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   リスク・コミュニケーション再考
   03.31.2013
       その1:全体状況の理解



 今年の最初の記事で、自己至上主義について問題点を指摘した。それを打ち破るのが、リスク・コミュニケーションかもしれない。

 そこで、今回は、リスコミについて考える第一回としてみたい。


はじめに

 20ミリシーベルト/年程度以下の低線量被曝のリスクは、ICRPのALARAの原則で対処すべきだった。これが現時点での個人的な感想であるが、結果的に、そうはならなかった。

 過剰反応による不安とそれに対する行政的サービスがもたらした結果であった。

 一方、今年の冬の気象は、極めて変だった。ベトナム・ミヤンマーに出かける前までは、すごく寒い冬だと思っていたが、帰ってきたら、なんと桜が咲いていた。

 このような異常気象は、世界全体で起きている。赤道地域での気温が部分的に上昇してことが地球全体に波及しているからで、ミヤンマーでも、「これまで温度が高いといっても35℃だったものが、40℃にもなってたまらない」、とうのが彼等の感想だった。

 地球全体の気象は、太陽からの熱をもっとも多く受けている赤道付近が決めている、という極めて単純な原理・原則が、広く知られていないため、未だに、「地球が温暖化してなぜ悪い、良いことだってあるだろう」、という理解をしている人が大部分である。

 問題は、「温暖化ではなく、気候変動」である。温度上昇は、気候変動の強度の目安でしかない。寒暖の差が大きくなるのも、気候変動現象の一つで、比較的影響の少ないものである。

 太陽活動がほぼ一定であれば、もはや平均気温の2℃程度の上昇では収まらない。2040年ぐらいから世界全体での温室効果ガスの排出量をゼロにし、それから先は、マイナスエミッション、要するに、なんらかの方法で大気中から二酸化炭素を回収するようなことをしなければならないからである。

 太陽活動が低下気味だから、大丈夫ということにはならない。しばらく太陽活動が低下すれば、その間は確かにOKである。しかし、そのうち太陽活動が復活したら、それまでツケが一気に現れて、大々的な気候変動になるだけである。借金をいくらしても、しばらくは大丈夫という発想と変わらない。実は、返済できない借金を背負うことである。

 現実的には、3℃上昇シナリオを目指すことになると思われるが、その実現はかなり困難かもしれない。なぜならば、石油・天然ガスの埋蔵量がそれほど少なくはないからである。比較的枯渇が近いと言われていた石油ですら、使いやすいものから使ったので、残っているものは使いにくいものが大部分とは言え、現在まで総量の1/5超ぐらいを使ったにすぎない。まだ、4倍近く残っている。

 使いたいものがあるのに、それを使わないで我慢することができるのだろうか。将来世代などのことは考えないで、自分たちのために有限な資源を使ってしまうというのが、人類の普通の考え方であった。

 このような「将来的な生存リスク」と、PM2.5への過剰反応に見られる「現時点の健康リスク」のバランスが悪いと考える。


リスコミの失敗例

 これまでリスク・コミュニケーションは、失敗の連続だった。例を挙げてみる。
(1)「隠したな!」不信型:SPEEDIの件
(2)新規未知型健康リスク:ダイオキシンの件
(3)「古い」健康リスク型:低線量被曝・特に内部被曝
(4)未知型から嫌悪型へ変わった:遺伝子組換え食品
(5)極めて低リスク型だった:BSE


 これらはすべて「現時点健康リスク型」であって、「不安をいかに解消するか」がコミュニケーションの目的であった。

 しかし、これだけでなく、別のタイプが重要になりつつあるが、現時点では、失敗している。
(6)将来生存リスク型:気候変動・生物多様性破壊

 このタイプは、現世代のヒトとして、いかに、次世代のヒトに対して責任を果たすかというものであって、その重要性を理解はできても、実行するとなると非常に難しい。

 これまで、リスク・コミュニケーションというと、不安型への対応だけが考えられてきた。しかし、それだけでは不十分であることは明らかである。


動機・エンドポイントによるリスコミの分類

 リスク・コミュニケーションが対象とする現象をもっと広範囲にとらえて、コミュニケーションが良好に行われない原因を受け手側の動機に求め、それを分類することが第一歩なのかもしれない。

 受け手側の動機としては、「不信」、「不安」、「嫌悪」、「無責任」、「利己性」、「功利性」など様々なものがあるが、大別すると、「正義」に分類されうる動機と、「不正義」に分類されうる動機がある。

 この状況を次の図に示す。


 リスクの帰結であるエンドポイントも、「自己の健康」、「生存権」、「不平等」、「財産被害」、「孫・曾孫の生活基盤」、「国家的危機」、「人類の生存」など様々であり、受け手も多様である。大別すると、「自己」に分類されうるものと、「類縁・子孫」に分類されるもの、そして、「現在・近未来」と「未来」といった分類がある。次図に示す。


 リスク・コミュニケーションが必要なケースを、受け手側の動機別に分類してみると、次の図のようになる。


 このような分類によって、使うべき手法が違うであろう、ということが容易に推測できる。しかし、現時点では、ノウハウの蓄積が充分であるとは思えない。


伝達することの不確実性・不確定性

 さらに、伝達すべき事象の特性も極めて重要である。まずは、リスク・コミュニケーションを分類しようとするならば、「科学的真実度」の高低を考えるべきだ、ということである。これを探るために、1月から「不確実性・不確定性」について様々な記述を行なってきた。

