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  21世紀型リスク感覚   01.11.2009
     



 サブプライムからリーマン破綻が意味するところは、かなり重大である。先進国の発展シナリオが消えうせたからである。

 ある種の転換(急ターン)が必要な状況になっている。どんな方向にターンをするのか。それはこれまでも述べているように、量的拡大を前提としない経済への転換なのだろう。

 これが合意になったときに、初めて本当の21世紀になりそうな気がする。

 しかし、本当の意味での21世紀になるためには、もう一つ重要な転換(ターン)が必要である。それは、何か。リスク感覚である。


C先生:今年は、様々な意味で重要な年だ。米国がオバマ新大統領の就任によって、急ターンを切るのか。そして、日本も政治的にはターンを切ることになるが、それ以外のマインドセットでも転換が行われるのか。

A君:というとどうも景気が戻るかという話のように聞こえますが、まずは、その話をちょっとやって、そして、その後それ以外にも必要不可欠なターンの話に行きますか。

B君:本当の21世紀になるということの謎をもう一度解いておいた方が良くはないか。

C先生:これも何回も言っていることだが、20世紀のイメージを未だに持っているとしたらそれはダメ。20世紀、特に、20世紀後半は人類史上かなり特殊な時代であったということをまず理解すべき。

A君:20世紀後半の量的な拡大は、実際、指数関数的だった。しかし、このような増加は、何が増加する場合でも、持続可能ではない。

B君:21世紀は、まず、人口が減り始める世紀。うまくことが運べばという条件付きではあるが、2050年に人口のピークが来て、それも良く言われる90億人ではなくて、80億人程度であれば、その後の最悪の事態を迎える2070年頃もなんとか乗り切れるのではないか。

C先生:反対に最悪のシナリオというものが、人口の増加が2050年を超しても続いて、世界人口が90億人でほぼ2100年まで行くというものだろう。これは、どこかで、特に、アフリカのある地域で栄養失調による死亡者が急増して、2100年には、その地域の人口がかなり減少するという事態になることだろう。

A君:いずれにしても、21世紀は、人口も減少に向けてターン、資源消費量は恐らく2080年頃に最大になってそれから先は減少方向にターン。

B君:消費が減少方向にターンするのだから、経済の量的拡大は不可能。となると、もしも経済を拡大しようとしたら、実体経済ではダメで、なんらかの別の価値観に基づく経済を築く必要がある。

C先生:20世紀後半の先進国は、そんな狙いをもって実体経済からIT経済へ、そして、金融経済へという転換を試みてきたと言える。しかし、やはりものごとは一直線で行ける範囲は限られている。金融経済が行き過ぎるとどうなるか、それが証明されたのが2008年という年だった。

A君:となると、図1のような感じになるのでしょうか。
 途上国から発展するには、まずは農業で、そして、繊維産業を中心とする軽工業、そして、次が組立産業、そして重工業になって、そろそろそれが限界になると実体経済からの離脱ということになって、IT産業、そして、さらに行けば、金融。この一直線ではダメで、どこからか回帰をしなければ。



図1:経済発展のステップ

B君:米国の場合だって、ボーイングとかGEのような航空機産業といった高度な工業があり、ドイツには、高級な自動車産業がある。

C先生:フランス、イタリアだとファッション産業という付加価値の大きな産業もある。

A君:日本はアニメ産業。

B君:一眼デジカメ産業は、どうも、回帰を果たした先のような気もする。

A君:ということは、趣味性の高い産業を指向するということなのでしょうか。

B君:趣味も一つ。趣味のためなら、考えられないような出費をしてしまうこともある。1台100万円のカメラとか、オーディオとか、望遠鏡とか。

C先生:ワインだって、ウイスキーだってそうだとも言える。日本なら日本酒、焼酎。フランス料理だって、似たようなもの。

A君:これが一つの方向であることは、まあ、間違いはない。

B君:デジカメもやはり中国が設計したと言われたら買いたくは無い。

C先生:大分、無駄話をやっているが、本日の本題はこれではない。経済がどうのこうのではなくて、本当の意味で地球との整合性の高い持続可能な人間社会を実現しようとしたら、「リスクをゼロにすべきというリスク観は非持続可能型」、ということ。

