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  国連大学サマースクールにおける質疑応答 09.03.2006
     



 今年も、サマースクールを開催した。これで3回目である。毎年、多少違ったキャラクターの院生が来るのが面白いところ。今年のメンバーは、最初、いささか乗りが悪かったが、最後は、かなり良かったのではないか。

 丸々2週間なので、午前3時間、午後3時間の20駒の時間があるが、1駒が開校式+導入講義、1駒が課題発表会、2駒がそのための準備時間で、残り16駒が講義となる。その1駒に、質問ばかりという時間がある。「どんな質問でも答えます」という授業?である。

 今回は、その実況中継。回答者は2名だったが、一つに合体させた。


質問1: ストロングサスティナビリティとは、長期間のサステナビリティを意識することなのか。沖先生の1000年持続可能学はストロングサスティナビリティか?

回答:ストロングサスティナビリティの定義しだいではある。生態系の機能は、人工物では再現できないというものだとすると、それはそうだが、だからといって、どこまで生物多様性が必要なのか分からないから議論できない。もし、ハーマン・デイリー流サスティナビリティをストロングだと定義すれば、枯渇性の資源を使っているかぎり、厳密な意味でのサスティナビリティは実現不能のように思える。デイリーの言うサスティナビリティを実現しようとしたら、枯渇性の化石燃料を1GJ分使用したら、将来世代がその1GJ分なんらかの再生可能エネルギーで使えるようにしなければならない。結果的には、風力発電や太陽光発電をどこかに設置することになるが、これらのエネルギープロフィットレシオ、すなわち、投入エネルギーと得られるエネルギーの比は余り高くないので、ほとんど化石燃料は使えないということを意味する。結果的には、人口を自然に制御できる世界の実現が合理的なように思える。
 また行政的には、ストロングかウィークかは意味がない。1000年先のことは想像を超す。具体的には、超長期ビジョンというもの考えている。2050年までやろうとしている。

質問2: なぜ2050年なのか。

回答:参加者全てが責任を持たなくて良い時代が50年後だ。しかし、別の意見もある。2030年と2050年は、それほど違いは無いというもの。何かやるとき、データがどこまで伸ばせるか、という観点からみれば、いずれも困難。

質問3: 里山のいとなみや伝統産業がサスティナブルなのか。伝統農業がサスティナブルだったのか。

回答:サスティナビリティの定義を1000年間継続するかどうか、ということであれば、一人当たりの面積が十分であれば、伝統産業も、伝統農業もなんとでもなる。
 そのあたりの意見には、新しいものは何でも良くて、古いものは駄目という価値観に見直しをというメッセージが含まれている。

質問4: 50年後の社会がどうなっているのか、どのような生活をしているのが、良いと考えられるのか。

回答:2050年は、やはり、かなり再生可能エネルギー依存型になっているだろう。しかし、地球上の人口は、ほぼピークではないかと思われるので、食糧とエネルギーの取り合い状態が起きている可能性が高い。化石燃料の使用量を下げようとすると、多分、様々な交通機関はやや遅くなるのではないか。様々な生活面でのスピードも多少下がって、悪くは無いのでは。

質問5: 様々なことをやらなければならないが、なんらかのプライオリティはある。死ぬから何かをやらなければならいのは、貧困と飢餓。このような途上国の状況に対して、先進国はどのような責任をもつか。日本で環境をやっている人は、どのような感覚なのか。

回答:日本人の環境研究者の考え方も、徐々に変わっている。そのきっかけになったのが、やはり2000年のミレニアムサミット、そして2002年のヨハネスブルグのサミットなどだろう。そこで、やはり、飢餓貧困などがやはり命を失うという意味でやはり重大な問題であり、先進国における汚染はまずまずの状態になった。やはり地球全体を持続可能にする方向が重要だと理解し始めているのではないか。
 しかし、国内でもまだ問題が無いとは言えない。飢餓貧困で死んでも、アスベストで死んでも、やはり重大問題ではある。責任については、全人類にとって共通の問題であるが、その解決に向けては様々な対応をする責任がある。最近、日本でも貧困層が発生し始めている。所得が適正に配分されない、と言う問題は大きくなるだろう。

