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  持続可能センスの磨き方 03.12.2006
     



 これも朝日新聞主催の朝日環境フォーラムでの講演の続きで、前回に続いて、第二弾となる。
 今回は、題名もちょっと変えてみる。持続可能センスというものがあるだろうか、という話。これが、21世紀に必要となる最も重要なセンスのような気がする。

 まず、この絵から。講演会などでは、ほぼ100%出すこの絵であるが、出展は、アメリカオレゴン州政府らしい。


 衝撃的なことには、2万年に渡るグラフを書いてみると、化石燃料というものが使える時間の幅は、この程度にしかならないということ。

 化石燃料を使い始めたのは、まあ、1800年ごろから多少本格的になったと思えばよいだろう。そして、まあ、2300年ぐらいまでは、その一部は残るだろう。

 しかし、それでもたったの500年である。現世代は、石油があることが当たり前だと思っているが、人類史上、極めて希な状況にあるのが、現世代である。人類は、そう簡単には滅びることはない。そのぐらいしたたかなのが人類である。今後、まだまだ10万年以上生存するだろう。しかし、数10万年に渡る人類の歴史の中で、化石燃料がある期間は、たった500年である。

 人間活動をいくら行ったとしても、地球を温暖化させるだけの二酸化炭素を排出するのは、もしも化石燃料が無ければほぼ不可能である。もちろん、PFCなどのGWP(=温暖化ポテンシャル)の大きな温暖化ガスを出すことで可能ではあるが。化石燃料がなければ、これほどの人口を地球上に維持することも不可能である。現在の文明を築くことができたのも、人間だけが偉いからではない。化石燃料がさらに偉いのである。

 さて、人類はこれまでも様々な環境問題を解決してきた。日本においては、産業公害問題、交通公害問題、ごみ問題などなどは、まだまだ不十分ではあるが、まあ解決しつつあるとも言える。アジア諸国では、これから公害が厳しくなる国も多いだろう。

 環境クズネッツ曲線と呼ばれるものがある。経済が発展すると、当初公害的な環境問題は悪化するが、あるピークを超すことによって、それから先は、環境と経済は好循環を始める。すなわち、右肩下がりが幸せ、という状況が作り出される。



 これと同じことが、二酸化炭素の排出についても起きるだろうか。ある程度経済が発展すると、それから先には、二酸化炭素の排出が抑えられるのが経済の仕組みなのだろうか。

 まず、各国の二酸化炭素排出量と一人当たりの国民総生産の関係を調べてみると、どうも可能性がほとんど無いことが、すぐに分かる。国民総生産に比較して、二酸化炭素の発生量が非常に低い国が目立つのである。例えば、スウェーデン、アイスランド、スイスなどである。そこで、エネルギー消費量について同様の図を作って比較してみると、国によって、その関係がばらばらであることが一目瞭然になる。



 もっとも極端なのがアイスランドである。この国は、ご存知と思うが、地熱の有効活用で知られている。レイキャビックという首都付近では、すべての家屋に地熱暖房が行き渡っている。電力にしても、水力9地熱1という割合である。すなわち、二酸化炭素の排出はほとんど無い。勿論、若干あるにはある。それは、車用のガソリン、そしてアイスランドの経済の種である漁業用の燃料である。

 フランスが比較的二酸化炭素排出量が少ないのは、それは原子力のためである。アメリカとカナダの違いは、水力発電の量である。

 さて、それならエネルギーと一人当たりGDPの関係から、何が言えるだろうか。こんな感じになりそうである。上から、産油国、巨大国、北欧、中緯度、高緯度、熱帯といった順番にそれぞれ似たような関係が描けそうである。



 もしも、この関係が本当ならば、一人当たりのGDPが2万ドルを越したあたりから、エネルギー消費量は下がるという可能性が見えてくる。

 しかし、ちょっとチェックすれば、それが嘘であることがすぐに分かる。このデータは2001年のものだが、その時点で、もっとも金持ちな国がルクセンブルグである。ルクセンブルグは、以前は自国内で産出する鉄鉱石を使って鉄鋼業で生きている国であったが、最近では、国民の過半数が金融業に関係している国になった。そのために所得が上がったのである。ある国が実体経済で発展するのは、実は相当難しい。やはり、金融などの虚業にかなわない。

 ルクセンブルグは、地理的には、ベルギーの南にあるから、オランダとそれほど状況は違わない。ところが、オランダのエネルギー消費量が5トン/年程度であるのに対し、GDPも確かに倍以上あるが、エネルギー消費量が8トン/年を超している。

