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  環境科学会にて 09.16.2007
     



 学会賞をいただけるということになったので、社団法人環境科学会の年会に出席するために、長崎まででかけた。
 環境科学会は、もともと文部省(当時)の大規模環境研究であった環境科学特別研究(1977〜1987)とその後の2つの重点領域研究(1987〜1993、1993〜1998)の人脈によって作られた学会である。
 この学会には、それこそ、医学系から教育系、法学、経済学、農学、理学、工学、といったあらゆる研究者が所属しており、現時点における環境科学の動向を判断するには極めて適した場である。
 学会の運営の実行部隊は、長崎大学環境科学部の諸先生方であった。長崎大学のこの学部は、教養部の再編によってできた学部なので、それこそ、あらゆる専門をもった教授連が居られる。しかし、環境科学会のメンバーは少ないようだった。

C先生:20世紀の環境科学は、といってもそう古いことではないのだが、その最後を飾ったのが環境ホルモン、ダイオキシンといった「猛毒物質」だった。今にして思えば、世紀末というものは、猛毒物質によって人類が滅亡するという発想にとらわれるものなのだろうか。
 それが21世紀になって、そして、すでに7年目になって、この学会では、環境ホルモンやダイオキシンを扱う研究は皆無。しばらく問題にした多摩市の廃プラ中間処理による未知のリスクのような研究も、この学会では皆無。
 そして、先を見通すタイプの研究、人々のメンタリティーをどのようにして、地球環境に適合したものにするのか、という研究、などといった新しいタイプの研究が出てきている。これが総論的結論。

A君:地球温暖化研究も少ないようですが。

C先生:地球温暖化研究は、古くからじっくりと行ってきている少数の研究者を除けば、やはり、京都議定書ができた1997年以降に人数が急に増えたという感じ。それまでの気象学者が地球環境学者になった。当然のことながら、その直接的原因は化石燃料なので、エネルギー学者も地球環境学者になった。森林量などの問題があるから、それまでのリモートセンシング学者も地球環境学者になった。こんな感じなので、環境科学会の基盤となった文部省の研究チームには、地球温暖化関係者はそれほど多くは無い。しかも、シミュレーションのような直接的に温暖化を取り扱う学者は居ない。

B君:地球温暖化という問題は、それこそ人間活動のすべてを包含する問題だから、専門がなんであれ、この問題を取り扱うと言えば、すべての学者は環境学者になりうる

A君:確かに。環境哲学などといった分野を作って、地球温暖化を議論することも可能。

B君:事実、環境××学会というものが実に大量に発生した。

C先生:これが日本というところの面白いところで、あるグループの中にサブグループというか、さらに小さなグループを作るという考えをもってそれを実行する人々は極めて多い。ところが、ひとたび、そのようなグループができたとしても、知識や考え方を共有しなければならないグループが大同団結して、一つの大きなグループを作ることは、まず絶対といってよいほど行われないのだ。

A君:環境関係の学会は数は多いが、それが統合団結して大きな学会になるというメンタリティーは無い

C先生:もともと大同団結してできたような環境科学会だけど、会員数は減少傾向。もっともどの学会もそうなのだけど。残っている会員は、自らの論文を発表する場が必要であるか、昔ながらの人脈を大切に思う人々。となると、この学会の将来はなかなか難しい。

A君:環境科学のように、いつでも総合的総括的アプローチが必要な分野では、こんな学会の存在が必要不可欠なのではないでしょうか。

C先生:その通り。学際領域と言われる分野の学問は、人と人とのつながりが無いと進展しない。Interdisciplinary という言葉だが、この言葉は、なかなか含蓄が深いのだ。例えば、A領域の専門家AさんとB領域の専門家Bさんがいたとして、AさんとBさんが同じ場に存在していたとしても、A領域とB領域の中間に存在するはずの学際領域は、決して発展することは無い。もしも、単に同じ場に存在しているだけで十分であるのなら、長崎大学の環境科学部のような場では、多くの学際領域がどんどんと芽を出してくるはずなのだ。

