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今回は、短めの記述を目指す。なぜならば、「長すぎると、読んでくれない」というリスクがあるからである。と言いつつ、9800字になった。リスク対応は難しい。 前回、小島氏の著書をご紹介したHPでも、 http://www.yasuienv.net/RadRiskCom2.htm ICRPの緊急事態期の解釈を記述しているので、若干のオーバーラップがある。そのときよりも、わかりやすさを狙ったつもりではあるが、果たして結果は? 今回の記述をフルに理解するためには、京都の大文字焼きや送り火に陸前高田市の松林であった松が使われることになっていたが、二転三転して、結局、使われないことになったという事態が前提として存在している。その概要は、本HPの最後の付録として記述しておく。 食料がゼロリスクの原点か これまでヒトという生物は、自らの生存のチャンスを拡大するために、無限回のチャレンジを繰り返しながら、何が安全か、何が危険かを確かめてきた。 その主な理由は、食物が不足している状態が通常の状態だったからである。グレゴリー・クラークが書いた「10万年の世界経済史」という本があるが、この本では、人々の豊かさをどのような食品を食べていたかを基準にして評価している。 http://www.yasuienv.net/EcoLeder21.htm このHPでは、図が引用されていないので、多分、著作権侵害だと思われるが、池田信夫氏がブログで公開しているので、それを引用。 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/31168c99dc13adf018e1eca1e65e98fb 過去3000年に渡って、クラーク教授がデータを作成し、検討した結果によれば、人々の豊かさは、ほぼ変わらない。産業革命以降、格差だけが増大したのが経済発展の実状であるという「皮肉な結論」を出している。もともと皮肉屋として有名な教授らしい。 飢饉や疫病の流行があって人口が減ると、人々は豊かな暮らしになる。飢饉・疫病という災いが豊かな暮らしに繋がるのは妙だとも思えるのだが、ちょっと考えれば、食料の量が限られているから当然だ、とも言える。 食料が常時不足状態だと、何か新しい食べ物はないか、常にチャレンジをする肉体的・精神的状況になる。そのため、恐らく、ほとんどすべての人が、現在食料とは認められていない「他の生物」を食べてみたものと思われる。そして、多くの人々は失敗し、下痢・腹痛で苦しんだのだろう。 その結果、植物で食べられるものは少ないこと、植物でも、果実とか種子とか呼ばれる部分は食べることができること、動物ならば、特に脊椎動物であれば、かなり多くのものが食べられることを学んだのであろう。 さて現代人とは何か。それは、都市居住が一般化してしまい自給自足が不可能な人々が増えてしまったため、貨幣という代替価値を使った経済に依存している種類の人々であろう。 食料を貨幣で買うことができる。そのため貨幣を多く持っていれば、飢えることはない。これが現代社会の定義なのかもしれない。 となれば、自らがチャレンジをし、何が食べられるのかを自ら見出す必要の無い人々。要するに、「飢え」から開放されている人、これが現代人の定義なのかもしれない。この定義だと、現代人が増えだしたのは、日本では、高度経済成長時代以降ということになるのだろう。 「お金さえ払えば、安全な食料を買うことができる」。これが拡大して、「お金で買うのだから、安全な食料でなければならない」。さらに拡大して、「安全にお金を払うのだから、完全に安全でなければならない」。これが、現代人の食料に対するマインドだと言えるだろう。 となると、「現代人のリスク感覚の全体が、食料に対するリスク感覚とほぼ同じ」、とは言えないだろうか。 食料(=他の生命)というものに対して不遜とも言える現代人のマインドなのだが、現時点で、ある程度許容されているのは、まだ地球には余力があって、食料の供給にそれほど大きな不安は無いからだろう。しかし、このような状況もここ20年間ぐらいで終わるのではないだろうか。 これからの20年間で変化するものは何か。いくつかの要素を考えなければならないだろう。 (1)そもそも日本は食料の輸入にお金を払えるのか。現在のように円高になっていれば、それはなんとかなる。しかし、円安が極限まで進めばどうなる。 (2)現状のレベルを超した食料生産を続けると、地球上での水の供給や、土壌の劣化などが限界にならないか。 (3)人口の増加は、最良のシナリオでも2050年程度までは続くだろう。ピーク人口も80億人ぐらいで収まるだろう。もしも、世界経済が変調を来せば、2070年頃まで人口は増え続ける可能性もある。となると、90億人程度の世界人口を覚悟しなければならない。 (4)(1)の輸入が不可能でも、国内で食料自給をすれば良いではないか。しかし、エネルギーの自給率が4%というこの国では、同時にエネルギーが輸入不能になって、食料生産も手作業でとなる可能性すらある。 こう考えみると、しばらくの間、「ゼロリスクの我侭」を享受しているのだという意識をもった上でのゼロリスク指向であれば、それは許容すべきかもしれないという考え方もあり得る。 放射線リスク、本当はずっと分かりやすい 今回の放射線リスクへの過剰反応を見ていると、やはりきちんとしたリスクを把握する「すべ」を知っている人の方が幸せなのではないか、と思うのである。 これまでも何回かに渡って説明しているように、放射線被曝のリスクの基本的な考え方は、ICRPが中心となって非常に長い間議論してきた結果、一つの科学的事実と、対応のための2つの基本原則としてまとめられている。 科学的事実: 放射線のリスクは、低線量を長期間に渡って被曝するよりも影響の大きな「短期間での被曝」であっても、100mSv以下の被曝量であれば、有害な影響が出たという実証データは無い。 2つの対応基本原則: 平常時:放射線は、被曝量がいくら少なくても悪い影響がでる可能性がゼロであるという証拠もないので、無用な被曝は避けるべきだ。もしも医療診断用など、個人としてのベネフィットがあれば、それを考慮して、リスク-ベネフィットの考え方を用いて判断すべきである。 緊急時:有害性の大きな比較的短期の被曝でも、総量が100mSv以下なら有害な影響がでたというデータはないので、余裕をみて年間100mSvを最初の1年間の目安とし、被曝量を下げる「努力」を実施する。その次の年以降も、できるだけ被曝を下げる「努力」をし、年間20mSvを目指す、そして、徐々に平常時に戻す。その「努力」であるが、その実施にあたって、精神的なストレスが発生するのであれば、その有害性を無視すべきでない。場合によっては、経済的なストレスも考慮に入れるべきである。すなわち、リスク-トレードオフの考え方で対処すべきである。 緊急事態期における対応を表現している図を、放射線医学総合研究所のHPから引用する。日本政府は、より安全側の対応を目指してだろう、年間被曝量として100mSvという数値を採用することを避け、年間20mSvを採用しているように思える。 ![]() 図 緊急事態期における対応の表現 科学的事実について 被曝量がいくら少なくても、悪い影響がでる可能性はゼロだという証拠は無い。それならもっと調べれば良いではないか、と思うかもしれない。しかし、これは、現代科学というものでは解明できないことの一つなのである。 現代科学は、ある現象が起きるということは論理的に証明できるが、ある現象、今の場合では、「悪い影響がでること」が現象の具体的な記述であるが、その現象が決して起きないことは証明できないのである。 幽霊は存在するのか。もしも存在するのであれば、誰かがそれを検出するか、あるいは証明したはずである。現在まで、それを科学的に検出、もしくは証明した人は居ないように思える。したがって、幽霊は存在しないと考えるのが科学的に正しい判断である。しかし、幽霊が居ないことが直接的に証明できている訳ではない。 被曝量が100mSv以下でも「悪い影響がでること」が真実かどうかについても、多くの研究者がこれまで挑戦してきた。しかし、それを科学的に検出したか、あるいは証明した人は居ないようである。したがって、被曝量が100mSv以下であれば、「悪い影響はでない」と考えることが科学的に正しい判断である。しかし、悪い影響が決して起きないということが直接的に証明できる訳ではない。 