________________

  知恵としてのLCA(下)     05.01.2010
     



前回の続きである。

 先日(4月30日)、環境省の中長期ロードマップ検討会が、中央環境審議会の小委員会として再発足し、今度は、様々なセクターからのヒアリングを行うこととなった。当然のことながら、低炭素社会への切り替えをどのように行うのか、という議論をすることになるのだが、このような議論を進める場合にも、絶対的に必要なのがLCA的なセンスである。

 勿論、LCA的なセンスがあれば、それで十分というものでもない。なぜならば、LCAはあくまでも数値上の問題であって、個人の環境観や、さらに言えば、人生観などによって、環境負荷というものの重み付けがことなるからである。さらに言えば、環境負荷とのトレードオフ関係にある利便性についても、考え方は異なる。すなわち、心理的な要素を理解する力も必要である。

 さらに言えば、社会的な制度に対する理解も極めて重要である。どのような社会を構築したいか、それには、現状からどのような経路でそも最終ゴールに向かうことが可能か、といった社会科学的な洞察力が不可欠である。

 中長期ロードマップが示す社会像に対して、少しでも不便になるのは嫌だ、といった考え方で、低炭素社会を否定する人々もいるが、上記小委員会に出てくる解析データでも、不便を強制することはほぼゼロで、得られるサービスは同等という考え方を取っている。

 ただし、経済的な負担ということになると、ゼロではない。まあ、多少の先行投資と、携帯電話に月々支払っている金額の1/10程度の負担増は、覚悟していただくことになるかもしれない。

 実は、この文章は、現在の個人的主張のすべてが反映されたものではない。これを書いてから、新コタツ文明の恒等式などの考察を行っているので、そのHPも併せてご参照いただきたい。http://www.yasuienv.net/KotatsuParis.htm



4.低炭素社会への転換

 1997年に成立した京都議定書によって、日本は2008年から2012年の第一約束期間での温室効果ガスの排出量を、基準年である1990年比で6%減少する義務を背負った。

 京都議定書で決められている温室効果ガスのうち、フロン類は対策が進んでいる。農業起源のメタンや一酸化二窒素は対策をすることが難しい。となると、対策が可能な大部分は、二酸化炭素だということになる。そこで、目標は、二酸化炭素の排出量の少ない社会を作ること、すなわち、低炭素社会を実現することだ、ということになる。

 京都議定書は、先進国が率先して温室効果ガスの削減をするためにできたとも言える。エネルギーは経済発展の駆動力でもあり、先進国は、1973年までのほとんどタダに近い(ほぼ$2〜3/バレル)石油をふんだんに使用して豊かな国を作った。日本は、かろうじてこのほぼタダの石油に間に合った。

 現時点で中国はかなり急速な経済成長をしているが、使っている石油の価格は比較にならないぐらい高い(現在、$80/程度)。それでも、中国は、石油を使えるから良いと言えるかもしれない。今後、経済発展をする国であるインドは、最初からエネルギーの使用量を減らした成長戦略をとらざるを得ないだろう。

 中国は2010年には日本のGDPを抜いて、世界2位の経済大国になる。しかし、人口は10倍程度であるから、1人あたりの所得は、日本の1/10ということになる。この観点からは、まだまだ日本は豊かな国なのである。

 低炭素社会に切り替えるには、方法が4つある。
1.自然エネルギー/自然材料への転換
2.省エネルギーの実現
3.排出された二酸化炭素の隔離貯留
4.原子力への依存度を高める

 取り敢えず3、4を目指すのではなく、1、2の方法で、低炭素社会を目指すことが戦略として求められている。

 となると、どのように生活を変えれば低炭素型になるのか。すなわち、消費生活というものがどのぐらいの二酸化炭素を排出しているのか、その値をできるだけ正確に把握することが必要になる。

 すなわち、消費生活のLCAであるが、これを理解することが、当面の目標ということになる。

 詳しいことを説明しないが、非常に大雑把には、月に電力を何kWh使っているか、ガスを何m3使っているか、ガソリンや灯油を何L使っているか、などで、家庭からの二酸化炭素排出量は計算できる。

 そして、省エネ型の家電や自動車に切り替えることが、対策になるが、太陽電池や太陽熱給湯器を設置することは経済的な負担が大きい。そこで、日常生活を見つめて、細かい配慮をすることが必要である。

