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     新書「東大教授が考える新しい教養」  06.16.2019
        56〜57歳ぐらいの教授による定義

               



 実は、かなり前から、恐らく、教養、いや、もっと正確に言えば、「教養と人生設計」について本を書けと言われているのですが、なぜか、全く書けません。
 最近の自分個人の感覚としては、現在の組織のルールとして、理事長の定年は75歳であると書き込んだ者として、そして、それに従って、来年の6月で理事長を退職する人間として、何かで勝負するという考え方はすでに消滅し、むしろ、「社会に若干でも貢献できるとしたら、燃料としてではなくて、むしろキシミがでたときの潤滑剤としてだ」、と思っているのが現状でもあります。何事でも、キシマずに動いているときには、「傍観者としての立場から動かない」、という考え方になっているから、「積極的に動けない」からかもしれないのです。
 しかし、とは言いながら、「教養」という言葉には、敏感に反応してしまうのです。なぜならば、広い地球上の「政治家が、本当の意味での教養というものを持っているのだろうか」。特に、トランプ大統領、それに、EU離脱問題を議論している英国議員達が、何を考えているのか、どうも、「極めて短絡的な利害と面子のみ」であって、そして、市民はと言えば、フランスでのイエロージャケットを見ても、「エリート層への反感のみで動いている人々」のように思えてしまうのです。
 教養とは、勿論、知識量を意味する言葉ではありません。恐らく、教養を身につけるためには、相当な知識量が不可欠であることは事実ですが、それだけではないでしょう。それでは、「教養とは何か」、と問われたとして、「人生設計」が上手な人が、イコール教養人か、と言われると、そうとも言えないと思うのです。先程の本を書く話ですが、我が身を振り返れば、「教養の定義ができないから、本が書けない」のかもしれません。
 ということで、今回の議論は、最終的には、「結論は無し」ということになりそうな気もしますが、なんとか、文章を書いてみたいと思います。この序文を書いている段階での「教養」の定義のようなものは、「何か全く新しい問題について、どうすべきか、と問われたときにも、なんらかの答えが出せるような解答製造システムと、そのシステムのために整理されたデータベースを頭の中に所有していること」という定義で進めたいと思います。
 今回、参照とする新書の序文に、「日本では、雑学的なものと教養が混同されているふしがあります」と書かれていますが、「整理されていない雑学であれば教養ではないけれど、『解答を製造する目的で整理された雑学』は、実は、雑学ではなくなって、教養の重要な一部」とスタンスで、議論を進めてみます。最後には、自己否定に陥る可能性を孕んでいますが。

 参照新書:
  「東大教授が考える新しい教養」
   藤垣裕子・柳川範之著
   幻冬舎新書560




C先生:本日の課題は、ある意味での新しいチャレンジをしたいということだ。確かに、ネタとなる本はあるが、その考え方を紹介するというよりも、各人が、自分の頭の中に存在している教養とは何かというに問に対する様々な答えを整理することが最終目的だ。

A君:全く整理できていません。そして、多分、整理できません。大体、教養を英語にすると、Cultureという単語になるという辞書が多いのですが、本当にそうなんでしょうか。一般教養課程を意味する英語は、liberal artsとかgeneral educationとか。ちょっと考えてみても、なんらかのデータベースが無いと、AIだって全く動きません。だから、整理されたデータベースが「人工知能」で重要な役割に必須であることは確実ですが。人工知能がもっているデータベースが教養ではないでしょうし。それは、目的が単一だからという理由です。

B君:データベースといっても、ディープラーニングで使うものと、通常のデータベースとはかなり違ったコンセプトだ。もっとも簡単なディープラーニングの応用だったと思われる、手書きの郵便番号を読み取る装置は、様々な人々が実際に書いた数字と数との対応のデータベースを使って、深層学習をした結果、ほぼ間違い無しに、数字が読めるようになった。読み間違った手書き文字があれば、その正解を教え込むという作業の繰り返しになるが。だからといって、「郵便番号読み取り機には教養がある」と言う人はいない

C先生:そもそも、「教養とは何かを議論すること自体が難しい」ということだ。それでは、若干、考える方向性を決めてから議論することになるかな。まずは、この本の次の記述をどう思うか。これから始めよう。
 「教養が身につけば、それはそのまま課題解決能力やイノベーションを起こす発想力につながります」。 「しかし、教養は知識量ではない」。

A君:教養かどうかという定義は別として、知識量は重要です。ディープラーニングで深層学習に使うデータは、できるだけ多い方が良いことからも、そう言えるのでは。知識量が不十分な人に、正しい判断はできない。

