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リスクテーブルを公開する真意 06.15.2007 |
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毎日新聞の元村有希子科学環境部記者が、このリスクテーブルの紹介を含むコラムを書いてくれた。それは、米国からの牛肉の輸入条件を緩和する方向性が見えてきたことがきっかけである。
読者からの反応は、賛否二分だったそうである。
このリスクテーブルの評判は、一部のNGOや市民運動家の間では相当に悪い。それだけでなく、先日、科学ジャーナリストの会で講演をしたのだが、そこでも評価はまさに二分されていた。 それでもなぜ、こんなリスクテーブルを公開するのか、についての説明をしたいことと、加えて、増幅係数なるものを導入して、各自ご自分のリスクテーブルをおつくりになるのは如何か、という提案を行いたい。 C先生:リスクテーブルの公開を行う最大の理由は、リスクというものを理解して貰わないと、実は、環境問題というものの本質を認めてもらえないから。これが最大の理由。そもそも環境問題とは、リスクの存在がまさに問題であって、その解決はリスクの削減によってなされる。となると、大きなリスクから順番に削減をしなければ、解決が回り道になってしまう。そのため、リスクの大きさをなんとかして、理解して貰う必要がある。 A君:ただ、リスクといっても、そのリスクに係る事態の帰結は様々。例えば、その帰結が誰に起きるのか。どこか狭い地域に住む人々にのみ起きるのか。それとも日本全体あるいは世界全体の人々が対象なのか。 B君:それはリスクの空間的局在性という話だな。時間的局在性というものもあって、今起きるか、あるいは、未来か。これは大きな問題。 A君:地球温暖化問題を例に考えてみると、温度上昇によってもっとも大きく変わるのは、降水の状況。雨が減る、雨が増える。雪が雨になる。などなど。となると、農業を自営し、ぎりぎりの生活をしている地域の人々がもっとも被害を受けやすい。時間的には、すでに気候変化が始まっているという見方もできるものの、本当の被害は、30年後ぐらいから酷くなるだろうと思われる。 B君:要するに、日本も水害が増えるとか、色々と言われているものの、実際の被害は、アフリカなどの未来世代が受ける。 C先生:未来のことになると、一般に、「割引」ということが行われる。だから、未来は軽視される傾向がある。 A君:利子が付くということの逆ですね。もしも、もしも10%もの利率があるとしたら、1万円のお金は、30年後には17.5万円になっている。ということは、未来の不利益も1/17.5に割り引くのが妥当ということになる。未来の1万円は、現在の570円にしかならないから、という理屈で。 B君:リスクの空間的・時間的局在性の話は、そんなところにして、それよりももっと重要な問題として、リスクの帰結、これをエンドポイントと呼ぶが、単に「死亡」と言っても実は同じではない。 A君:例えば、ヒ素のエンドポイントは、現時点の日本だと、摂取量から考えて発がんだと考えるのが妥当だと思うのですが、多くの場合、皮膚がんが起きることになる。ところが、最近、皮膚がんは死亡率がかなり下がった。それに、皮膚がんは、老人になってから起きることも多い。 B君:ところが、問題になっているBSEは、ヒトにvCJD(変性クロイツフェルトヤコブ病)というものを起こすが、これは、若年時に死亡するのが特徴。普通のCJDは、50歳以下では死亡することはない。 A君:しかも、vCJDが発病したら、死亡が確実。100%。 B君:死亡率が100%というリスクと、かなり治る死亡率とは感じ方が大分違う。 A君:それに、避けられるかどうか、これも大きな要素。その例が交通事故。リスクの大きさは非常に大きいものの、市民は、交通事故は自分の注意によって避けることが可能だと思っている。 B君:交通事故もそうだが、普通は怪我ですむが、もしも怪我がひどいと死亡に至る、というタイプのリスクは容認されやすい。例えば、転落転倒などだが。 C先生:リスクを受け入れるかどうか、様々なケースがあるから、一般的な議論は難しい。だからといって、メディア、もしくは、一部のNGOのようなリスクの定義は問題。 A君:またリスクの定義の話に行きますか。 リスク=事象の危険度 × 曝露 が一般的な定義式。これに脆弱性とか敏感性などを掛けることもある。 リスク=事象の危険度 × 曝露 × 脆弱性 B君:毎回説明しているように、曝露というものは、その事象にどのぐらい遭遇するか、ということで、毒性物質であれば、摂取量。台風のような災害であれば、その進路との距離に反比例するようなものが曝露。 A君:いくら強い台風でも、遠くを通れば怖くない。 B君:これが一般的なリスクだと思うのだが、一部のメディアやNGOは、曝露を無視して、 リスク=事象の危険度 と定義する場合がある。