 どうやら、経済が発展することによって、自動的に省エネルギー社会になるということは無さそうである。

 しかし、いずれにしても、化石燃料は2300年頃までには無くなる。そのときまでに、なんらかの対応を取らなければならない。その一つのやり方が、化石燃料依存を、原子力依存に徹底的に切り替えていく方法である。しかし、軽水炉によってウランを燃やしている限りにおいては、資源的な限界が厳しい。高速増殖炉を使うことが可能になれば、当分は行けるだろう。しかし、それでも限界はある。究極的には、核融合を実現しなければならない。


 このような原子力技術100%依存型で、化石燃料の枯渇を乗り越えるというシナリオもありうる。しかし、このシナリオには、危険性があるようにも思う。それは、技術というものは、決して完全なものではないからである。事故は付き物である。たとえ技術上の欠陥が無くても、人的要素によっていくらでも事故は起こりうる。化石燃料に依存している間は、多少事故が起きても、決定的なインパクトを受ける可能性は低かったが、核融合となるとどうだろう。地球上のシステムが全面的に狂うといった危険性があるのではないか。

 巨大技術には、常にそのような危険がある。宇宙発電衛星を打ち上げるという構想もありうるが、突然故障といったことが必ず起きるだろう。

 風力発電、太陽光発電などの小規模な再生可能エネルギーに依存するのはどうだろう。デンマークは、すでに12%以上の電力が風力起源である。地域の条件によっては、相当程度の発電が可能だが、デンマークが可能な理由は、平坦な地形、安定した風況もあるが、最大の要因は、人口が少ないことである。風力の発電総量は、日本の10倍程度に過ぎないのに、総発電量が少ないために、割合としては高くなるのである。



 となると、徐々に、人間活動の総量を減らしながら、地球の能力以下に減らすことが安全策である。果たしてそんなことが可能なのだろうか。人口は増えるばかりなのに。

 人口は実は増えないのである。いやいや、増やしてはいけないのである。国連は、人口予測というものを常に行っている。このところ、しかしながら、当たるのは下位予測ばかりである。もしも下位予測が正しいとしたら、2045年に77.5億人でピークである。中位予測だと、2050年で90億に達し、その後、まだまだ増加傾向である。

 先進国の出生率が下がって問題になっていることはご存知の通りであるが、香港の出生率は日本よりも低い。さらに、タイの出生率も低下速度が速い。中国の人口のピークは2020年、インドでも2040年がピークである。問題は、アフリカである。アフリカ諸国の出生率が下がれば、世界人口は減少する。

 出生率が高いのは、水にしても燃料にしても、周辺地域からタダで入手できるときには、労働力が多いほど、すなわち、子どもを増やす方が生活が楽だからである。

 子どもが大学に行くことが普通になると、出生率は下がるようである。教育費が高いのが普通だからである。もっともスウェーデンなどは、教育費は無料だったはずだが。

 このレベルまで、アフリカ各国の経済状況を改善させることが、人口を制御する最大の鍵である。

 ただし、人口問題だけでは、解決しない。やはり各人が考え方を変える必要があるだろう。



 この図は、環境経営の推移に関するものである。まず、第一に必要な変革は、21世紀というものに対する認識である。21世紀は「減少」の世紀である。人口が減り始める。いや、減らし始める世紀である。一方、20世紀は、「増大」の世紀であった。我々のマインドは、21世紀に入ったにも関わらず、まだまだ「右肩上がり」である。

 人口が減るのだから、物量も減るのが当然である。同じ価格のものを売っていたら、当然、売上げは落ちる。すなわち、21世紀には、普通のことをやっていたら売上げは「減少」するのである。未だに、売上げ増加を目標にしている企業が多いが、日本においては、すでに人口が減少し始めたのであるから、それ自身、奇妙なことである。

 商品の価格を高いものに変えなければ、売上げは減るのである。物量を減らし、価格は上げる。これが正しい方向である。すなわち、付加価値の高い商品に切り替えることである。これによって、売上げは下げることになっても、利益は確保できるだろう。

 しかし、利益を確保すればそれでよいというものではない。

 トリノ冬季オリンピックで、荒川選手が金メダルを取ったのは嬉しいことだが、トリノ選手団の最大の特徴は、ベテラン選手が多いことであった。ジャンプの原田、岡部、葛西、スケートの清水、岡崎、ショートトラックの寺尾、スケルトンの越、このような選手が未だに活躍できているといことが、日本が勝てないということと同義であった。新しい選手が出てこないのは何故か。

 それは、企業が利益ばかり追いかけているからである。以前、ジャンプといえば雪印乳業だった。さらに古くなるが、女子バレーは日立だった。そんな時代が終わった。これが、日本が勝てない理由である。