B君:ただ、勿論知識量だけではダメだ。ディープラーニングでAIに与える文字だけれど、どんなものでも良いということではなく、やはり、人間が読んで正しく読めるかどうか、という基準で学習用データは作られていた。だから、知識には、正しいと思われる知識と間違ったと判断できる知識があるのだけれど、それが認識されながら、頭に収められることが不可欠だと思う。

C先生:なるほど。最近、知識量の重要性を低下させている要因として、インターネットの存在をこの本は上げている。次の質問は、この記述をどう思う。さらに、「知識量の重要性が大きく低下している今、知識や情報をベースとして、自分の頭で考え、『自分ごと』化し、実りある議論に繋げる力が教養だ」と述べているが、これに対する感想や批判はあるか?

A君:それは、記憶量と知識量を混ぜこぜにしているのではないですか。最近、無用に記憶量を増やしてもグーグル先生に絶対敵わないので、無意味。だから、情報を必要になったら獲得するスキルを備えていれば、それで勝負ができる。しかし、必要不可欠な情報を見出す発掘力が勝負になる。すなわち、知識量の定義とは、「その気になれば使える状態にある記憶量」で、こちらの機能が十分であれば、グーグル先生にも勝てる可能性がある。

B君:この新書の問題はその「『自分ごと』化すること」という定義では。この『自分ごと』が、この先どこで説明されるのか。

A君:『自分ごと』とは何か、それには注意して対応しましょう。

C先生:その先になると、「今ほど教養が必要な時代はない」というセクションになって、情報量が問題なのではなくて、「情報を選別する力」、「情報を結びつけて活用する力」、そして、「情報をもとに考える力」が重要となっているが。それが教養ということだろうか。

A君:その3項目が重要だということについては、まあ、そんなものとも言えるかも。しかし、そもそも、「情報をもとに考える力」とは何なのかの記述が無いので、よく分かりませんね。

B君:同感だ。後で、我々の分野における「極限の教養とは」といった議論をすべきだろう。

C先生:これで、第1章に入る。「教養の本質とは何か」という章だ。そして、教養の歴史上の位置づけについての話になるが、まあ、教養の一部としてこのような議論をするのも良いけれど、余り直接的な議論にはならないので、ここでは省略して、キーワードだけを抽出する。「自分の思考を固定化せずに柔軟にする」、「部分的な意見に固執せず全体性を見る」、「偏見からの開放」がキーワードだ。

A君:当たり前。

B君:当然!

C先生:次に、東大教養学部初代学部長の矢内原忠雄先生の話になる。実は、教養学部の話であって、教養の話とは必ずしも言えないので、省略。次が、教養学部ができたときの総長だった、南原繁先生は、「教養の目指すところは、科学の分野を結びつける目的や価値の共通性」であると述べたとし、この著者は、異なる考え方や意見を持つ人が建設的に議論するといった行動原理を持つことが教養だとしているが。

A君:ここでの「教養」の議論は、教養学部が東京大学に存在することの意義について語っていることであって、一般的な「教養」について語っているとは思えません。

B君:同感。

C先生:なるほど。となると、しばらく、スキップして良さそうだ。
 次はこれ。イギリス、日本の試験問題の比較の話はどうだ。
 日本「ラジウムの半減期は1600年です。1グラムのラジウムが0.25グラムになるには何年かかりますか」。
 イギリス「ロンドンからシドニーに行く間に浴びる放射線量はどれぐらいですか」。
 筆者は、日本の問題は「いくら計算ができても、一般の人には他人事」という評価をしている。なぜなら、小ネタにはなっても、具体的に役立つ場面はほぼないから

A君:非常に面白い。様々な考え方があることは分かる。理系人間の考えでは、「日本の問題の方が考えさせる問題でより優れた問題です」。なぜなら、考える能力は教養の重要な要素なので。しかも、有害物質が減っていくような原理原則とも関連するので、一般人にとっても重要なコンセプト。

B君:ロンドンからシドニーの話は、その記憶力だけを問う問題であって、学問的には全く意味がない。それこそ、話のネタにしかならない。しかも、もし、船で行ったら、飛行機の場合とは答えが全く違う。

A君:我々ゴリゴリの理系と文系の違いのようなものを如実に感じますね。藤垣先生の専門は、理系・文系の中間的なところだと思っていたのですが。

C先生:今度はフランスとの違い。答えの無い問を重視するフランス、「正解」を求める日本。フランスのバカロレア(大学入試資格試験)では、思考過程を持っているかどうかが問われるという理解であれば、どうだ。