A君:それは毎回主張していること。

B君:リスクゼロは、実のところ経済至上主義によって後押しをされてきた。まず、消費者に思いこみを作って、それで市場を開拓する、というやり方。

A君:遺伝子組換え食品は食べると体に悪い。どこにもそんな証拠はない。しかし、非組み換え食品で売り込む。

B君:環境に悪影響を与えるというグリーンピースなどの主張も、いまだ証明されてはいない。

C先生:消費者に思い込みを作ることは、メディアの悪しき影響だと言える。しかも、問題は、そのような「庶民感覚」が最近のメディアがもっとも大切にする対象になっていることなのだ。
 今回、同じようなテーマで、またまた日経エコロミーに原稿を書いている。14日ぐらいに掲載予定。
 本物は、日経エコロミーのコラムを参照していただきたい。
 その原稿だが、現毎日新聞の記者である、小島正美氏の著書、
”誤解だらけの「危ない話」”、エネルギーフォーラム、2008年9月、ISBN978-4-88555-352-3
を推薦する記事なのだが、以下、その一部を引用する。


記者は庶民感覚を大切にしている

 記事の内容は、一般市民側が決める、というのが本書の一つの結論である。

 どうやら、「消費者が不安なら有害だ」というのが、記者共通の庶民感覚のようである。

 所属する新聞社によって、その庶民感覚は多少違うようである。そして、庶民感覚の例としては、以下のようなものを挙げることができるだろう。

庶民感覚の例
*原子力発電は危ない
*食品添加物は危ない
*残留農薬は危ない
*中国産食品は危ない
*残留抗生物質は危ない
*遺伝子組換え食品は危ない
*化学調味料は危ない
*トランス脂肪酸は危ない
*化粧品中の天然物以外の物質は危ない
*電磁波は危ない
*IH調理器は危ない
*だからオール電化は危ない
*ダイオキシンは危ない
*環境ホルモンは危ない
*カドミウムは危ない
*水銀は危ない
*BSEは危ない
*硝酸塩は危ない

 筆者の個人的見解であるが、これらの庶民感覚の中で、現時点で行われている以上のリスク対応をしなければならないものは、ほぼ無いと断言してよいと言える。勿論、100%確実な話はこの世の中に存在しないのだが。


A君:エコロッミーの原稿に出ていないことを若干追加しましょうか。
 まず、「原子力発電は危ない」ですが、もちろん、100%安全なものなどは無いですから、どのぐらい安全か、という話に過ぎないのですが、中越沖地震で被災した刈羽の原発について、国際原子力機関(IAEA)は次のように評価しています。
「地震の発生時に稼働していた4基の炉は安全に自動停止し、止める、冷やす、放射能を閉じ込める、という基本的な機能を果たした」。

B君:本来、想定以上の地震が来ることだって、相手が自然なのだし、その建設時の最善の知識で断層を探っているのに過ぎないので、まあ、あっても仕方が無いことなのだ。それが人間という生き物の限界だとも言える。というマインドを持てば、メディアだって、きちんと停止したことを評価すべきなのだ。

C先生:それがそうはいかない。メディアはある特性をもっていて、そんな記事は書けないのだ。
 その部分に関して、日経エコロミーに書いた記事の一部を引用する。


メディアの特性

 メディアがニュース性のある報道を好むこと、これは、当然であって、特に非難に値することではない。したがって、報道には常にバイアスがかかっている。そこで受け取る方が、それなりの逆バイアスを掛けて、ニュースの真相を解き明かすという対応をする必要がある。