質問6: 先進国と途上国があったとして、環境を破壊して先進国になった。そのような先進国が途上国に対して何を言うべきなのか。

回答:原則的に何も言えない。
 ただ、我々の経験、例えば、アスベストは、非常に安価に優れた材料を作る方法ではあるが、残念ながら、副作用があって、後日、相当な経済的な負担が必要となる、といった情報を伝達することは可能。
 何をやるにしても、やらない場合と比較することが重要。山のように先進国が資源を収奪したのは事実。そのために、副作用がでました、という事実は伝えるべき。資源収奪型の発展をやりつつある国に対して、われわれの経験に根ざした情報の発信をすべきだ。先進国が負担しなければならない責任には、大きなお世話ではあるが、自分達が間接・直接に関与している環境負荷などを律することの重要性を伝える必要がある。

質問7: 飛行機事故のときに「日本人の乗客は居ませんでした」と報道するのはおかしいと思いませんか。

回答:それはそうは思わない。メディアというものは、日本人が知りたがっている情報を流すものであって、それ以上でもそれ以下でもない。

質問8: 企業の環境報告書などを読んで、環境に本当に良いことをやっているのかどうか、それを判断するにはどうしたら良いか。

回答:無理。できない。最近の環境報告書は、自分達で作っていない。外注して専門家が作っている。自分で作った文章ならば、アプローチと論理の破綻がないか、それをささえるデータが示されているかといった観点で読む。論理展開がおかしいのは隠し事がある。しかし、文章だけからは難しい。担当者に会って話をする以外に方法は無い。

質問9: 企業が環境に対して本当にやるべきことはどのようなことなのか。

回答:企業は金を儲けるために運営している。トヨタにしても環境を良くするために、企業を動かしている訳ではない。金を儲けられない企業などは、特殊な人の節税対策といった意味以外には、ほとんど無い。
 そして、利益を得てから、その利益の再配分という形で、環境に貢献すべきだ。製造業のように、環境商品が開発できれば良いが、そうでなくても、例えば商社のように商品を流しているだけでも、どのような商品が環境負荷が低いかを判定できるような企業になるべきだろう。

質問10: 企業の活力をどのように環境行政に使うか。

回答:まず、一般市民一人一人を変えるのは大変だが、企業活動は、最近の傾向として、環境配慮型に変えやすくなっている。
 平成19年には重点施策がある。環境への投資が将来の富を生み出すようにする。環境と経済の好循環。

質問11: 国内の環境問題に対して、何かやるべき対策があるか。

 直接的に、誰かの命に関わることはなくなったと思われる。しかし、国内の環境問題と国外の環境問題は切れ目が無い。さらに、健康環境項目と生活環境項目があって、後者は、騒音・振動、大気汚染、水質汚濁の問題が多数残る。

質問12: 一般市民の態度に環境問題を理解しようとする意思が見えない。

回答:目の前のリスクにしか反応しない。それは一般的な反応であって、ある程度は仕方が無い。まず、身の回りだけでなく、その先の帰結を想像できるような働きかけをして、日本の存立が世界全体に依存していることを知って貰う。そして、それを最低限、他人に伝えて貰う、といったアプローチが重要。さらに、目の前の利益だけでなく、長期的な視点から選挙公約を述べている政治家を選んで貰う。

質問13: 新聞に載っている情報はかなりいい加減。度を超していることもある。

回答:確かにその通り。しかし、新聞も商売であって、売れない新聞は書いても意味が無い。すなわち、いい加減な情報を出すように購読者側が望んでいるような部分もある。さらに、新聞社は、やはり特ダネを抜くことを名誉とする傾向が強い。自分達の自慢のために記事を書いているという特性もある。このようなことを読者側が理解する必要がある。新聞は、危険を知らせることはできても、安全を知らせることは無い。一言で言えば、新聞もなりわいである。
 さらに、環境問題に何か書いてあるとき、企画広告というケースが一つある。


質問14: 地球規模で食糧生産をして、という話に関連して、日本の農業をどうするか。

回答:なんらかの長期計画を作る必要がある。しかし、農水は動けないようだ。それでは農業者がやるか、というと、その余裕すらない。しかも、やらなければならないことは分かっているが、しがらみがあってできないのならまだマシだ。本当にどうしたらよいか分からない可能性がある。それが怖い。
 個人的には、日本における食糧供給に危機が予測されたとき、何年間で、その危機に対応できるのか、といった定量的な解析が必要だと考えている。例えば、3年後には、どうやら、世界の食糧が不足すると予測されたとき、それからどのような対策を取れば、それに何年間で対応が可能なのか、どのようにやれば対応可能なのか、それにはどのぐらいのコストが掛かるのか、ということを明らかにしておく。

