもつ特性
★ヒトと地球との相互作用で発生する特性
★現世代が未来世代に負の影響を与えるというヒトの特性
 といったことに帰着するのである。

 例示が必要だと思うので、いくつの事項を述べてみたい。

 現時点での細かい健康リスクに注意を払って、特に、子どもの健康リスクを大いに気にする結果、非常に大きなエネルギー・物質消費が伴う場合もありうる。例えば、地球上に現存するフタル酸エステル類をすべて集めて処理をするといったことを考えていただきたい。各国で、6種のフタル酸エステルを含む玩具や育児製品がすでに規制されているが、これをすべての製品に拡大するということを意味する。

 これを無理やり実施すれば、恐らくその処理プロセスよって発生する温室効果ガスの大量排出によって、気候変動が加速してしまえば、子ども達が大人になったときに、気候変動の結果起きる荒れた気候で、なんらかの被害を受けてしまうかもしれない。

 発がんを極端に恐れることは、最近では少なくなった。それも当然で、もともと、ヒトという生命は、そのサイズだけから言えば、寿命は40年が妥当なところであると、本川達雄氏は著書「ゾウの時間、ネズミの時間」で書いている。

 それを男性の平均寿命は79.70歳、女性86.24歳(いずれも東日本大震災による死亡を補正後)まで伸ばしたのだから、老齢化とともに増加するという特性をもっている発がんは、増えるに決まっている。

 このため起きたことが、日本の年金制度が危機に瀕するとことであったのも当然で、かつて、労働者人口が年金人口の10倍近くあったものが、4倍ぐらいまで減少したからである。

 活性酸素は発がんなどの原因ではあるが、発生段階に不可欠なアポトーシスを誘導するためにも必要なだけではなく、免疫システムが有害細菌と戦うための武器でもあるので、活性酸素をゼロにすることはできない。

 もっとも象徴的なことは、女性ホルモンが発がん物質であるということだろうか。

 あらゆる生命は、次世代を作るために生存しているということは、どうやら真実で、生命体としてのもっとも本質的なことのようである。これが生命体の存在理由だと実感するためには、個体の寿命はどうせ有限なのだ、ということを理解する、あるいは、悟ることが必要なのかもしれない。

 このような様々な例を見ると、やはり、小さなリスクはそのまま受け入れる方が、考え方としても正しいのかもしれない。

 さらに進んで、「こんなことを考えることも当然だ」と明言できるほどの広い視野を持つようになれば、これはある種の悟りの状況に到達しているとも言える。

 しかし、難しい。

 このような話をしたときにしばしば受ける反論は、「自分の子供に対する母親としての責任を果たすべく、現時点で、出来る限りのことはしたい。未来がどうなるか、ということは、自分の視野の中にはない」、というものであることが多い。

 しかし、その結果として、直接的ではないかもしれないが、大きなリスクを子ども世代に与えていることがあるとすれば、それを正当化できるとは思えない。やはり広い視野を持つことが、ヒトのように知的な生命体としての責任なのだと思う。

 今だけを考えて責任を取るのは容易であろうが、それは「容易であると同時に安易」であると表現するべきなのかもしれない。

 さらにいささか厳しい見方もありうる。「現時点での自分の責任を果たしたい」と言えば、説得力を持つように思うかもしれないが、よくよく考えれば、むしろ、「自分が責められるのは嫌だ」という自己責任回避の行動をしているだけなのかもしれないのである。

 結果的には、大きな苦しみを自分の子どもと同じ世代の全体に与えてしまうのかもしれない。

 このあたりの価値観は、実に多様であって、これが絶対的に正しいというのは、自己満足に過ぎない可能性が高いのである。

 勿論、ここで述べた私見も多様性の一つにすぎない。


2.4 小さいが根源的なリスク

 例示は、この辺りにして、上記の根源的なリスクの原因、
★地球という天体のもつ特性
★ヒトという生命体のもつ特性
★ヒトと地球との相互作用で発生する特性
★現世代が未来世代に負の影響を与えるというヒトの特性

にどのようなものがあるか、もう少々具体的に検討したい。

(1)★地球という天体のもつ特性

 地球が物理的に有限であるということが、小さなリスクをゼロにできないもっとも根源的な理由である。

 物理的といっても、そのサイズ、その元素構成、その資源、その時間的・空間的不安定性などなど、多様な要素がある。

 まず、その大きさ・量に関してであるが、特に、大気の総量がそれほどではない、ということが重大であるかもしれない。もし、大気が均一であって、地上の1気圧の空気が上空まであったとすると、大体1万mとされている。これを大気の厚さとする。