 これは読者にとって重要な対応策であるが、そのような逆バイアスをどのような方向に掛けることで真相に迫ることが可能なのか、という問いに答えるのはなかなか難しい。

 しかしいくつかのメディアの特性を理解することは有効かもしれない。

 どうやら次の3つにまとめることができそうである。
*センセーショナル=危険好きで平穏嫌い=マスメディアにとっては、エビデンスが低い話ほど面白い
*メディアの正義観=個別被害や情報隠しを重視
*読者が期待する記事を書く傾向が強い

 センセーショナルであることを求めることも、これはメディアが商売である以上、仕方が無いことなのだろう。

 中国産ギョーザ事件以後、多くの週刊誌は、地下鉄のつり広告などでしか見ていないのだが、中国産の食材を食べているとそれこそ死亡してしまうのではないか、と思われるような記事を掲載したようだ。

 しかし、現実の中国産の食品は、日本の商社などによって比較的よく制御されていて、中国産の食品が食品衛生法違反になる率は、米国産、欧米産の食品に比べれも高くない。中国産が0.09%、米国産が0.12%だとのこと。要するに、米国産よりも安全かもしれないのである。

 中国産ギョーザ事件が日本社会に悪い印象を残したのは、やはり自らが責任を認めない国だというぼんやりとした感触を、強化するような対応があったからだと思う。

 メディアはやはり自らを正義だと思わなければやっていけない商売だろう。となると、なんらかの記事を書いて、自分が「良いことをした」と思えることが一つの重要な要素である。

 そのため、個別の被害者の救済につながる記事には、あるいは、情報隠しをしていた悪い機関を暴くとかいった記事にも、正義感に類似したメンタリティーがどこかにあると思いながら記事を読むべきなのだろう。

 個別の被害者といっても、必ずしも人間だけではない。温暖化の場合だと、ツバルの住民だけでなく、北極のシロクマも被害者になりうる。要するに、読者のセンチメンタリズムをくすぐることも、記者にとっては有用な手法だということになるだろう。

 最後に「読者の期待に沿った記事」という指摘がきわめて重要である。小島氏は、日本農業新聞は、常に、米国産の牛肉は危ないと書かざるを得ないのだ、という説得力のある説明をしている。

 加えて、小島氏は「朝日新聞の読者は、危ない記事を期待している傾向が強い。特に、「ダイオキシンが危ない」と書かれることを期待しているし、「組み換え作物のマイナス面」も期待している」、と非常に思いきった記述をしているのが面白かった。


A君:これまで「公務員は無謬」とされてきたのが、最近は消滅した。今は、「メディアは無謬」がどうやら一般的。

B君:そんなことは無い。メディアだって間違う。書いているのは人なのだから。人に過ちはつきもの。

C先生:その部分についても小島氏の本は記述をしている。
 そこに関する日経エコロミーに書いた記事の記述を引用したい。


誤報への対策はあるのか

 例えば、日本経済新聞は2006年6月に「デトックスの基礎」という記事を書いた。そこで、『毒素』の医学的な定義は、有害な重金属や化学物質のことで、具体的には、水銀、カドミウム、鉛、アルミニウム、ヒ素が五大有害重金属と呼ばれる」と記述した。

 「アルミニウムと健康連絡協議会」は、「毒性をほとんど示さないアルミニウムを、水銀やカドミウムなどと同列に扱うのは、結果的に間違った情報を読者に与え、社会に無用な不安と誤解を与えるものだ」との見解をまとめ、日本経済新聞社に訂正を求めた。

 しかし、日本経済新聞社は、次のように反論した。「アルミニウムを懸念する見方が幅広く存在する。100%無害であるという証明はないことから、訂正はできない。ただし、アルミニウムと健康連絡協議会の見解も理解できるので、後日、アルミニウムを取り上げる際、協議会の見解も考慮する」。

