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  科学的知識がなぜ伝わらないか 04.11.2004



 小学校の5年生の算数に「台形の面積算出の公式」が復活するとのこと。先日、テレビを見ていたら、何人かに「知っていますか」的なインタビューを行っていた。知っている人は、答えた後に「自慢げ」であり、忘れてしまった人は、なんやかんや「言い訳」をしていた。

 本日の話題は、その「言い訳」の話。ちょっとしたナゾのような話だが、実は、科学知識が日本社会で正しく伝わらない理由はなにか、である。

 この記事を書く前提として、「今月の環境」の4月2日、4月3日の回転ドアに関する記述があるので、そちらを先にお読みいただければ幸いである。http://www.ne.jp/asahi/ecodb/yasui/@Week0404.htm


C先生:この問題は、具体的な観点から検討する必要があるだろう。例えば、最近だと、回転ドアのリスク話、もはや古臭い話になるがマイナスイオンの話、除菌イオンの話、さらには、石鹸の話から始まって、ダイオキシンの話、リサイクルしては行けないという主張など、いずれも、科学的情報が欠落した話は社会に広まるにもかかわらず、本当の科学的知識はなかなか広まらない。これまでも多少議論してきたが、今回、再度挑戦してみたい。

A君:となると、もっと一般的なところからの議論でしょうか。

B君:日本社会が科学音痴であるということは、諸外国に比較しても事実で、これも何べんも出てくる話なのだが、先進国の中でも、最下位に近い。図1にOECD諸国間の比較を示そう。

図1 日本で以下の質問が非常に良く分かっている割合は、ほんの2〜3%。

A君:ポルトガルがかろうじて同じぐらいで、他の国は科学的常識が日本よりもかなり上であることになっていますね。特に、非常に良く分かっている人の割合の違いが大きい。

C先生:これは教育の問題なのか、それとも、社会的システム全体としての問題なのか。

A君:もちろん教育の問題でもあって、単に知識として科学を教えるのでは駄目だということではないですか。「覚える対象」として科学を見るのでは、実は、ほとんど役に立たない知識を学んでいることになるのでは。

B君:科学を勉強する理由は、「知識を覚えることだ」、と思って教育が行われている。しかし、本当の目的は恐らく違う。本当の目的は、「正しい筋道でものごとを考えることの合理性と美しさを実感させること」にあるのだと思うが。

A君:ただですねえ、本来の目的は違ったとしても、その正しい筋道が見えるようになるには、ある程度の知識の詰め込みは不可避なのだと思います。算数にしても、やはり計算がある程度できることが大前提。理科的事項の理解にも、ある程度の知識が頭に整理されて入っていることが大前提。

C先生:そこがまず第一のバリアーになりそうだ。最小限の知識が無いと、やはりどうにも使い物にならないのだが、その最小限の知識をどのようにして頭に詰め込むか。これが実に、第一にクリアーすべき最大の問題だ。そして、そもそも最小限の知識とは何なのか。このあたりの整理が不十分なもので、「ここまでは我慢して、鵜呑みでよいから頭に入れてください」、といったアプローチができない。

A君:環境関係の知識とは何か、と言われれば、実は無限であり無尽蔵。大体「地球と人間」に関わること全てでして、これは、全科学の全知識ということを意味しますから。しかし、環境に対してある程度の総合的な判断をするには、別段すべての知識が必要という訳ではない。しかし、どこまであれば良いのか、ということが検討されていない。

B君:その議論をするにあたって、どうも目的というものが決まると、必要な知識量というものも決まるような気もする。

A君:ある現象を理解すること、という目的を決めて、一般社会の人々が、最低限、その現象を理解しなければならないとしたら、何が必要か。という議論をせよ、ということですかね。

B君:そんな感じ。

A君:しかし、自分で言い出して反論するのも変ですが、それは無理なのでは。なぜならば、ある現象というものは種類が無限だし、となると、検討を無限に継続する必要があることになってしまう。

B君:厳密に言えば勿論そうなのだが、最近、話題になっているある現象というものを例えば歴史的に羅列し、そして整理してみれば、実際には、スペクトルはそんなにも広がりは無くて、なんとか整理ができてしまうものなのではないだろうか。