 地球を地球儀のサイズ、まあ直径30cmとすると、厚めの紙の厚さが、大気の厚さになる。地球の半径は6357km、大気の厚さを10kmとする。直径30cm=300mmの地球儀に換算すると、10km/12700kmが大気の厚さであるので0.25mmぐらいに相当する。写真用の印刷用紙ぐらいの厚みである。

 地球上の二酸化炭素は、炭素換算で、大気中に7500億トン、陸上の有機炭素が土壌中に1兆5000億トン、陸上生物5000億トン、海洋中への溶存二酸化炭素が39兆トン、化石燃料として5〜10兆トン、岩石圏(厚さ30km程度)には0.03%の炭素が含まれていると言うので、極めてラフに言って1000兆トンぐらいある。

 太古の大気組成は、酸素は存在していなかったが、二酸化炭素は現在の1万5千倍であったという。地球は、その当時溶融状態にあったので、炭素はすべて大気中にあったと仮定して計算すると、地球上の炭素の総量は1京トンぐらいになる。

 現在の大気中の炭素量は、地球上の炭素総量の1万分の1以下だということになるので、地球上のほんの僅かな炭素が、二酸化炭素として大気へ移行すれば、その影響が莫大だということになりうる。

 もっとも簡単に大気中に炭素を移行させる方法は、化石燃料を燃やすことである。すべての化石燃料を一気に燃やしたら、大気中の二酸化炭素量は10倍になる。

 気温が上昇すれば、海水中に溶存している二酸化炭素が大気中に放出される。すべてが大気に戻ることは無いが、現在の20倍といった二酸化炭素量になることも有りうる。現時点で、大気中の二酸化炭素濃度はを400ppmとすると、25倍になれば、1%ということになる。二酸化炭素濃度が3〜4%を超すと、頭痛・めまいが起きるというが、直接的な影響が出るには、まだ多少の余裕がある状態かもしれないが、本当のところはよく分からない。その毒性だけからだけでも、そろそろ人類全滅領域に近いとも言えるように思える。

 もちろん、気候変動が起きて、地球上の気候はとんでもないことになっていることだろう。

 地球の気候のゆらぎは、地球以外の天体からもたらされるものの影響が大きいのは事実である。

 そもそも太陽系の惑星であるゆえに、太陽の活動量が多少とも揺らげば、地球上の温度はそれによって変わることは必然である。太陽の活動量の目安となるものが黒点の数であって、通常11年周期で増減している。しかし、このところ、周期がずれ始めているようである。

 2011年まで、オーロラの出現頻度が低かった。オーロラは太陽風の強さによって出現するかどうかが決まるので、地球が決めているということではなく、すべて太陽任せである。活動量が高いときには、オーロラがよく見える。

 したがって、このところ、地球の温度は冷え気味であった。だからといって、今後、冷えるとは限らない。

 10万年周期で、氷河期がやってくることも事実だが、次の氷河期が来るのは8万年以上先のことだと思われる。間氷期の気温は、徐々に徐々に低下することが知られているが、間氷期と氷河期の地球の平均気温の差は、比較的わずかで、7℃前後の違いだと考えられる。

 一方、現在予測されている温室効果ガスの人為的な放出による温度上昇は、2℃はもはや実現不可能、3℃ならまだ可能性が無い訳ではないが、何も対策を取らなければ、4℃上昇という事態になっても不思議ではない。

 太陽以外の他の天体も結構危険である。6500万年前の恐竜の絶滅も、直径10kmの小惑星が地球に落下したため、微細な塵が大気を覆って太陽の光を遮り、気温が急低下したことが原因であるとされている。

 地球自身の地磁気も、そのうち、磁場の反転が起きると考えられている。もしも、そのような事態が起きれば、現在、地球の磁場のために、地表にたどり着かない宇宙線や荷電粒子が、直接地表を叩くことになり、地上の生命に悪い影響を与えそうである。

 以上要するに、地球は、様々な影響を受けやすい脆弱な天体である。特に、地球の大気というものは、地球全体に比べれば、その重量が極めて少ないものであって、人間活動の影響をもろに受ける部分である。すなわち、大気組成は、地球の中でももっとも繊細で、影響を受けやすい部分である。

 その歴史から見て地球が比較的安定したものに思える理由は、自然科学の歴史は高々数100年にすぎないから、この短い間では、安定しているように見えるということに過ぎない。

 現人類の歴史になると、高々20万年とは言っても、2回程度の氷河期を経験している。氷河期には、海面が今よりも120mも低かったとされており、それでも人類は生存し続けた。その理由だが、地球の変化の速度に比べれば、人間の寿命が極めて短いことによって、地球の変化に順応することが不必要なため、なんとか生き永らえることができているという説明するのが良さそうに思える。その意味でも、地球のサイズは、人類の寿命(≒サイズに比例)にとって適当なのかもしれない。

                                        次回に続く