さらに、その事象がどのぐらい「けしからん」かを考慮して、 リスク=事象の危険度 × 不正義 といった尺度で評価されることがある。 A君:例えば、BSEは、事象の危険度は高い。それは、もしもvCJDに罹れば、死亡率は100%だから。そして、米国の検査体制などは杜撰そのもので、けしからん。だから不正義ファクターは大きい。となる。 B君:この定義を採用している場合、その一派を我々はメディア派と呼んでいる。 C先生:曝露というもののデータが、なかなか客観的なものが得られないという難点があるために、安全性を確保するために、曝露=1とするのだ、というのがメディア派の論理構造だ。 A君:不正義によって引き起こされたリスクで死亡するのは、「無念」であると、福岡伸一氏などは述べています。それはそれで正しいのですが、だからといって、曝露を考えないというのは、正しくない。 B君:不正義の追求は、メディアの最大の役割かもしれない。だとすると、メディアにとって、不正義のような要素がリスクの定義に入ることは重要。 C先生:不正義に限らない。一般に、人によって、なにが許せないか、なにが嫌いかということは違う。だから、これらを考慮できるリスク式を提案することも良さそうに思える。一般的名称として、増幅係数と呼ぶことにしよう。 A君:増幅係数は、様々な要因を考慮した心理的な係数であって、不正義などの社会的要因、リスクの性質による違い、など多様な要素を含む係数である。これが定義で良いですか。 B君:まあ、細かく分けないところが一つのミソ。だからそんなもので良いだろう。 リスク=事象の危険性 × 曝露 ×増幅係数
図1 リスクテーブル前半
A君:増幅係数を入力できるエクセル表をダウンロードするには、ここから。 http://www.yasuienv.net/RiskPersonalized.xls C先生:多分問題ないとは思うが、実は、この表は、エクセルで作られたものではない。現在使用中のパソコンがトラぶって、マイクロソフト系のオフィスソフトの大部分が使用不能になった。 A君:マイクソフト以外のソフトは動くのですか。 C先生:オフィスが動かないと商売に差し支えるので、どうしようかと思って、中国製のオフィス互換ソフトであるキングソフトオフィスをインストールしてみたら、なんとこちらは全く問題なく動くのだ。試用も可能なので、こんなことができる。確実に動作するようなので、ワード、エクセル、パワーポイント相当の3本のソフトで、4980円を即刻支払った。 B君:ほとんど似た画面。同じ機能みたいだ。信頼性がまずまずであれば、投資の価値あり。 C先生:オフィスよりもいささか遅いのが難点か。マイクロソフト以外のメーカーは、Windowsの公式のファンクションコールを使ったソフトしか書くことができないが、マイクロソフトは、自分でOSも書いているのだから、そのどこかを直接コールしてプログラムを書くことが可能。それで多少速く動くのだろう。今回、windowsの正式のファンクションコールは壊れていないということのようだ。 A君:ということで、長くなりましたが、このエクセルのファイルは、キングソフトのスプレッドシートで保存した互換物。 B君:使い方は自由だが、増幅係数に適当な値を入れて、そして、最後の直感リスクの列でソーティングをしてリスクの相対比較をしてみて頂きたい。 C先生:さて、諸君達だと、どんな増幅係数を入れるか、教えて欲しい。 A君:まあ、そうですね。やはり自分で避けることができるかどうか、これは大きな要因ですね。それに、「がん」と言われても、これはまさに運みたいなものなので、仕方が無い。自分で恐らく無関係と思うものは、増幅係数が低くなるでしょう。しかし、喫煙など、余計なお世話と言われるでしょうが、自分の注意でなんとでもなるものは、5ぐらいを入れたい。アルコール飲料も同様。職業上の発がん物質は、企業として対策を取るべきだから、10。アメリカの銃も対策を取れば良いのだから、5。それ以下は、すでにかなり絶対値がかなり小さいので、変えてもほとんど換わらないから、増幅係数を入れないことにします。
A君:全く別の考え方でもやってみましょうか。大人としての責任編。子どもの命を重視するというタイプ。まず、途上国の子ども関係ということで、飢餓に10。喫煙は、副流煙で子どもにとって有害なので、10。交通事故も子ども、特に、男の子の犠牲が多い。窒息も赤ちゃんが多い。ディーゼル微粒子もホルムアルデヒドも、子どもに被害が多いと考えべき。これ以下は、やはり絶対値が低すぎる。電磁波もリスクは子どもなのだが、1000倍すると次の表に入ってくるが、やはり1000倍という増幅係数を考えるのは、難しい。
B君:一旦、発症したら絶対に避けられない死は嫌というものをやってみたい。 A君:でも、それっておかしくないか。なぜならば、その表のエンドポイントはすべて死亡なのだから。 B君:治るという希望の無い病気はやはり嫌なものだと思うが。まあ、図4を見てくれ。