C先生:そんな気がするね。典型的な問題というものをいくつか選択すると、それで終わるのではないか。例えばだが、「食料の安全性と健康に関わる問題」、「日常的な事故に関わる問題、健康増進に役立つ機器」、「環境にやさしい行動」、などだろうか。
 それに加えて、いわゆる環境誤解学派である、「ダイオキシン猛毒派」、「環境ホルモンで人類滅亡派」、「毒物で市民恐喝派」、「有機野菜で健康派」、「健康で150歳まで生きよう派」、「無害環境追求派」、「無菌、抗菌絶対奨励派」、「発がん物質完全排除派」、「放射線は絶対に害だ派」、「人間の感受性はそんなものではない派」、「マイナスイオン信奉派」、「石鹸万能・中性洗剤排除派」、「ゼロリスク探求派」、「企業性悪説全面肯定派」、「無条件ドイツ信奉派」、「スウェーデン無害化社会万歳派」、「環境魔女と環境天使の環境企業派」、「日本にもRoHSが必要という企業派」、「塩ビ無条件排除派」、「リサイクル万能派」、「リサイクルしてはいけない派」などについて検討すれば、まあまあのところがカバーできるのではないか。

A君:その環境誤解学派は、先日の広告ページからの流用ではないですか。

C先生:まあ、それはそれとして、具体的な検討に入ろう。まず、例題として何をやるか。

A君:「食物」に関しては、すでに何回かやっていますね。その他の話題についても、相当考えてきていますが、物理的なリスクの代表例である「回転ドア」については、やったことが無い。

B君:我々の専門とはいささか違うが、何が基本的な知識かということについては、なんとか議論ぐらいはできるだろう。

C先生:それでは「回転ドア」、それに、同じ力学系ということで、「衝突」のリスクに決定して物理的なリスクの認識について語って見よう。実は、後で分かるように、具体的なテーマはどうでも良いのだが。

A君:力学的なリスクの大部分は、運動量の大小で判定が可能。

B君:もう一つ、パワーというか力というか、そんなものも重要ではあるが。例えば、大きな石の下敷きになるような場合には、運動力の大きさで決まる訳ではないから。

A君:それでは、まずは運動量で怖いパターンから。まず運動量とはなにか。定義は、質量×速度。回転しているときは多少違うが、まあ、面倒だから同じような考え方だと思ってしまおう。要するに、重いものが高速で動いている。あるいは、グルグルと回っている状況が怖い。

B君:運動量を考える理由は、一般に衝突現象は、運動量保存の法則というもので、解釈をするからだ。物理学の場合には、いくつも保存法則があるが、そのなかでも重要なものの一つ。

A君:運動量型だと、高速運動をしているものが怖いことになる。その最たるものが、自動車。1トンを超すものが時速100km。秒速にすると、大体30m/秒というような速度で動いている。

B君:その車だが、1トン、30m/秒だとすると、それを掛けて、3万kg・m/秒という運動量になる。衝突すると、これが保存されることになる。衝突のときには、ぶつかる2種類のものがどんなものかで、現象は全く違う。例えば、ゴルフボールが大理石の床にぶつかるときと、水を含んだ脱脂綿が床にぶつかるときでは、現象は全く違う。ゴルフボールは跳ね返ってくるが、水を含んだ脱脂綿は、ペチャと潰れてしまうだけ。

A君:それを反発係数(はねかえり係数)という言葉で表現するのが普通。記号ではeでしょうか。e=1の場合に、完全弾性衝突と言いますが、水を含んだ脱脂綿だとe=0。これを完全非弾性衝突と呼ぶ。ヒトの体が車にぶつかったときには、0<e<1ですが、まあ、まずは、このケースから。

問題:1トン、30m/秒で走っている車が、静止している50kgの物体(ヒト?)に衝突した場合、その物体はどのような速度を得るか?

B君:高校の物理だな。

A君:さて解答は、ここでやるよりも、他人の努力に依存しましょう。
http://www.mech-da.co.jp/mechnews/96-4/news96-4-1.html

B君:完全弾性衝突なら、m1=1000、V1=30、m2=50、V2=0、e=1を代入すればよい。

A君:計算しましたが、v1=27.14m/秒、v2=57.14m/秒。ぶつかってきた車の速度の2倍近い速度で、その物体は移動を開始することになる。

B君:そういくことだ。ヒトの体の反発係数はもちろん1ではない。しかし、もしも反発係数が1だとすると、約108km/hrで走る1トンの車にはね飛ばされた瞬間、人は、その瞬間に約206km/hrになることを意味する。

A君:大体ヒトの体は、歩いている状態ぐらいで壁に衝突するのならまあ大丈夫だが、走っている状態で壁に激突すると壊れますが、まあ遅いとよけることも可能でしょうから、速度変化にして3m/秒ぐらいまでは大丈夫でしょうか。それが、この衝突の場合だと、許容量の30倍近い速度変化になって、確実に全身骨折、内臓破裂などで死にます。