B君:まあ、専門が違うと、言葉が違う、発想の原点が違う、発想法が違うと議論の仕方が違う。だから、同じ場に共存していても、何も起きない。むしろ、お互いの領域を侵犯するぐらいの気がお互いにないと。

A君:しかし、学際領域というものが育たないのは、必要が無いからだとも言えますよね。

C先生:その通り。学際領域であれば、なんでも良いというものではない。しかし、必要がないと学問ができないというものでもない。大体、歴史的に見ると学問の大部分は、不必要なものだった。単に面白いから、興味深いからという理由で進展してきたものだった。学問が産業に有用である、などという発想は、学側から言えば、そんなに重視すべき考え方ではない。ところが、最近の日本のように金が無い国では、発想が貧困になって、学問だろうが、なんだろうが、役に立たないと評価しないという風潮になっている。

A君:最近、大学の評価だとか、プロジェクトの評価だとか、評価ばかり。

B君:評価疲れという言葉がしばしば聴かれるようになった。評価を受けるための時間が取られて、自らの発想に基づいた作業をしている時間が無い。評価をやればやるほど、貧困な発想のみが残る。

C先生:評価をやる方も大変。評価の方法論は、もっと割り切りをもって作り上げるべきなのだが、最近の大臣のカネの問題のように、なんだか、やたらと細かいのだ。そもそも研究の評価なども、できると思うのは思い上がり。

A君:ある時点で、研究を立案し、それで予算を獲得。その研究提案書の通りに実施して、それで予想通りの結果が出た。普通なら、このような状況が良い評価を受ける。しかし、研究とは創造的な活動で、業務的な作業とは違うのだから、こんな単純なプロセスで進歩が行われるとは思えない。

B君:提案書の通りにやってみたら、その通りに行きそうだということが分かったが、それ以外に思いもよらない発見があって、そちらに力を割いたために、当初の提案書に書いた結果の確認は、十分に行わなかった。こんな報告書を書いたら、評価としては最悪になりそうだ。しかし、本当は、この方が進歩していると言える。

C先生:最近の研究の評価は、ほぼ一つの尺度しかない。まずは、インパクトファクターの高い雑誌に論文を載せる。最終的にNatureとかScienceとかいった雑誌に発表して、最後のゴールはノーベル賞。これは、医学のように比較的単純な目的の学問の場合には、成立しやすいパターン。

A君:すべてがこのパターンで評価されるとは思えない。しかし、他に適当な方法が無い。

B君:研究者にとって、これががんばり方が分かっている唯一の方法だから普及している、という意味が大きいのでは。

C先生:確かにそうだと思う。しかし、学者にとって本当に名誉なことは何か、と問われれば、上記のパターンも当然名誉なのだが、それ以上のものがある、と答えたい。それは、その学者が現役の間は、その研究の内容を誰も理解できなかったが、その学者が引退して20年ぐらい経過したとき、その研究内容が突然注目を集め、「余りにも先進的だったもので、その当時誰も理解ができなかった」、という評価を得ること

A君:そんなことは目指してもできない。誰にもできない。しかし、あっても良さそう。

B君:大学人の評価をたった一つのパターンで評価するということは、とにかく不可能。過去の例を見ても、ノーベル賞を到達点とするパターンでよい後継者が育つということは無いように思える。恐らく、そのパターンは人力消耗型なので、弟子達の活力もすべて一人のリーダーの名前の元に消費しつくされる。だから、抜け殻のような人材のみが輩出される。

C先生:もともと、他の人とは違うことをやりたいということが、学者がもつべきメンタリティーの真髄。となると、強大なリーダーに付いて学ぶと、どうしても「真似をすること」、「命じられたことをやること」になりがち。これが大きい。だから、良い評価を受けたいと思った途端に、あるパターンに自分を当てはめる必要があり、そして、結果的にある部分を失う。

A君:誰にも評価できない。そんな自分になりたい。という言い方も格好は良いのですが、それを言い訳にしてサボるというパターンが多いのでは。

B君:その通りだろう。しかし、サボっているかどうか。これも尺度が難しい。一生懸命やっているかどうか、これも測定不能。だけど、自分自身の言い訳に独自の尺度をもっている主張する人は居る。