 実現すべきリスク・コミュニケーションの図を次に示す。


 科学的真実が、不確実性・不確定性の雲の後ろに隠れていしまっている場合には、真実があったとしても、それをいくら伝達しようとしても有効とは言えない。

 このような場合には、その知識に付随する不確実性・不確定性を別のジャンルとして伝達されることが必要不可欠である。

 さらに、不確実性・不確定性の議論を進めようとすると、そもそも「科学的”真実”」というものがあるか、ということも問題になる。

 次の図のように、不確実性・不確定性が減少すれば、量は少なくなることは仕方がないことであるが、知識がバランス良く知識が伝達される。

 これが、実現可能な範囲内での理想とすべきリスク・コミュニケーション像ではないか、と考える。


自然科学者の合意というもの

 科学者というものは、科学のすべてを知っているはずはない。それでも、科学者という名称で呼ばれるから不思議である。しかし、科学的”真実”に関する合意については、次のような分類が有効なのではないだろうか。

表:科学者の合意の分類
1)ほぼすべての科学者が同じ考えをもっている事象
2)半分程度の科学者が真実だと考えている事象=有?
3)方法論的に不確定な領域が多いが、今後、改善されると認識されている事象
4)未知の領域が多く、今後とも解明は難しいと認識されている事象

 1)は、高校から大学の教科書に書かれているようなことであって、多くの科学者はそれに反論はしない。

 3),4)のような理解も共有されることが多い。

 問題は2)である。

 2)の科学者の半数が真実だと判断しているというようなものは、実は、存在しない。もちろん、判断を保留する科学者は、予め考慮の対象から取り除く必要がある。

 ところが、メディアなどでは、あらゆる考え方について、それに同意している科学者の数は1:1であるかのごとき報道がなされる。

 ところが、賛否が半ばするような事実というものは、学問上の重要事項であるので、すぐさま追認実験・理論的考察などが行われる。そして、なんらかの結論が得られ、賛同するものと不賛同の数は、1000:1、あるいは、1:1000ぐらいになる。

 すなわち、誰も追認実験などを行う価値がないと判断するような事例だけは、いつまでもマイナーな意見として生き残る。

 ECRRのバズビー博士の理論などがその例である。商業的な分野では、マイナスイオンや、シャープのプラズマクラスターイオンなどがその例である。

 これが実像であるにもかかわらず、メディアによって、あたかも1000:1000の支持を受けている理論であるかのごとき取り扱いがなされる。

 この様子を図に示すと、次のようになる。



不確実性・不確定性が多い事象

 上に述べたような自然科学者がどう合意しているか、といった理解は、文系の学者にとっては、難しいようである。それは、文系の学問対象は、ヒトという生命体、および、その集合である社会であって、もともと本質的に不確実なものだからである。

 「理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性」高橋昌一郎、新書: 280ページ、出版社: 講談社 (2008/6/17)を読めば、ハイゼンベルグの不確定性が、古典的な物理学の世界にも存在していると理解せざるを得ないような記述になっている。自然科学の世界での不確実性と、ヒトや社会の不確実性は全くことなるという記述があったようには思えない。

 ほとんどすべて日常的な現象については、古典的な物理学の確定論的な理解をすることで足りる。非常に大きなシステムであると、小さなゆらぎが全体の不確定性に影響を与えることがあるが、そのようなことを新たに発見できれば、科学的新発見である、といった理解をすれば充分である。

 ヒトのように、数10兆個の細胞からなるものは、これまでの自然科学で厳密に取り扱うことができる対象ではないから、文系の学者は、安心してヒトと社会の不確実性を主張して良いと思う。

 地球システムもそうか。と問われると、これは条件による、と言うしかない。赤祖父俊一氏のように、気候変動予測用のすべてのコンピュータプログラムは「都合のよい結果を出すように躾けられている」というのは論外としても、そもそも巨大かつ連続のものを、細かい均一なピースに分けているので、そこに不確実性が存在してしまう。

 気候変動が進んだとき、日本の周辺で何月何日にどのぐらいの強さの台風発生するか、といったレベルの予測をしようとしても、不確実性が高くて絶対に不可能である。しかし、年間の台風発生数は減るだろうが、個々の台風の強さは増すだろう、といった予測まではある程度言えるだろう。

 「温室効果ガスをいくら放出しても、気候変動は起きない」などということは、個人的な希望として述べることはできても、太陽活動がほぼ一定である、南北の地磁気は反転しない、などという非常にマクロな条件が変わらなければ、あり得ないことである。

 自然科学の不確実性を理解することは、本当に難しいことだと思う。


リスコミと知識量

 最後に、リスク・コミュニケーションは、知識量を増やすことであるので、それについて述べたい。

 市民の持つべき知識には、非常に多様なものがあるので、少しずつであっても、あらゆることを知るということは、まず不可能である。大量の知識を扱うことを専門とする職業であるという場合だけが、例外かもしれない。

 となると、どのぐらいの知識量を伝達すべきか、その目安としては、不安の量に比例させるべきではなく、リスクの大きさに比例する量の知識を持つべきである、というスタンスが良いと思われる。

 ただし、「リスクの大きさ」は、リスクの受け手を決めないと決まらない。当然のことながら、「自己」だけではなく、あらゆる受け手全体を考慮することが理想的である。これを次の図に示す。



 リスクの大きさは、主観的な問題でもある。そこで、それを客観化することが試みられている。

 リスク学者や実務者は、リスクを金銭換算をすることを行う。これは、日本人には受け入れがたいと言われることが多い。「命の価値は無限大だ」という主張が受け入れやすい社会だからである。しかし、現実の問題として、リスクが発現し、なんらかの被害がでれば、経済的に補償をすることが有効な対策であることも事実なので、全く毛嫌いするようなことでもない。

 しかし、リスクとベネフィットを金銭ベースで比較し、ベネフィットが多いからといって、一方的にリスクの受容を強制することは、明らかにやりすぎである。

 なんといっても「納得」がリスク・コミュニケーションの最終キーワードだからである。