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  内田樹氏と藤原正彦氏の主張 
 09.18.2011
    



 今回はいささか変わった形式になりました。技術的・科学的なことよりも、もっと重要なことがいくつもあるということも、ときには書かないと、といった調子でしょうか。


内田氏による情報難民の指摘

 朝日新聞の「私の紙面指標」欄に掲載された内田樹氏の論説は、最近、問題だと思うポイントを鋭く突いたものであった。

 「情報格差が拡大している」。この文章から始まる。被災地でのデジタルデバイドの話か、などと思うが、中身は全く違う。ある特定の考え方に固執する余り、良質な情報をはじめから拒否してしまい、ジャンク情報しか信じられなくなっている人を「情報難民」と呼んでいる。

 このような新たな「情報難民」が発生したことには、インターネット系の情報量の爆発と、新聞情報の劣化、という2つの原因があるが、もう一つ、決定的な要因がある。

 それは、そのような情報の良否を判断できない人の特徴であるが、「話を単純にしたがること」であり、もっとも知的負荷の少ない世界解釈法である「陰謀史観」に飛びつく。世の中のすべての不幸は「それによって受益している悪の張本人」の仕業である。陰謀史観で解釈すると、「私は悪の秘密を知っている」という全能感を与えてしまう。一度、この麻薬のような全能感になじむと、他の考え方を受け入れられなくなる。まともな情報を世論操作のための「うそ」だと退ける。彼らの不幸は自分が「情報難民」だということを知らないという点にある。

 最終結論として内田氏は、新聞こそ重要な役割を果たすべきだ、としているが、この発言には、彼が紙面審査会委員だからだという立場を加味すべきだだろう。もしも、自由な立場であれば、何を結論としただろうか。

 個人的に思う内田氏のしばりの無い場合の結論は以下のようなものである。

 20世紀の終わりごろから、「話を単純にしたがる」点では、新聞などの紙メディアの報道も共通ではないか。定量的なリスクの大小を語るといった正統なアプローチを軽視し、0か1か、正義の味方か悪党か、という単純な発想を新聞自体が行っているではないか。「限られた紙面」ということを理由にして。

 さらに、東日本大震災での原発の事態に対しては、「原発をゼロ」にしたい朝日、「ゼロでは困る」日経、そして「反民主」の読売と、自らの読者に向けた結論が先にあって、それに適合した都合のよい情報だけを流し、別種の情報難民を作ろうとして来たではないか。

 このような状況にあることを理解すれば、情報の受け手として、このような非常事態への対処法を真剣に考える必要がある。情報量が爆発的に多くなってしまった現状で、どのようにして良質な情報を獲得するか、そのとき必要なスキルとは何かを考えるべきだ。

 以上のような推測をしたのだが、どんなものだろうか。

 ところで、内田氏は2chを読むのだろうか。また、Twitterをやるのだろうか。多分、Noなのではないか。良くて、観察の対象にはしている程度ではないだろうか。(内田氏はTwitterをやっているとのこと。理由を聞きたいぐらいだ)。

 個人的見解であるが、ジャンク情報かどうかを見極める非常に簡単な方法がある。それは、「匿名の情報は99%はジャンクである」ということである。このような簡単なことを「情報難民」は知らないのではないか。あるいは、「陰謀に対抗するためには匿名が必要だ」、という勝手な高揚感を抱いているのかもしれない。

 第二に必要な認識は、「短い文章で表現すると、どうしても情報に限りがある」という現実を認める必要があることだろう。

 60分の講演を行って、そのすべての発言を文章で表現することを試みると、楽に2〜3万字程度になる。ただし、これを本として読むと、かなり密度の低いものになるので、60分の講演は、1〜2万字分の情報量をもつと評価することが妥当なのではないだろうか。60分という時間だが、この程度の講演では、正当と思える判断をするために必要な情報のすべてを述べることはできない。

 一方、新聞の記事であれば、一面トップのようなものでも、1500字程度しかない。これで、すべてを説明することなど、物理的不可能そのものである。

 雑誌に論説などを書こうとしても、正味1万字の原稿はまず無い。図表含めて1万字でも多い方であり、多くの場合、6〜7000字程度になる。

 要するに、このHPの1回分程度の文字数である。ある事象を根底からの説明しようとしたら、非常に不足、という文字数である。

 そろそろ、個人的な結論としたいが、最近の風潮で排除すべきことのナンバーワンが、「単純化した情報」を求めすぎているということである。Twitterしかり、2chでの発言しかり、である。まず、短い文章で真実が語れることは無いという合意を再確認することが必須である。