A君:言葉一つ一つの意味を吟味しながら、答えがいずれとも言い難い問題に意見を述べることは、純粋理系にとっても、必要不可欠な訓練です。

B君:書かれていることは、特殊な思考法ではなくて、不確実性のある問題=正解という答えがないかもしれない問題、に対する思考法としては、訓練しなければならないものではある。ただ、大学教育でどこまで教え込むことが可能なのか。

C先生:まあ、人間社会、人間というものの存在そのものが意味不明なところがあるから、正解というものも「ゆらぎ」が大きい。そんな感想になるかもね。次の主張が「正解が無いことに気づくこと」が重要。

A君:これは当たり前。人生に正解などないですから。ある選択を行ったとき、結果的に正解だったという感想を持つことは可能ですが。しかし、一方で、理学では、「あるルールに合っている」ことを判定することも重要で、ある意味で正解がある世界。

B君:それにしても、最近、話題になっているProblem-based Leaning(=PBL)のような話がでてきませんね。日本人にもっとも重要な教養なのに、通常の学校教育で欠けているの一つが、問題解決能力ですからね。正解はこれだから覚えなさいでは、「教養人」にはならない。先程のシドニーに行くまでの被曝量のようなものをいくら覚えても仕方ない。

A君:最近、PBLで、日本でも何人かの有名教授が誕生しているようですよ。東大に存在しているのかどうか、よくわかりません。

C先生:なるほど。それでは、第2章「東大で教えている教養」だ。これは、教養学部のコマーシャルだと考えてスキップしようかと思ったけれど、気になる記述があった。それは、『原発事故によって露呈した「日本の教養のなさ」という記述』

A君:この記述でも、この件の最大の問題点が指摘されていませんね。それは、東京電力のパワーが、原子力保安院のパワーを上回っていたために、「東京電力は独自の判断を最終的に正当化できると信じていた」ということ。「その傲慢さが最大の原因」であって、この本の主張のように「分野を跨いだ連携があれば、この事故は起きなかった」ということではないですね。「人間の傲慢さのような本当の原因」があったことを誤認していては、教養があるとは言えない

B君:その後の放射線での市民との情報交換がうまく行かなかった件は、まあその通り。しかし、解釈は違う。医師が権力を持っていたから上手く行かなかったというよりは、放射線というものに対する日本人だけの持っている非常に特殊は感覚、すなわち、「放射線は完全ゼロ以外は有害」、という科学的には間違った市民の誤解を医師が理解できいないことが根本的に問題

C先生:よし。ちょっとスキップして、第3章に行く。ここは、「教養がない人は生き残れない」が主題。「専門性だけが高い人」は生き残れないということは、今回、我々の組織であるEcoLeadが主催する「サマースクール」と重なる主題でもある。現時点は、パリ協定がきっかけとなって作られた大転換時代だから、一つの専門を高いレベルでマスターしていたとしても、問題の解決のために使える時間は、5〜10年に過ぎない。問題は次々と出てくるので、新しい問題にも対応できないような人材は、必ず失業する。ここの議論は良いとするか。

B君:環境系の人間にとっては、大転換時代なのだけれど、それをすべての人々がその状況を理解できているわけではない。

A君:大転換時代である理由は、化石燃料文明が終わって再生可能エネルギー文明への転換になるから。

B君:その意味を分かろうとしない人が多いのは、恐らく、エネルギーというものを正しく理解していないから。しかし、今回はここまでで止めよう。

A君:それでは、次の課題へ。それが、『絵画の「教養」はこう生かす』、です。

B君:これは、海外の人々と話題を続けるには、こんな話も一つの手法ではあるのは事実で、絵画、音楽は、教養の重要な要素。しかし、日本では、「絵画と音楽の両方を語ることができる人は、ほぼ皆無」。これがヨーロッパでもそうなのか、よくわからないけど。しかも、日本の絵画と日本の音楽を語ることは地球レベルでの教養と言えるのか

C先生:この章は、ビジネスの話になるのだけれど、ポイントが多様すぎて、まとめるのは難しい。そのうち、「音楽を教養とする」こと、という課題を取り上げてみたい。ということで、次の章へ。
 第4章は「教養が身につく習慣」。ネット上のフェイクニュースやSNSが話題になるのは当たり前だけれど、どう思う。

A君:前回のこのWebでの話題だった、「フラットアーサーズ」(平板地球派)の話と似ていて、要するに、自分の信じられる領域というものが個人個人には必ずあってその範囲内でしかものを理解しようとしない人は、教養が無い。その範囲を越えようと努力する人は教養がある。