B君:実際には、0<e<1だから、ここまでの速度変化は無い。e=0と仮定すると、同様の計算をして、
V1=V2=28.57m/秒。

A君:この場合でも、人体の受ける速度変化は、ゼロから28.57m/秒まで一瞬で変わるので、相当なものです。これも絶対死亡。

B君:要するに、重いものと軽いものが衝突するときには、軽いものに被害が集中する。静止している軽い方の速度変化は、重い方の速度の1倍弱から2倍弱の間になる。

A君:人体の速度変化の限界が3m/秒程度までとすると、速度10km/hr程度とのろのろ走る車でも、全くよけることなく衝突すると、命が危ない。ただし、反発係数が0と仮定しても。ドンとぶつかって跳ね返るような衝突をすれば、10km/hr以下の速度でも危ない。

B君:大体の衝突の怖さが分かっただろうか。

C先生:このような衝突も怖いが、今回のテーマの回転ドアはかなり違う形だ。

B君:回転ドアーはパワーが利くという感じ。重い石に押しつぶされる。この場合には、重そうなものが高速ではなくて、動いていない場合にも怖いことが起きる。

C先生:そのときには、応力集中という考え方も必要だ。例えば、刃先のようなものがあると、人体に傷を付ける可能性が高くなるから。

A君:まあそうですね。刃が無くて潰れるような場合と比較すると、刃があって切れる場合だと、小さなパワーでも致命的になりやすい。

B君:今回の回転ドアは、何回も言うように、髭剃りになりそうな構造をしていて、腕ぐらい切れそうな気がする。構造の怖さも感じることが重要なんだが、それは高校レベルの物理を超す。

A君:回転ドアの重さは、それこそ軽いものから重いものまでありそうですが、実際の事故になったものは、どうも1.5トンぐらいらしいですね。この1.5トンのドアを動かすモーターの力はどんなもんでしょうか。

B君:ゆっくりだから、意外とパワーは不要かもしれない。しかし、そのパワーで腕を折る、子供だったら致命傷を与えることが可能な程度であることは、証明済み。

A君:となると、安全装置をどう作るか。これが問題ですね。

B君:回転ドアのような装置だと、ウォームギア駆動にしてあれば、モータを止めればすぐに止まるだろう。しかし、それでは装置が壊れる可能性もある。

A君:となるとそんな形ではない。ブレーキを掛けるという形になりますか。

B君:ブレーキだとすると、運動方程式を考えることになる。

A君:1トンの物体が1m/秒で動いているとして、どうやってブレーキを掛けるか。10センチで止めるとしたら?

B君:計算は示さないが、5m/(秒*秒)という加速度が必要。それには5000ニュートンという力が必要。500kgの物体が地球の重力で引っ張られる程度の力。すなわち、500kgの体重の人(そんな人はいない!)に乗られた程度の力を掛けないと止まらない。

A君:人間の腕ぐらいだと折れるだけですまないような感じ。

B君:例の回転ドアは、25センチで止まるようになっていたということなので、これほどのブレーキが掛かる仕組みではなかったようだ。

A君:回転ドアの場合、どこにセンサーをどのように置いて、どうやってブレーキを掛けるか、この工夫がまだまだ不足なのでは。

B君:エレベーターのドアの場合であれば、大体、どうやって止めたらよいか分かるし、また、車のパワーウィンドウの場合も、最初には事故があったのに、最近では止まるようになった。

C先生:いずれにしても、回転ドアはまだまだ未完成品だという感じだな。

A君:もっともっと軽いドアにして、それだと風のが吹いたときに問題がでるから、構造でカバーするような考え方でしょうか。

B君:回転ドアは、環境面から言えば、エアコンの負荷を下げるので優れた構造だと言える。だから、今後も工夫をして完成を目指すべきだろう。

C先生:こんなところで良いか。大型回転ドアの危険性というものが認識されれば、それで良い。

A君:こうしてみると、やはり必要な知識というものは、結構難しいかもしれないですね。高校の物理・化学が分かっていることが必要だとすると。

B君:必要最低限な知識のパッケージが、やはりかなり高度なものかもしれない。しかし、せめて文系・理系を問わず、大学教養教育がもっとキッチリ行われるべきだ。

C先生:環境関係のテーマであれば、もう少々少ない知識と常識に近いところで知識パッケージを作ることが可能かもしれない。例えば、小学校向け、中学校向けなどがあり得るのでは。しかし、本格的なものとなれば、やはり大学における教養教育程度にはならざるを得ないのかもしれない。

A君:これで議論が終わりですか。

B君:馬鹿言っちゃ困る。これからが本当の中身だろう。

C先生:確かに、今日の話は高校の物理程度の話になってしまったから、やはりなんといっても、すべての人がこの程度の知識を持つべきだというようなものではない。すべての人にというには、やはり多少難かしすぎるだろう。しかし、それが本日の議論の中心ではない。
 このような理系の難しい知識や、先端知識を知っていることが、この日本という国では逆にカッコウの悪いことだという考え方があるのだ。これが本当の問題だと思う。日本という国は、どうも文系支配の社会で、さらに言えば、「理系の知識の難しいことなど、何も知らない。しかし、俺はものごとを正しく判断できる」、といって自慢ができる国なのだ。