質問15: 持続可能な社会をゴールを定める。いくつかのゴールがあるようだ。いずれのゴールにしても、地域に根ざした文化とか文明を守るのか。

回答:まず、グローバリゼーションは、科学技術が可能にした一つの帰結であって、それが決してゴールではない。アングロサクソンとそれに類する価値観では、ゴールの一つかもしれないが。実際、単一の価値観がすべての地域を支配するなどということは有りえない。文化の多様性こそが人類の価値観だと思う。
 ゴールといっても、なにが良いのか分からないことがある。例えば、ガバナンス。どんな統治の仕組みが良いのか。明日のことを考えないで楽しく暮らせるのはどんな統治なのか。基本的人権は共通になった。しかし、ガバナンスというものは、それまでユニバーサルなのかどうか。最低限守らなければならないようなルールはあるのかもしれない。
 民主主義だって、この日本だとそれに反対はできないが、それが万国すべてで全部最良か、と言われるとなんとも言えない。かなり発展を遂げた国では、恐らく民主主義なのだろうが、本当に開発の最初のはしごに足が掛かっていないような国だと、果たして民主主義は機能するのか。
 参加的手法だって、良いことが保証されているわけではない。あらゆるものにパーフェクトはない。アジアのある地域では、個人と家族と社会は切れていないから、家長(男性)には自分の分と、家の分の2票投票権があってもよいという考え方もある。

質問16: 環境教育がごみ教育、節電教育、などをやっていても、本当に、環境教育が実践されていると言えるかどうか。そうは思えないのだが。なんらかの対策はあるのか。

回答:日本の環境教育は、自然に親しむ教育とごみ教育ぐらい。省エネ教育になると、もうできない。単に、無駄な電気は消しましょう程度に留まる。エネルギーという概念が教えられないからだ。ごみ教育にしても、ごみの分別方法が地域によって違いすぎて、本当の原理原則が無いから教育は難しい。自然に親しむことも、どのような意味を持たせるか、それは難しい。
 今後、環境教育は、やはり持続可能な発展のための教育にならざるを得ないだろう。
 最近、小学校で、英語の音に耳を慣らす教育をやろうという方向になっているが、あまり賛成できない。語学教育をやるのなら、まずは、タイ語から始めるべきではないか。理由は、形がカワイイから。次ぎに、韓国語、そして、ロシア語、アラビア語、ヒンディー語とでも行って、最終目標は、自分の名前をこれらの文字で書けるところぐらいに設定したらどうだろう。まず、外国語はアルファベットだけではない、ということを小学校から教えることに意味があることだ。
 教育というものは、教育の効果を計るのが大変だ。コマンド&コントロールアプローチは政策効果を計りやすいが、参加型のアプローチだと効果が分かり難い。知識を伝えることは、テストをやればできる。しかし、実際に行動を変えたかどうか、その前に、どのようなフレームワークで考えるか、といった教育でも、テストをやりにくい。それは、道徳の教育の世界に近い。

質問17: 環境にやさしいビジネスをどのように継続させるることが可能なのだろうか。

回答:ビジネスはモノを売っているが、実際には、モノの機能を売っている場合、モノの所有欲を満たすことを売っている場合などがある。しかし、まとめてしまえば、モノの価値を売っていると言える。もしも、モノの機能を売っている場合であれば、できるだけ少ない資源使用量で目的の機能を果たすようなモノを開発する必要がある。すなわち、技術は非常に重要である。所有欲を満たすモノを売るのが、それから先の段階として重要である。ブランドもののハンドバックなどの環境効率(=価格/環境負荷)はかなり良い。
 同様に、名人が作ったモノなども価値が高い。使い心地がすごく良いといった価値も追求すべきだろう。
 さらにそれから先になると、やはり絶対的な資源使用量を少なくすることをモノ開発の目的にする必要があるだろう。例えば、超長寿命商品などである。日本のビルをやはりヨーロッパ的なビルにすることになるのではないか。丸ビルは、一応100年持たせるという発想で作られているように。
 しかし、100年先となるとどのような価値が尊重されているのか、それはかなり難しい。
 政策としては、そのような品物の普及を推進するために減税も考える必要があるし、環境にやさしい商品を買うには、融資をしましょうという仕組みなども重要。

質問18: 環境負荷を考える。ペットボトルはリユースをすることになるのか。

回答:これは、難しい。なぜか。まず、ペットボトルのような有機物は、ガラスと違って完全に洗うことが困難である。となると、妙な毒物(農薬など)を入れられたボトルをなんとか検出して再使用しないように排除しなければならない。そのために、ドイツなどでは、ボトルの中の空気を分析している。
 ペットボトルのリユースは、首都圏コープが試みようとしているが、あくまでも宅配サービスの範囲内である。これならなんとかなる。日本的アプローチとしては、極限まで薄肉化するといったことになるのではないか。