 そして、第二に、匿名情報に良いものは無いことである。貴重な内部告発情報が埋もれている可能性も皆無ではないが、湘南海岸で砂金の粒を見つける確率程度のものだろう。

 最後に、講演というものをもっと重要視すべきであるという主張を加えたい。しかも、できるだけ長い講演が良い。

 大分前になってしまったが、国連大学に勤務していたとき、日本人の大学院学生のために、サマースクールというものを行った。10日間に渡る長期集中講義で、講師一人の持ち時間を180分とした。休憩を途中で入れるも入れないも講師の自由。

 このような長丁場の講義をやってもらうと、失礼ながら、大学院学生にも、その講師が話していることが、本物か偽物か、極めてよく分かるようである。それは、話の根底にある科学的真理に基づく話かどうかを、講師の話のトーンや態度から、容易に判断できるからではないかと思われる。

 一方、情報量の多い単行本にしても、その著者が本物か偽物かを見抜くのは極めて難しい。やはり、肉声を聞くことによって、ヒトの判断力はかなり増幅されるのではないだろうか。ただし、施政方針演説のように、書かれた原稿を読んでいるのでは、折角の付加的情報が消えてしまう。選挙演説も、毎回、同じ事を話ているので、同様である。

 複雑な話を受け入れない状態を離脱するには。まずは、ネットというメディアを離れて、肉声による話を聞くべきだというのが、ここでの主張である。


単純化した話以外を受け入れない理由

 単純な話以外は受け入れられない理由をさらに考察してみたい。

 その理由を単純化(!)してしまえば、複雑な話をハンドリングする手法を持たないからではないか。

 最近、藤原正彦氏の著書、「日本人の誇り」をざっと読んでみた。全体的な印象は、「数学者が書いた日本100年史の解釈」である。歴史というものの検証が実は非常に難しいものであるということ、すなわち、確実な証拠などはどこにもないということ感じている身としては、日本人を肯定的に捉え、アングロサクソンをその対局に捉える歴史解釈に同感しつつも、どこまで信じて良いものか、という疑問が沸くのだが、日本人というものの特性の記述などは、さすがに鋭いと言わざるを得ない。

 すなわち、第二章の記述、特に、江戸時代、明治時代に日本に滞在した欧米人の日本見聞録の内容など、はじめて知ることが多く、今回の震災から、日本という国を復興・再生する際の、最大のヒントになる内容を含む著書である。

 本来の著書の主旨から言えば、かなり細かいことになるが、さすがに数学者と思わせる記述が多い。それは、文系知識人のスタンスにかなり批判的であることである。

 「現代知識人には、動かぬ証拠が目の前にないからいつまでも懐疑の芽を向けるのです。そして何より、知識人にとって、公の場で自分とか自校、自社、そして自国を肯定的に語ることは、自己肯定は無知、無教養、無邪気をさらすことであり、自己懐疑こそがとるべき知的態度なのです」。

 「実は理系知識人は必ずしもそうではありません。理系では独創が命で、そのためには自己肯定が不可欠だからです。自己肯定から生まれる強い意志がなければ世界で初めてのことを成しとげることはとうていできないのです。ところが博識は尊ぶもののさほど独創を尊ばない文系では、知識人の大半が、自己懐疑的であるか、少なくともそういうポーズをとるのです」。

 「そのうえ、文系知識人は、物事を「白」とか「黒」とか断ずるのは危険、「灰色」というのは安全、ということを自己防衛本能として有しています。「灰色」というのは半身の構えであり、攻撃や批判をかわずには好都合な体制なのです」。

 こんな記述になっている。

 待て待て。最初の2段落は良いとして、文系知識人は、「灰色」と表現している。これは良いとしても、もう一方の理系に属する、リスクを語る理系は、物事を0、100で語るのはダメで、すべてはその間であると主張している。これは、「リスク理系人」は、文系だということになるのか。

 いやいや違うのですよ。「リスク理系人」は、これは白色度が30%で、黒色度が70%だという表現をすることを理想としているのであって、単に、白と黒の判断をより定量的にすることを目指しており、それは何もかも灰色になってしまう文系的表現とは、むしろ対極にある表現だと主張したい。

 図で表現すればこんな感じではないだろうか。リスク理系と数学理系のどちらが理系的判断度が強いか、それは、分野の特性であって、どちらとも言えないと考える。


図 理系的、文系的判断

 要するに、すべての情報を単一の灰色、場合によっては、ほとんど黒に近い灰色だと認識することが、内田氏の言うもっとも「知的負荷の低い方法」だから、この思考法を採用してしまうのではないか。

 もっと人との直接議論をすることや、人の講演などを聞くことによって、文字情報以外の、信頼性を含む無定形の情報が付随した情報を取り入れることが不可欠であるにもかかわらず、ネットという文字情報からだけなる情報だけを取り入れるということで、単純な判断をするようになっただろう。