A君:うーーん。そうですね。全くの話。台形の公式の話に戻りますが、テレビでは忘れた人が以下のような言い訳をしていましたね。「長い人生で、台形の面積を出す必要に一度も遭遇しなかった。あんなものを教えるのは不必要だ」。

B君:これは、大分前になるが、曽野綾子さんが、当時の文部省で理科・算数不要論を展開されたが、それと同じ論理だな。わたしには、理科・算数は全く役に立たなかったと言ったとか。

C先生:そうなんだ。理系の先端技術や、科学が中途半端に分かることは、文系の偉い人にとってはカッコウの悪いことなんだ。

A君:ところが、欧米では違いますよね。自然科学の雑誌、例えば、サイエンティフィック・アメリカンなどが、一流企業の社長室などに置かれていて、知性の一部としての自然科学があるという受け取り方が一般的。

B君:それは確かにその通り。この差はなぜあるのか。そして、この日米格差を縮めることは可能か。

C先生:この差はなぜあるのか、となると、それは歴史だと言わなければならないだろう。ガリレオのような科学者が居なかった。科学者だと言える人がもし居たとしても、すべて外国からの輸入知識だった。

A君:しかも、明治以来の富国強兵策の一つとして技術というものを認識する歴史があったものだから、それ自身が高尚なものではなくて、実用になるから、科学・技術は役に立つという認識だったのでは。

B君:ということは、逆に言えば、役に立たない科学・技術は不要であるということになる。

A君:だから、台形の公式に対する言い訳、あるいは、曽野さんの科学・算数に対する態度になってしまう。「自分には役に立たなかった」という。

C先生:本日の議論だが、科学的な知識があると、物理的なリスクの判断がやり易いという実用面でのメリットをまずは強調してみた訳だ。

A君:しかし、実用上役に立つかどうか、それで科学を判断するのは、実は片手落ちで、環境問題やその他の科学的な問題が正しく解決されるには、科学を知っていることがカッコウの良いことだということ社会にならなければならない。

B君:ところが今の世の中は、確かに逆かもしれない。マイナスイオンが体に良いと思える、そんな感性をもっている「わたし」がカッコウが良くて、そんなものが利くわけが無いという科学的な理屈をコネル人間は、格好が悪い

A君:「霊」なるものが流行ったとき、若い女性タレントが、わたしは霊感が強いから、といって自慢していた。しかし、これは自分は科学的なものの見方をしない、と言っていることと同じなんですけどね。

B君:人間はもっともっと超能力をもっていて、科学などで解明されてたまるか、という考え方が一般的ではないか。

A君:たしかに、生命現象そのものや生物の能力には、現代科学でも決して実現できないものが多いのは事実。

B君:だからといって、科学を知ることがカッコウが悪いことにはならない。

C先生:それどころか、科学的な理解ができないと、正しい判断ができない状況が余りにも多い。生命倫理しかり、遺伝子組み換え、資源・エネルギー枯渇、化学物質リスク管理などなどだ。文系だからといって、「科学は分からない」ということを世間に自慢できる状況にはない。これを確実に一般社会に伝えることが第一。それには、「科学は分からない」ことを恥だと言ってくれる文系の偉い人を増やすしかない。逆に、「自分も科学を知っている」という文系の偉い人を増やすのも良い。

A君:それには名案が有ります。先ほどの衝突の話ですが、ゴルフのドライバーとボールとの衝突と同じですよね。要するに、ドライバーのヘッドスピードよりも、ボールの飛び出すスピードが速いのはなぜか? 大体そんな事実を御存知なのか。

B君:それはちゃんと説明できる人は少ないだろう。

A君:それに、最近、ドライバーがチタンとかになって、良く飛ぶらしいですが、そもそも飛ぶということは、ボールの初速が速いということですから、その理由をどう説明できるか。

B君:そのへんをキッチリ説明すると、それを部下に自慢げに説明してみせて、俺は科学が分かるからな、と言わせる。

A君:ゴルフボールとドライバーの衝突力学。

B君:本日はやらないが、本当の解析は難しい。なぜならば、単なる運動量の保存だけでは十分ではなく、ボールの回転運動へ変換も行われるからなんだが。まあ、なんとか説明は可能だと思うが。

A君:ボールの回転ですか。それは野球なら、重い球、軽い球の実態とか。

C先生:そんな作戦を含めて、色々と改善策を考えてみよう。どんな種類の科学だったらカッコウが良いのか。やはりスポーツとか趣味の分野のように、実用から遠いところから攻めるのが良さそうだ。