質問19: 鉱物資源とエネルギー資源(化石燃料)の枯渇の問題だが、どちらが本当に先なのか。

回答:以前から鉱物資源が先に枯渇する可能性を述べているが、実際には、同時枯渇だろう。ただし、化石燃料が枯渇しても、他の代替エネルギーが使えるのならば、鉱物資源は枯渇しないだろう。
 例えば、銅を考えても、以前は、銅鉱石中の銅の含有量が2%ぐらいはあったのに、今世紀にはいってからは、0.5%ぐらいの品位のものが使われている。そのため、廃棄物による環境負荷が増大すると同時に、精錬のためのエネルギーは増加している。このような硫化物系の鉱石は、枯渇傾向が高いと思って間違いない。エネルギーが大量に必要になるのだ。
 しかし、鉄やアルミは現在使っているのが、ほぼ90%以上の品位(酸素は除く)なので、まだ多少下がってもなんとかなるのではないか。
 リサイクルも、完璧ではない。例えば、自動車のスクラップ鉄には、最近多用されている銅が混入する。これは困る。しかし、逆に銅の混入量が多ければ、これを銅資源だと見ることも不可能ではない。
 いずれにしても、エネルギーが必要。したがって、結論としては同時枯渇だと考えておけば良いのではないか。

質問20: 一般市民に環境問題に対する意識の向上が見えないのは、未来に価値を見出せないためではないか。木を植えるために寄付をしたとしても、熱帯林は相変わらず減る。無気力感を感じてしまう。このような市民にどう対応したらよいか。

回答:環境問題、そう簡単に効果などは出ない。やはり、10年20年の問題だ。ちょっと寄付をしたぐらいで簡単に効果がでると思っている人ばかりではない。
 0.1%、1%、10%ルールなるものを考えている。これは、まず、0.1%ぐらいの人が、本当のことを知る。そしてそれを10人に説明する。もしも、その説明に成功すれば、1%の人が知ることになる。同様に、徐々に本当のことを知っている人が増えていく。そして、30%ぐらいになれば、まあ十分。
 それはなぜか。意識ある人の割合が10%を超えたぐらいから、大企業は、環境対策を十分に行うようになる。すなわち、商品が環境負荷低減型になってくる。そして、政策も環境負荷を低減するようなものになってくる。
 無力感の話だが、やらなかった場合とやった場合を比較しなければならない。あるバラ色のイメージをもって、それが実現できなかったとしても、そこで簡単に無力感をもつべきではない。
 効果がでることを欲しがる人は多いが、我慢が必要だということは事実。

質問21: 耳障りの良い標語を考えても、曲解して伝わることもある。例えば、クールビスというと、ネクタイをしないことだという理解だけで、エアコンの温度設定を変えないといったことがある。


回答:そんなものだと思う。しかし、すでに前の質問で回答したように、無力感を持つこともないのではないか。

質問22: 3つ質問したい。
1 この鳥瞰型環境学の人材が求められる現場はどこか。
2 途上国で環境問題が起きているが、それに先手を打って対処することが環境屋だと思うが、そのためには?
3 来年から途上国から環境教育をやることになっているが、具体的にマクロな視点で見ることが重要だと思う。実際には、ごみ問題を取り扱が、なにを伝えることがごみ問題に解決になるか。

回答1:鳥瞰型環境学というか、鳥瞰的な環境観をもつことは、すべての人に期待していることではある。しかし、商売として鳥瞰型環境観が必要な人は、ほとんど居ない。恐らく、年間20人も教育すれば十分なのではないか。

回答2:途上国の環境問題に先手を打って対処することは、かなり難しい。それは、これまでの様々な例から証明されているように思える。
 例えば、某国にゴミ処理技術を移転しても、排煙処理の装置は止められてしまうこともある。その方が運転経費が安く済むからである。運転が微妙でかなり難しいという場合も有り得る。やはり、何ごとにも成立することであるが、段階を踏むことが必要なのではないだろうか。先手を打つことは、何も無い途上国に半導体工場を作るのが難しいように、結構難しい。

回答3:国は? Fijiか。島嶼国だ。島嶼国のゴミ問題は、閉鎖系なので、なかなか難しいが面白い。解決も目に見える形になるだろう。小中学校であれば、ゴミというものが、どのような影響を環境に与えるか、その最後の最後まで追いかけてみるといった発想が良さそうに思える。加えて、島嶼国だと、リサイクルが大変に難しいのだ。だから、やはり、不要なゴミは輸入しないという考え方を徹底することではないか。