B君:平板地球派のような人には、「情報を選別しない」ことなどはできないので、「いかなるケースでも選別しないこと」を一つの対処法として勧めることはあり得る。

A君:確かに、一つのやり方かもしれないが、本当の教養を身につけることの最初の到達目標は、あらゆる情報について、なんとなく妥当性が判断できてしまうような知識構造を構築することなのでしょうから。

B君:それが理想だと思うよ。しかし、それならどうする? その方法論は人によって違う。

C先生:この議論を我々の結論としよう。ということで、先をちょっと見ると、学生向けなので、色々な提案がなされている。例えば、「どちらが正しいか」問わない、とか。これらはある意味で学生向けであって、社会人などを含めた一般向けではない。

A君:あれ、こんな結論にしてしまうと、これでこの本の終わりのページに来てしまいましたが。

C先生:最後に大きな問題を。この本とは無関係に、完全な新検討課題として与えたい。そもそも、君たちから見て、「教養ある人の脳の構造はどのようなものだと考えているか」、その議論をしよう。

A君:いきなりチャレンジか。

B君:脳の構造を議論するということは、どういうことか。そのイメージを作らないと。

A君:機能別に脳を把握するのか、あるいは、解決法発見のための脳機能だけを見るのか。

B君:教養というものをどう考えるかだけれど、自分は、完全なる功利主義者なので、本物の教養かどうか、それは、その人が、それを問題解決能力として使えるか使えないか、にあるのではないか、と思っている。教養は、いわゆる絵画のウンチクを述べる能力ではなくて、現実社会の問題を解決する実用的な能力なのではないだろうか。ウンチクは趣味の延長線上にあるが、その良し悪しを競っても仕方がない。海外の人々と、より深い交友関係を持つことは、人生にとって一つの実用的能力だ。それには、まずは、英語力。その次が、業務遂行力。そして、最後が、非実用的な知識・経験に基づく情報交換力なので。

C先生:そうとも言える。ICEFというNEDO主催の国際会議のステアリング・コミッティーとして、毎年、パリなどで開催される会議に参加しているけれど、他のコミッティーメンバーと、食事のときなどに、どのような話をしたらよいのか、大変に難しいのだ。個人的な話だけれど、一つの成功例としては、カナダのSmil教授との会話で、「米国50州をドライブした。ヨーロッパも間もなく、主要国のドライブが完了する」、と馬鹿な話を持ちかけたら、それ以来、色々な雑談ができるようになった。どんな人間であるかを表現することに有効である経験を積むこと、これが一つの手段ではある

A君:それは誰でもできることではない。

B君:全く無理な話。

C先生:では、話を変えて、問題解決能力としての教養とはどのようなものなのか。

A君:本当に、イメージだけですが、教養のある人の脳は、分野ごとに地球儀の形をした多孔質体があって、穴がいくつも開いています。穴は、当然、そこにある国の一部です。その穴に問題を一つ投げ込むと、その穴から、この問題の答えとして、複数の解決策が出てくるようなイメージ。勿論、万能の地球儀があるわけもないので、分野に特化した地球儀があって、その人が、いくつ地球儀を持っているか、それが教養の量かもしれません。

B君:問題解決型多孔質地球ね。全部の国に穴を開けるのは不可能だね。

A君:当然です。問題だけでなくて、文化についても、同様な地球儀があり得ますね。

B君:そうか。絵画についての教養も、同じようなことが言えるのかも。穴がいくつも開いた地球儀の、どこかの穴に玉を投げ込むと、その国のその地域の画家の情報が出てくる。例えば、ウィーンの穴に玉を入れれば、クリムトの絵の話が聞こえてくるとか。ただ、時代という要素をどの地球儀がどう判断し、どういう出力を出すか。

A君:これはこれで大変な話で、そもそも、どの国か、どのジャンルか、どの時代ということになるので、地球儀を1個持っていればそれだけでも偉いのに、あり得る地球儀の数は無限大。時計付きにすれば、数は減りますが。

B君:その通り。問題の種類別に、地球儀があり得るし、芸術のジャンル別に地球儀があり得る。

C先生:まあ、無限大の数の地球儀が存在しうるね。一つでも良いから、そんな地球儀を持ってみたいものだ。それが教養というものだ、と言われると、なんとなくそうかな、と思える提案かもしれない
 せめて、我々としては、環境問題解決型の地球儀を一つ持つことを最終目的にすることが、環境学なるものを取り扱う人間にとって、教養であると同時に、場合によっては義務なのかもしれない。まあ、このあたりで議論をストップしよう。地球儀の種類は無限にあるのだが、字数は6000字オーバーぐらいで止めておきたいので。