 その後、日本経済新聞社は、五大有害元素の出所の根拠として、「デトックス関連分野で一定の権威をもつA医師の認識だ」という見解を送ってきたという。

 要するに、メディアが何か危ないと思っても、それだけでは記事にはならないのだが、それを発言主張してくれる「専門家」がいると、記事になってしまう。

 100人の専門家がいて、99人が安全だと主張しても、1人が危ないと言えば、マスメディアはまずその1人の主張を取り上げるのが本性だと思われる。

 しかし、日本経済新聞の説明でもっとも問題なのは、「100%無害であるという証明はないことから、訂正はできない」、という部分である。

 100%無害なものなど、この世の中に何も存在しない、ということを常識としなければならないのに、100%無害なものが存在するかのごとき理解をしていること、それが最大の問題である。

 小島氏は、次のような例も指摘している。ダイオキシンの研究者が、「いま影響が見えないからといって、無害とは言えない」という言い方をすることがある。これも論理は同じだ。「いつ影響がでるか、だれも予測がつかないから、現時点では無害と言えない」という理屈が通れば、世の中に安全なものは何一つない」。

A君:このダイオキシンの研究者の発言批判は、極めて正しいですね。

B君:この小島氏の本が余り売れていないようなだが、それも関連する事業者、研究者、などにとっては、痛いところをズバリと突かれたからかもしれない。

C先生:突然話題がずれるが、さる学生が遠山氏との議論について、遠山氏の論理の方が正しいのではないか、というメールを最近送ってきたが、そう言っては悪いが、その学生は何を根拠にそんなことを言えるのだろうか。

A君:それは庶民感覚でしょうよ。

B君:まあ、何をどう研究すべきかなどという話題に対して、全く無知だとも言える。

C先生:余り長く書いても仕方が無いので、最終的には、個人がどのような見識を持つか、それが重要だと主張して終わりたい。
 自分のリスクに関する見解がどのようなものかを判断するリトマス試験紙のようなものを用意しようと思って、それを最後のまとめにした。


個人の見識が重要

 このような特性を持つメディアから正しい情報を得るには、やはり、最終的には、個人が見識をしっかり持つことだろう。

 その見識であるが、以下のリストのような記述に対して、あまり違和感がなければ、まずまずの見識を持っていると言えるのではないだろうか。このリストはリスクに対する見識のリトマス紙とでも言えるだろうか。

*リスクをゼロにはできない
*しかしリスクには安全圏がある
*もしも安全圏を超えているようなリスクが見つかって対策が出せれば、それは関係省庁にとって大手柄である
*食品というものは、それ自身にリスクがある
*例えば、植物の葉は一般に食べられないが、比較的毒性の低い植物を野菜と呼んでいる
*食品の最大のリスクは、感染症である
*食品添加物の特性情報はよく分かっているので、健康被害のでない使い方が行われている


C先生:そして、最後に、個人的にもっとも重要であると考えていることを書いて終わりとしたい。

21世紀型リスク感覚

 身の回りのリスクは、日本のような先進国では、ほぼ安全圏に入っている。しかし、ときに、意図的、非意図的に、妙なことが起きるのは人間社会の常である。加えて、天災のように避けることのできない事態が原因で、何か危険な事態も発生する。そのようなとき、最後に頼りになるのは、個人のモノに対する理解力、観察力しかない。

 ところが、地球全体でみると、気候変動をはじめとして、資源的限界、食糧供給限界など、リスクが高まりつつある。そのような地球レベルのリスクに十分に注意を払って対応しないと、日本は、国全体として、大きなリスクに遭遇することになる。

 それには、まず、日本国内の身近なリスクは安全圏にあることを認識し、注意をむしろ地球レベルのリスクに向ける必要がある。

 身の回りに、あまりにも安全な社会を作り上げると、人間のリスク検知能力は失われる傾向がある。そして、被害はかえって増大する。現在の日本の状況はすでにそのレベルに入っている。身近なリスクと地球レベルのリスクの理解力、そのいずれにもいささか不安がある。

 2008年の金融破たんは20世紀文明の最後の形を示すものだった。その意味で、2009年からやっと21世紀「経済文明」が始まるように思える。

 2009年の日本で、リスクの理解に関して、上述のような方向性が共通理解になれば、21世紀型「リスク文明」がやっと始まったと言えることになるだろう。