質問23: 環境を考えている仲間、大学の組織・サークル・環境活動などなどに入るとと、自然環境にしても、何しても、サークルの外との温度差が発生して、周囲とのコミュニケーションがかえって困難になる。すべての人が努力がしているが、温度差をどのように。他の団体でもそんなことは起きているのか。

回答:温度差は起きてあたりまえ。どのような組織でも、その組織を大切に守ろうという発想になると、温度差がひどくなる傾向にある。余りにも温度差が大きくなったと感じたら、その団体は、存在をやめた方が良いのかもしれない。
 すなわち、党派性から離れたところで、活動ができた方が良い。環境問題は、他の社会や団体の完成に伴ってできるから、最初から活動期間を限定するといったこともありそう。

質問24: 文系が専門で、技術を専門としたことはないのだが、途上国にどのようなレベルの技術を援助すべきなのという問題に解答を出さなければならない。どこまで技術を勉強すれば良いのか。

回答:答えは簡単なので、それに対応できる範囲内で回答できるような勉強をすれば良い。必ずしも自分で判断できなくても、どのような判断をすべきか、提案ができれば良い。
 その答えは、メンテナンスが可能な範囲内で最良のレベルの技術を提供すべきである、ということ。もしも、その機器の償却期間すべてに渡って、人的・金銭的援助ができるのであれば、最善の技術を提供すべきだが、もしも、人的な援助が不可能なら、現地の技術者を教育してみて、その範囲を見極める必要がある。いくら特定の個人を教育しても、そのような特殊な技能を持つと、どこかに転職してしまうだろうから、比較的簡単に教育が可能な範囲を見極める必要がある。金銭的な援助はしないのであれば、現地での収支バランスを十分に考慮した上で、メンテナンス費用の限界を考慮した上で、機器選択を行うことになるだろう。

質問25: 非持続可能な人間活動、例えば、農業生産による土壌劣化、塩害のような土地をつくりながらやっている人々に対してどのような態度をとるべきか。


回答:そのうち痛い目を見るよ、と言うことは可能。しかし、それ以上は不可能だろう。米国中西部のオガララ帯水層にしても、枯渇は目に見えているのだが、地下水の使用は止まらない。ロシアでも、オホーツク海の漁業資源の過剰採取が止まらない。途上国で、自主的に止まる訳もない。

質問26: 里山の価値を研究している。子どもが自然に親しむような遊び場としてといったアプローチを現在やっているが、その先がありそうな気がする。

回答:この研究は、かなり文系的研究をやることになるだろう。例えば、自然と文化、自然と宗教、といったことの関連性まで議論を詰めていく必要があるのではないだろうか。

質問27: 生物多様性というものに対する生態系学者の見解にものたらなさを感じる、という意見があったような気がするが。

回答:生物多様性というものに対して、これが失われると生態系サービスの量と質が低下するといった言い方しかできないようだからだ。生態系とは、人間にサービスをするためにあるのか? 人間側がそんなサービスは不要です、といったら、どうするのだろうか。どこまで多様性が失われたら、がたがたと生態系が崩れるのか、その限界も分からない。水田だって、豊岡市の例のように、コウノトリが餌を見つけることができるような水田にしようとすれば、ドジョウやフナが棲息しているような水田にする必要はあるが、もしも、人々がコウノトリなどは不要だ、ということになれば、生物多様性など無くても、それなりに水田は持続可能。
 生態系の価値というものを、もっと別の観点から議論することが必要なのではないか。例えば、生態系における多様性と人間社会の宗教観との関係についてとか。あるいは、文化的多様性と生物多様性との関連でも良いかもしれない。
 となると、普通の生態学者には不可能ということになるが、生態学者の誰かが取り組まなくてはならないものだろう。

質問28: 学生というものの持つ特殊性を生かすということはどのようなことなのか。

回答:これも簡単で、大人の世界には、「しがらみ」というものが余りにも多い。この「しがらみ」を破るのが学生の役割。
 「しがらみ」?、「それなあに。そんなもの知らないよ」、という形で破るのも一案だが、大人の社会を分析して、しがらみの構造を解析し、その一つ一つの本性を暴き、そして、そのしがらみを破って見せる方が、効果が大きいかもしれない。

以上。

これらすべてが3時間で議論できた訳ではない。一部(質問24以降)は、その後の飲み会の場での議論だった。