A君:100倍を入れても、BSEは最下位から脱出できない。もっとも1000倍にしても駄目だが。 C先生:何に重点を置くか、無念さ、というもので評価をするという方法もあるだろう。すべての要素を考えるという総合型も有りうるだろう。各人に色々と試みていただきたい。 A君:このような試みをやってみると、増幅係数として、10倍ぐらいは入れるのが妥当な場合もあるように思えるのですが、1000倍という数値を入れるのはなかなか難しい。 B君:すべての行に増幅係数を入れると、どこまでのリスクに対策を打つべきか、その境目が難しくなってしまう。 A君:我々が考えている「対策が不必要なリスクのレベル」とは、「ヒトがその生存メカニズムの中に内在させているリスク」。それよりも小さなリスクは、そろそろ考える必要は無い、という判断基準。例えば、女性ホルモンは、ヒトにとって必要不可欠な物質ではあるが、発がん物質である。活性酸素は、最大の発がん物質であって、呼吸をすることによって、発生するが、どうやら、細胞の自然死であるアポトーシスを誘導するために必要らしい。もしも活性酸素が無いと、手と足の指の間に水かきみたいなものが付いたままになってしまう。 B君:といっても、これらの内在リスクの具体的な値が分かっている訳ではない。いずれも、がんの原因だから、それほど低いとは思いにくいのだが。 C先生:どこまでのリスクに対処するか、これは、その国の発展の度合いに大きく左右される。言わば、命の値段が高くなると、小さなリスクに対して対処をするようになる。 A君:日本の場合、1960年は、公害の時代で、リスクなどという考え方は普及していなかった。そのため、水俣病のような公害病が発生してしまった。1960年での一人あたりのGDPは大体5000ドルぐらい。 B君:北京オリンピックが来年。東京オリンピックが1964年。所得も当時と似たような状況。 C先生:発展段階が似ているのはその通りなのだが、どうも中国の場合、経済発展最優先というところが、過去の日本よりも強いように思える。すでに日本などの経験があるのだから、中国だって学習をすることは容易なはずなのだ。 A君:一部NGOの考え方は、日本でもまた水俣のような事件が起きるというものではないですか。開発の歴史は、たしかに可逆的ではあって、日本の経済規模が下がることによって、そうなる可能性も無い訳ではないが、まず、考え難いでしょうね。 B君:しかし、いまだに水俣時代から前進しない環境対応しか考えられない人も居る。 C先生:ある人から貰ったメールだ。 「100パーセントなんて 私は言いませんが 安全を守り 作る責任の大半は行政だと思いますが---- あなた方の研究室先生 学生Aさんの意見を読むと安全リスクを 市民も 覚悟し 悟らないといけないように感じます。 A君:やはり、行政への不信が強い。行政は怠慢で、それを動かすのがメディアだ、という意見。 B君:今は、行政自身が細かい規制をやろうとしている、という理解が無いようだ。 C先生:亜鉛の排出規制が決まったが、その値は、2mg/L。これは、ミネラルウォータの規制値である5mg/Lより低いのだ。すなわち、ミネラルウォータの飲み残しを川に流すと、それは排出規制の違反になる可能性があるということなのだ。 A君:一部の食品安全委員会委員などのBSE対応を正しいものと聞いていると、政府がいかにも国民を犠牲にしそうにも聞こえますからね。 B君:食品安全委員会の委員は、プリオンの専門家ではあっても、リスクの専門家ではない。そのリスクを他のリスクと比較し、検討するという発想法は持っていない。 C先生:話題を変えて、なぜこのリスクテーブルがメディアの一部に嫌われるのか、という話を議論したい。どうしても、BSEが問題のようなのだが、このように極端に低いリスクを記事にするとき、リスクの絶対値は低いということを旨く記事の中に組み込めない。これが根源的問題だと思う。 A君:それは難しいですよね。ヒトの体に内在するリスクよりもかなり低いだろうと思われるリスクを何故減らさなければならないか。実際、内在リスクより10倍低ければ、すでに意味はなく、1000倍低ければ、完全に意味はないでしょうから。 B君:メディアは、政府の怠慢や企業の不正義などを指摘することに意味がある、と考えていると、リスクの大きさを無視することになるが、もしも、リスクの絶対値が知られると、その無視していることがばれてしまう。 C先生:まあ、リスクの絶対値が低すぎることがバレて困るようなら、もともとそれを問題にするのがおかしいのだが。このリスクテーブルに反対するような意見の科学ジャーナリストからは、「多少でも表現の自由が損なわれることは不都合なことだ」、という感じのコメントがあった。これもおかしなことだと思う。科学記者には、「科学的に無意味なことは言えない」という制限が自ずとあるはずだと思うのだ。もともと政治記者や経済記者と、科学記者とは、使命や行動原理が若干違うべきなのではないだろうか。それだけ、科学記者はより多くの勉強をすることが責務なのではないだろうか。 |
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