 なぜ企業は利益ばかりを追いかけるのか。社長がサラリーマン社長になったということも一因ではあるが、それ以上に、株主優遇という間違ったポリシーが、アメリカから導入されたからである。株主を優遇するのは悪くは無い。ただし、会社のポリシーに同意し応援してくれる株主の場合に限られる。株を投資対象としてしか考えない株主をいくら優遇しても、そのような株主は、目先の利益確保のために、すぐどこかに移っていくだろう。

 企業は、従業員と関係企業の社員、そして、その地域、さらには、その国の幸福のために奉仕し、そして、利益が上がれば株主にも戻すのが妥当なところである。「社会に役に立つことをやります。自社の株を持ってくれれば、皆さんが幸福になります、だから、株を長期間持って下さい」。こんなことを言い出す企業があっても良いと思う。そうなれば、オリンピックで、もっと勝てる選手がでるような国になるだろう。さらに、正社員が増えて契約社員は減り、そして、残業の連続で過労死といったことも無くなるだろう。

 一般社会にとっても、幸福感というものが重要である。北野大先生の講演によれば、仏教では、

 幸福=(財の大きさ)/(欲望の大きさ)

だそうである。自由になる財は少なくても、欲望を小さく保てば、幸福になれるという。なかなか含蓄がある。

 このような考え方を環境に拡張すれば、すなわち、地球にとって幸福とは、

 幸福=(創造される価値+社会への貢献)/(地球の磨り減り方)

になるのではないだろうか。仏教的幸福感と、環境的幸福感が共存するような社会が実現できれば、それは平和な社会になることだろう。

 さて、環境センスというもの、あるいは、持続型センスというものが形成されるには、情報の獲得が不可欠である。しかも、その情報がフィルタによってニセ情報、似非科学、誤解が除去されて、そして、旨くジグソーパズルのように組み合わさることが重要なのだろう。



 正しい情報を誰が提供するのか。それは多くの場合、メディアである。しかし、メディアにはできないことがあることを理解する必要がある。


 例えば、新聞であれば、1000字以上の記事を書くのは大変である。週刊誌でも4ページが最大だろう。正しくないことを否定するには、結構な文字数を必要とする。むしろ、誤解を作る方が簡単である。すなわち、新聞などのみから情報を得ていると、誤解を解く段階まで情報を得ることは不可能だろう。

 それには、やはりインターネットから正しい情報を選択して自分のものにすることが必要不可欠である。インターネット上の情報は、玉石入り混じっている。ただ、最近には、GoogleバーのPageRankのような情報も得られるので、そのHPの信頼性の判断も容易になってきた。また、ブログのように、多数の人々の協働によって、正しい情報が得られることも多くなってきた。

 さて、まとめにしたい。この写真は、ニュージーランドに行ったときに、手持ちのEOSKissDNで撮影したものである。大マゼラン星雲である。この写真を見ながら、あの星雲の中には、やはり人類よりも遥かに進んだ文明をもった生物がいて、こちらを観測しているのかもしれない。こちらがカメラを向けていることを見つけて、バカな写真を撮っているやつがいると思っているだろう。などと考えたが、実際のところ、それは有り得ない。この星雲は、われわれの太陽系が存在している天の川銀河の随伴星雲であって、そこまでの距離は11万光年である。いくら文明が進歩した大マゼラン星雲人であっても、こちらを観察して得ている情報は、11万年前のものである。今、この瞬間に、何がこの地球上で起きているか、それを知るのは、先端技術をもっている大マゼラン星人にとっても、11万年後にならない限り無理なのである。11万年前といえば、現在の人類がやっと出現して存在していたという時代である。


 いずれにしても、環境センスを磨くには、様々な情報が、様々な軸に沿って展開されて、ある絵ないし立体が得られることなのだろう。しかも、その中身について言えば、健康リスクに対して、”A Habit of Mind”を持つ段階。それから、温暖化などの”A Habit of Mind”を持つ段階、そして、最後に、持続型の”A Habit of Mind”と進化していくのではないだろうか。


 この”A Habit of Mind”という言葉であるが、適切な日本語にすることが未だにできないでいる。自然に備えているマインド=「感性+理性」のようなものなのだろう。これが「センス」というものの中身のようにも思える。

 さて、最後であるが、環境センスを持ちうるのは、個人である。先駆的な個人のみである。21世紀を見渡したとき、そのゴールには、そんなにも多様性がある訳ではない。特に、持続可能なものという制限を付けると、かなり限られたイメージで十分に記述できるものだろう。その最終ゴールに向かって、一般社会をリードするのが、環境センスをもった個人の役割だろう。企業は、残念ながら、一般社会から二歩先を歩いたとたんに倒産する。やはり企業は半歩前までである。個人、NPO、行政がゴールへ直行する道を作り、企業をそこに導くのが唯一の解決策だろう。