 若者の携帯電話依存が終わらない限り、日本の未来は暗いということかもしれない。


理系知識人がモノを言わない理由

 藤原氏は、もう一つ重要なことを述べている。それは、理系知識人がなぜモノを言わないか。である。

 「理系の人間は、専門の学問が難しいうえ、進歩が日進月歩で世界中と競争になっているため、歴史を勉強したり文学を愉しんだりする時間が例外的な人を除き、ほとんどとれません」。

 「研究の第一線を退いてから初めて他分野の書物に向かうことができるという状況ですから歴史観を語るまでには至らないのです」。

 まあ、その通りである。我々世代よりも一回り上の大学教授は、どうもかなり自由に時間を使っていたと思われる節がある。

 現役世代の大学関係者は誠にお気の毒で、休講すらままならないようだ。元凶は評価システムである。休講の多い大学は、単純に、悪い大学だとされてしまうのだ。

 しかし、何か新しいことを知ることができるから、という理由で授業を受けることは、もともと間違いである。あのような短時間で新しい知識を体系的に理解することなどは不可能である。

 授業の本来の役割は2つあって、一つは、自分は何を知らないかが分かること、もう一つは自分が知っていることが正しい理解かどうかのチェックができること、これだけである。

 少なくとも理系の場合、90分の授業を1回受けたら、その3倍の時間の自習をすれば、まあまあのレベルの理解に到達することができるだろう。3倍の時間自習をすることを前提とすれば、大学における講義は、1学期10回までが限界なのではないか。

 自習をさせることなく、大学に来れば知識を授けることができるという誤解を学生や父兄にばらまくことは、犯罪的ですらある。現時点で、ほとんどすべての大学がこの犯罪行為を犯している。

 その見分け方も簡単で、休講に対して厳しい大学は、この犯罪を確実に犯している。知りうる限り、現時点で休講について教授連の自主的な判断に任せているのは、東大ぐらいなものである。

 なぜ、自習時間が重要だという主張をするのか。まず、藤原氏の主張はその通りで、理系学問は難しく、しかも日進月歩である。これに対応するには、入ってきた膨大な知識をまずはそのまま受け入れるが、しばらくしたらその知識をコンパクトにして、自らの頭中に整理してしまうという作業が不可欠だからである。そうしないと、次の知識が入る余地がなくなってしまう。

 理系の知識が文系の知識と異なると思える点が、知識の根底に存在する原理原則は比較的少ない、というものがある。そのため、どのような原理原則に基づく知識であるかを整理することによって、膨大な知識をぼんやりとした概念に昇華させることによって、脳の中での体積を圧倒的に小さくできる可能性があると考えている。知識を相互連携させるといった作業をすることによって、知識の脳における占有体積を圧縮しないかぎり、次の知識は入らない。知識の相互の位置を明らかにし、知識を2次元空間に投影することを試みることが最初のアプローチかもしれない。

 このような考え方を、最近は、「”知雲”というを脳内に作る」という言葉で表現したりしている。雲のようにもやっとしているのだが、知識の構造を映しだすスクリーンのような感じである。

 このようにして整理した知識をもって授業に望むと、その知雲の構造が正しいものだったのかどうか、その判定ができる。もし良ければそれで良し。ダメなら、また自由時間に知雲を再構築することになる。


基本は人の表情などを含めた総合情報

 自ら14年間もネットに文字を書き続けているが、その最大の効用は、自らの考え方を整理するためであって、このネットの記事によって、何かを主張するという意図は、実は二番目である。

 何か、新しいテーマで講演を頼まれたとき、あるいは、原稿を依頼されたときに、まず、取り組むのがこのHPを書くことである。

 そして、講演でどこを強調すべきか、などの感触を得ることが目的である。この方法、時間的な効率は決して高くはないのだが、効果を含めた場合には、効率は悪くはない。

 このHPの読者の方々にお願いしてFacebookに「環境学ガイド」というグループを立ち上げてみたのも、匿名ではない形での意見交換を、バーチャルではあるが、対面形式の雰囲気のあるFacebook上で行うという実験をやってみたかったからである。

 そして、その延長線上に、8月4日に鳥居坂でおこなったエコプレミアムクラブのシンポジウムがあった。Facebook上での知り合いと実際に顔を合わせることができた。

 コミュニケーションの方法としては、やはり、対面によるものが良い。同じ内容でも、文字だけではなく、言葉として聞くことで、その信頼性や裏にある意図まで聞き分けることができる。これが人間が持っている能力である。陰謀を考えているのか、そうではないのか、単なるウケ狙いのためなのか、そうではないのか、判定は簡単である。

 YouTubeがあると言われるかもしれない。しかし講演をするとき、聴衆の反応で、講演の内容は変わる。参加しないと、講演も自分のものにはならない。すなわち、YouTubeでは、本当の現場の感触は伝わらないのではないだろうか。

 こんな文章を書いてみて、久しぶりに、自らが行う講演などの公開行事のご紹介も更新することにしましたので、もしチャンスがあれば、どこかでお会いできることを期待しております。