C先生:よく言われることだが、何かコトを進めようとするのなら、「忙しい人に頼め」。忙しすぎてコトが進まない可能性があるが、暇な人に頼むよりは、それでも確実にコトが進む。暇な人は、言い訳はするがコトを進めない。

A君:というと、「彼・彼女は暇か」。これがその人の評価基準として共通のものになる。

B君:自分自身の評価ではなくて、「何か他人にコトを頼まれるために忙しい」、「他人からの依頼をよく引き受ける」、これが、学者の共通の評価基準として使うべきだというのが結論か。

A君:さきほどでてきた、上記のパターンにしたがってコトを進めている人々は、「他人からの依頼を余り引き受けない」ような気がする。

C先生:しかし、ある程度以上のレベルになると、そうとも言えない。まあ、「他人から良く依頼を受けることがあり、それを受ける」。これは一つの尺度として、結構有効なのではないか。思えば、学者に対してだけでなくて、恐らくすべての人々の評価に使える尺度のように思える。

A君:事務職員などには、もっと有効な評価かもしれない。

B君:その通りだ。

C先生:それはそれとして、長崎大学で、環境科学会から学会賞をいただき、そこで受賞講演というものをやらせていただいた。その内容について、若干の説明をしたい。

A君:テーマは、「鳥瞰型環境学とは何か。その目指すべきもの」のようなことだったようですね。

B君:「UNUサマースクール」のコース名も鳥瞰型環境学。

C先生:まず、大前提となることが、これ。「環境学の究極の目的とは、ヒトおよびその他の生命に関わるリスクを削減するのに必要な科学的アプローチの総体を言う」

A君:それには、様々な異なる起源のリスクの大小を見極め、大きなリスクから対策を考えなければならない。

C先生:とりあえず、単純化するために、生態系へのリスクは、議論の対象としないことにする。すなわち、ヒトへのリスクについてのみ考える。ところが、ヒトといっても、個々人と種としてのヒトと、最低限2種類の異なった対象が存在していると言わざるを得ない。

B君:個々人への被害は、過去、公害病、アスベスト、最近でも神栖町のヒ素などといった原因で、すなわち、局在化したハザードのが原因だった。その時点では、それぞれの地域でリスクはかなり高いものだったと言える。

C先生:その通りで、個々人へのリスクは、地域、年代などによって大きく変わる。安全な地域は安全だったし、年代も近年になるにしたがって、大きな傾向としては、リスクは低下傾向にあった。神栖町は例外的なケースだったと言える。

A君:もっと一般的な地域でも、土壌汚染などはいくらでもあるのは事実。東京の下町のように、町工場から大工場が多く存在していた場所では、土壌汚染の無い場所など無い

C先生:東京の土壌汚染に関して、区レベルからの情報伝達が不完全でリスクコミュニケーションがなっていない、という問い合わせがあった。

B君:それはそうなることが多いでしょう。土壌汚染防止法は、地目、すなわち、土地の用途が変わらない限り、土壌汚染を除去する必要はないとしている。なぜか。それは、土壌汚染による最大のリスクは地下水の汚染を通して、個々人にリスクが生じるケース。地下水の汚染が無ければ、リスクはほとんど有り得ない。幼稚園や小学校の校庭などのように、土が露出している場合には、多少のリスクが無いとは言えないが、舗装されていたり、すでに建物の下にあるような土壌汚染の場合だと、いくら汚染があっても、個々人の健康に影響が出るという曝露過程を見出せない。

C先生:と言うわけで、話を戻すが、個々人へのリスクは、地域、年代によって大きく変わるが、最近では、環境問題からの個々人へのリスクは大きく減少した

A君:それは事実なのですが、一部市民運動家にとっては、認めがたいことのようです。

C先生:しかも、個々人のリスクというものを考えるとき、実際には、個々人には寿命があるということの意味をもっと真剣に考えなければならない。言い換えれば、個々人のリスクのエンドポイントは、寿命の短縮なのだが、もともと、寿命には限界があるということだ。子どものリスクを最大限考慮する必要はあるが、だからといって、リスクをゼロにする必要はない。100万分の1から10万分の1の範囲内で制御することで十分。ゼロリスクは常に過大要求なのだ。