 交通関係からの二酸化炭素の排出量は、例えば、CO2駅すぱあと[3]で計算可能である。

 東京から広島まで行くときに、新幹線、飛行機、さらには、自家用車での排出量の概算値を求めることができる。

 低炭素社会を構築することによって、経済的な負担が増えることも想定される。特に、太陽電池を設置したり、ハイブリッド車へ替えれば、その通りである。しかし、長い目で見れば、日本経済にとっては、ひいては、個人にとっても有利になる可能性もある。

 それは、まずは、社会体制が低炭素化することによって、化石燃料の価格変動に対して余り悪影響を受けない社会を作ることができるからである。

 2030年頃には、原油価格は$200/バレルになっているものと予想されており、実に、1973年以前の価格の100倍である。

 日本という国のエネルギーの真水での自給率は、なんと4%しかない。そのほとんどが水力発電である。原子力を国産エネルギーに入れるといった計算によって、自給率を20%と見積もるやり方もあるようだが、ウランは明らかに輸入品である。

 そのため、多少コストが高くても、自然エネルギーに切り替え、そして、省エネを進めることが経済的にも、また、エネルギー安全保障という意味からも有利である。

 日本の省エネ技術は、現時点でも優れているが、これをさらに推し進めることによって、国内では、省エネ油田を持っていることと同じ効果がでる。実現するのは難しいが、もしもすべてのエネルギー効率を2倍にすれば、現在の自給率は2倍の8%になる。

 さらに、優れた日本の省エネ技術は、海外市場でも競争力を持つ時代がやってくるものと思われる。

 もう一つ重要なポイントがある。低炭素化社会には、二つの異なったレベルがあるということである。

 この二つのレベルのうち、分かりやすいのは、むしろかなり遠い未来像とでも言うべき「第二のレベル」である。この段階になると、購入し使用する製品は長寿命の品物が当然になっていて、特に建築物や家具などを買うときには、100年間は使うことを前提とするようになっているだろう。すなわち、個人としての選択よりも、次の使用者まで考えた選択をすることになる。

 そして、「第一のレベル」の定義とは、第二のレベルに軟着陸する過程である。次の節で、さらに詳しく検討する。


5.究極の目的は持続可能な社会

 現代の最大な課題は、持続可能な社会を作ることだと言われる。ところが、この持続可能ということの定義や中味がはっきりしない。個人的な解釈を述べたい。

 まず、持続可能とは、継続可能と同義ではない。一般に、社会は、有限の寿命を有するヒト、植物、動物、インフラ、企業などによって構成されているが、社会そのものは、個々の構成要素の寿命を超えて長期間持続することができる。それは、すべての構成物には寿命があるのだが、それを代替する構成物が生まれるか、あるいは、作られるからである。

 ヒトという生物は、他の多くの動物と全く違った特徴をもっている。それは、この世に生を受けたときに、極めて未熟な状態にあるということである。その反対の極端な例が、鮭である。この世に生を受けた稚魚は、親を知らない。すなわち、稚魚は本能を100%活用して自活する以外に生存する方法は無い。一方、ヒトは生まれ落ちた直後に親ないし他の保護者が必要不可欠である。しかも、かなり長時間の間、保護者が必要である。この間に、教育を受けて、一人前になっていく。教育だけでは不十分で、住む家、食糧なども親に依存している。すなわち、ヒトという生物は、保護者から教育によって大脳の内容物を受け取ると共に、生存に必要な資材を継承することによって、初めて生存ができる。

 個の命は有限であるが、教育によって、次世代に受け渡された大脳の内容物は、次々世代にも、その先の世代にも、綿々として受け渡されていく。そして、持続可能な状態が実現される。すなわち、持続可能とは、有限な寿命を有する複数の個が時間的に連続していくが、それらの包絡線として実現される。

 図3は、そのような状態を図示したものである。左側は、単なる継続可能というイメージ図である。右側に、有限な寿命をもった個(4つしか示されていないが本来は無数)が時間的に継続し、その個から次ぎの世代の個に何かが渡されていき、結果的に包絡線として持続可能な社会が実現できることを示している。


図3 持続可能の意味と継続可能との違い

 この考察を、社会全体に適用してみると、個から次世代の個に何を受け渡すべきか、という考察がこの議論の中でもっとも重要なポイントとなる。われわれは、次世代に知識、科学、技術、知恵、資産、インフラ、資源、自然などすべてを残す必要がある。ところが、現代社会は、次世代に負の遺産だけを残そうとしているようにしか見えないのが残念なところである。

 さて、このような持続可能な社会は構築可能なのだろうか。そこに大問題が存在している。すなわち、この持続可能な社会の思想は、現時点で現実社会を支配している考え方とは全く異なっている。そのため、すぐ変更しようとすれば、非持続可能な消費が前提となっている現代社会は破滅する。すなわち、日本の経済が破綻することが目に見えている。