A君:確かに、個々人には寿命があるということがしばしば忘れられ、ゼロリスクを求めるのが、最近の傾向ですね。やはり寿命が長くなりすぎたのでしょうか。

B君:エンドポイントという言葉が出たが、これは、リスクの影響が究極的にどこに現れるかを示す言葉。エンドポイントが寿命の短縮であるということは、個々人に大きなリスクがあると、それは、寿命が短縮することを意味する。ただし、専門用語としては、損失余命が大きくなるという。

A君:子どもへのリスクを重視するということは、余命が長いから。

C先生:最近リスクは減少した。しかし、もしもリスクが10万分の1を超すような状況があれば、それは良くない。だから、リスクを常に定量的に把握することは必要不可欠。

A君:同時に、最近では、リスクを定量的に見ることも難しくなっている。なぜなら、すでにかなりのリスクが10万分の1のレベルに近いので。

C先生:さて、個々人のリスクに相対するものとして、集団としてのヒトのリスクがある。これは人類の長期生存の不能がエンドポイント
 これには、個々人の寿命が短くなるというケースもありうるが、多くの場合、もっと直接的な影響があって、寿命に変化が出る。直接的な影響としては、食糧、大気、水、エネルギー、材料などの供給不足が大きく、供給不足は同時に質の劣化を伴うことも多い。
 集団としてのヒトのリスクは、このような物質の流れが順調に推移するかどうか、といった解析を行って判断をする必要がある。
 このような手法としては、ライフサイクルアセスメント(LCA)やマテリアルフロー分析、食糧供給状況解析、土地利用変化、などのような研究手法によって、明らかにされる。
 集団としてのヒトのリスクも、個々人の損失余命の増大と並列させて、両方の重さを見るといった見方が重要で、それには、見る立ち位置をかなり高いところに持っている必要がある。
 すなわち、鳥の目で物事を見ることが必要である。

A君:しかし、それはかなり難しい。個々人の寿命に関わるリスクと、物質の供給リスクのようなものを両方見ることができる人材はほとんど居ない。

B君:ここで、今回のHPの結論が見えてくる訳だ。

C先生:まあ、そういうこと。現時点では、個々人のリスクは、損失余命のようなもので比較するということが可能だが、集団としてのヒト、すなわち、人類の長期生存のリスクは、まだまだ何で比較するのか、その指標化すらできそうもない。LCAの分野では、総合指標化をコンジョイントなどの方法を使ってやる動きもあるが、これは、そのアンケートに答えた人々の直感的なリスク観の反映でしかなくて、その答えた人々の知識量や良識という名の常識によって決定的されるために、ほとんど意味がない。政治で言えば、ポピュリズムの世界。すなわち、リスクの人気・不人気評価にしかならない。
 そのためには、LCA・マテリアルフロー・食糧問題・土地利用・コンパクトシティーなどをやる人々は、もっともっと医学関係の発表もあるような場で、その種の専門家と議論をする必要がある。そのような学会としては、環境科学会ぐらいしかない。

A君:自己宣伝でした。

B君:環境科学会の前会長からのコメントでした。

C先生:学会賞を貰ったから、そのぐらいの貢献はしないと。
 罪滅ぼしのために、何枚か写真でも掲載しよう。長崎から桜島に陸路で行った。桜島に行ったは、K−RIPという機関が主催しているクラスター大学が久しぶりに開催されたので、そこで締めくくりの講義を行うため。




 写真1:長崎稲佐山からの夜景




 写真2:九州新幹線の新水俣駅。ひと気がなくて、さびしい駅だった。




 写真3:桜島の夕焼けを東方向に望む。夕陽は逆の西方向、鹿児島市の方向に沈んだ。