 本当の持続な社会を意味する「第二のレベル」にいかに軟着陸するか、がもっとも重要な解になる。この目的のために、前節で定義した第一のレベルが存在する。繰り返せば、第一レベルとは、第二レベルへの過渡期を意味する。

 この第一のレベルが継続する時間は、現時点での国の態勢によって全く違うだろう。それは、その国のマインドセットの違いだと言える。ノルウェーのような国では、比較的簡単に第二のレベルに移行するのではないだろうか。しかし、同じ欧州でも、イギリスでは困難かもしれない。

 ノルウェーは、現在、北海油田の産油国であり、かなり豊かである。しかし、この油田の資源が長くは続かないことを十分に認識しており、将来世代のために基金を残している。多くの中東の産油国やロシアなどと、基本的な考え方が違う。次世代に資産を残すことが、現世代の重要な義務だと考えている。

 さて、第一のレベルが過渡期だとして、その実態とは何か。すでに述べた次世代に渡すべき何かが重要だと指摘した。その渡すものをいかに保全するか、これが第一のレベルで考えるべきことである。

 具体的には、相当多くのものを次世代に渡さなければならない。例えば、十分にキレイな大気であり水であり、安定した気候であり、自然環境である。資源やエネルギーもあった方が良いかもしれない。そして、次世代に渡してはならないものが、すでに述べたように次世代への負の遺産である。

 負の遺産、すなわち、ツケは、財政的な借金も意味するが、環境面での負の遺産と称されるいくつかのことがこれに相当する。現時点で、もっとも深刻な負の遺産が、エネルギーの大量消費を前提としているこの社会構造そのものである。

 すなわち、低炭素社会とは、単に、二酸化炭素排出量が低い社会ではない。次世代に渡すべき社会の一つの形が低炭素社会である。そこでは、エネルギーを大量に消費することを前提しない社会が実現されていることだろう。現代のエネルギー大量消費型社会は、破壊されている可能性が高い。


6.まとめ

 LCAとは何を目指すものなのか。本稿では、LCAは、持続可能な社会を目指す場合に必須の知恵だと考え、その理由を説明してみた。

 どうも暗い話になったように見えるかもしれない。しかし、個人的には、全く暗い話だとは思っていない。

 現代が贅沢ができる社会であることは事実である。現代の日本の食は、中世の王侯貴族のものよりも遙かに上質である。こんな贅沢ができる時代は過去にはなかった。多分、未来にもなさそうである。

 しかし、「贅沢」が必ずしも「幸せ」を意味しない。

 新幹線があり、飛行機がある。そのため、大阪まで日帰りの出張が可能である。実にせわしないことだし、肉体的にもきつい。だからといって達成感を持つこともない。

 江戸時代であれば、東海道を1日に30km程度歩いたのだろう。大阪まで20日ぐらい掛かったことになる。こちらも肉体的にきついが、だからといって、不幸だったとは限らない。達成感は確実に存在していた。

 化石燃料を消費しつくすと、現時点ほど自由度の高い生活、例えば、車でちょっと買い物といった生活はできないかもしれない。しかし、自転車で出かけて悪い理由もない。

 恐らく、時間的にはゆったりとした生活になっているのは確実である。その余裕のある心で、次の世代に何を残すかを考える。こちらの方が、場合によっては幸せなのではないだろうか。

 10年ほど前までは、省エネに向けて努力することは、持続可能な社会を実現するために必須のことだと考えていた。しかし、このところ考え方が変わった。化石燃料が無い社会の方が、地球人口さえそれに適した規模になっていれば、人間本来の生き方ができるから、幸せを感じる人々が多いのではないか、と思うようになった。

 若い諸君が現代をどのように考えているのか分からないが、現時点で我々世代から次世代に伝えるべきメッセージは、こんなものか、と思っている。

 LCAに自ら取り組んでみると、こんなことが実感できることになるかもしれない。


引用文献など
[1]例えば、LCA概論 (LCAシリーズ) (単行本) 、伊坪 徳宏 (著), 成田 暢彦 (著), 田原 聖隆 (著), 稲葉 敦, 青木 良輔、単行本: 305ページ 、産業環境管理協会 (2007/11)

[2]YouTubeの上総堀り
http://www.youtube.com/watch?v=53e3OnZfN14 

[3]CO2駅すぱあと
http://team-6.jp/cgi-bin/exp/exp.cgi