100mSv以下というデータは、広島・長崎の原爆被爆者のデータであって、世界の自然放射線が強い地域のような場所での長期間低線量被曝のデータではない。自然放射線が強い地域での疫学調査も何回も行われているが、400mSvとか500mSvとかいった生涯被曝量でも悪影響は検出されていない。 食品安全委員会が言い出した生涯100mSvを目安とするという判断は、過去のデータを正しく使っているとは思えない。ICRPに対して、理の無い喧嘩を挑んでいる。 新聞に、「専門家の意見がまとまっていない。だから判断ができない」、という感想を述べている女性が居た。お気の毒ではあるが、このような状況が起きる背景に、現代科学のもつ特性が潜んでいる。勿論それだけが理由ではない。この特性を悪用して、自らの政治的な主張を通そうとして、「幽霊は存在している」と主張するとんでも学者が跋扈している、というもう一つの事実がある。 平常時のリスク-ベネフィットの考え方 平常時には、悪い影響がでる可能性はゼロではない、と理解するのが賢い。なぜなら、無駄に被曝すると、いざとなったときに、例えば、X線CTを撮らなければならなくなったときに、判断が難しくなる可能性があるからである。 X線CTの被曝量は、多少多いので、それによって得られるベネフィット、すなわち、早期発見のメリットなどを考慮し、同時に、被曝することによるリスクとを勘案して、X線CTを受けるかどうかを判断すれば良い。 緊急時でのリスク-トレードオフの考え方 現状の福島県のような状況では、放射線への被曝を避けるためには、なんらかの行動をする必要がある。例えば、外出しない、転地(転校)する、食品を厳選する、家の庭を除染する、などなどである。 ここで無視されがちなことが、その行動を選択することによって心理的なストレスの原因となりうることである。 放射線に被曝した際の不都合な影響は、発がんが主なものである。発がんに対して人体が備えている防衛線の一つである白血球の活動力は、心理的なストレスによって低下することが知られている。 親、特に、母親が余りにも神経質になると、それが子どもに伝染して、心理的なストレスの原因となる。子どもを放射線の直接的な悪い影響から守ろうとする余り、子どもに心理的なストレスを掛けている状況ができているのではないか。要するに、物理的な放射線の影響と心理的ストレスの影響という2つの影響をトレードオフに掛けているようなものである。 心理的なストレスを取り除くには、「安心すること」が第一だが、それは簡単ではない。実際、なかなかに難しい。 そこで、一気に「安心」に行くのは諦めて、まずは「信頼」できる情報を得て、それを理解し、早く「知識」のレベルにまで変化させ、確立することである。自分自身で「信頼できる知識」を構築すること、これが「安心」を獲得するための遠回りな、しかし、確実な道である。 世界的に見て、ICRPという組織は、充分に信頼に値する組織だと思われる。その理由は、本物の学者から構成されていると思われるためである。なんらかの政治的な目的(反原発や増原発・原発推進)を達成するためではなく、放射線の被害を減らすことを純粋な目的として科学的な検討を行っている。 しかも、ほぼすべての国が、その基準を自国の基準として採用している。 ICRPが何を言っているか、それを理解し、自らの知識に高めることができれば、福島県在住の母親などにとって、それは、今回の事態を乗り切る良い対応策を選択できる基盤になるだろう。 放射線への過剰反応だけを指摘したが、もしかすると、放射線被曝について、余りにも楽観的な判断を行っている親もいるかもしれない。親としてどのぐらいの判断をするのが妥当であるか、その進言を適切に行っている組織があるとは思えない。自治体としても対応しきれないだろうし、その能力が無い可能性が大きい。また、NPOが信頼されるような状況にあるとも思えない。 どうも、もっと情報弱者に寄り沿ったなんらかの存在が必要である。どのような組織が対応すべきなのか、また、能力を持っている組織はどこなのか、長期戦になることが確実な今回の事態だけに、真剣な対応が必要であることだけは確実である。 放射線リスクを理解しにくくしている犯人 いくつもの要素がある。まず列挙するとこんなものか。 (1)政府が一体でない (2)個人プレーをするとんでも学者か正義の味方か (3)正しい報道をできないメディア (4)正しい報道に対して抗議をする個人あるいは団体の存在 (5)責任を取りたくない政治家 (1)政府が一体でない 政府といっても、何が、誰が政府なのか。現状で言えば、菅総理と他の大臣の考え方が余りにも違うことが大きい要素かもしれない。 菅総理は、市民運動家として、原発廃止をターゲットに定め、自らの政治生命の延長の手段に使ってきた。この戦略が成功するためには、原発は危険なほど、原発からの放射線影響も重大であればあるほど、個人的に都合が良かった。 食品安全委員会は、平成15年7月1日に設置され、内閣府に置かれている委員会である。 委員会といっても、実は、レベルが何種類もある。もっとも格式が高いとされるのは、国家行政組織法の三条で規定されている通称「三条委員会」である。同じ法律の八条で規定されている「八条委員会」もある。 食品安全委員会は、三条委員会でも八条委員会でもないが、委員の任命は国会の同意が必要な人事である。最近では、BSEに関して吉川泰弘東大教授が、リスク科学的に正しい主張をしていたため、民主党によって不同意になった。 いずれにしても、食品安全委員会は、同じく内閣府に置かれている消費者委員会に比べれば、遥かに格式の高い委員会である。 食品安全委員会のホームページのキャッチフレーズにあるように、「食品の安全を科学する」組織であるはずなのだが、小島氏の著書を読む限り、総理大臣の意向を無視できないことも、少なくとも事務局に関する限り、事実であろう。 http://www.yasuienv.net/RadRiskCom2.htm 8月12日の各紙によれば、原子力保安院は、環境省の下に置かれる方針だという。これは、菅総理の強い意向に基づくものだと思われる。同時に、内閣府に置かれている原子力安全委員会、文科省の放射線モニタリングの担当も環境省に移す方向性のようだ。 (2)個人プレーのとんでも学者か、それとも正義の味方か 代表格が、小佐古教授だろう。例の涙で、すでに有名人なので、コメントは省略。 最近、児玉龍彦教授も国会で意見陳述を行っている。児玉氏は、DNAの超プロであるが、物質のプロではないし、放射線測定法のプロでもない。何か粒子状の物質が大量に放出されたと主張しているようだが、このあたりは科学的な確認が行われているのだろうか。非常に分解能の高いイメージングプレートでも使えば、粒子の検出ができると主張しているようだが、X線のように、進行方向が決まっている場合には、それなりの光学系を構築すれば可能だろうが、粒子状の物質の位置をどうやって検出できるのだろうか。 かつて造影剤として使われたトリウム系の物質が放出したα線が問題を起こした事実を強調しているようだが、α線を放出するプルトニウムの粒子が放出されたという意味なのだろうか。1986年に起きたチェルノブイリ事故で、1991年にすでに甲状腺がんが多発していたということを意味する(?)主張も、かなり疑問。要するに、疑問点が満載であるが、ビデオを見た一般市民には、無条件に正義の味方に見えるようだ。 などとかなり疑問を持ったので、何か意見を述べている人が居ないかと検索をしてみた。その結果、この人の知識は、児玉氏を上回っている部分があると判定した。ご一読を。もっとも、このブログに批判的なコメントが多数集中していることも、同時にご確認いただきたい。勿論、匿名のコメントである。この著者が、Wikiを引用したことが批判されているが、Wikiの記述を読んで、「児玉氏の主張よりも信用できる」と判定しているだけである。ところが、コメントでは、Wikiなどを引用するのはニセモノだというものばかり。Wikiだって、中身によるのだ。形式だけしか見ない固定観念による決め付けは良くない。 http://news.livedoor.com/article/detail/5747988/ これらのコメントから判断すると、放射線には危険でない場合もあるという発言は、その内容に関わらず問答無用で、すべて御用学者にされてしまう。この固定概念から抜け出せないことが、現在の日本の不幸を証明している思う。きちんと物事をわかっている人は黙っているのだろう。もし他人を批判するのなら、誰かを支持する場合よりも、本名で意見を述べるべきだ。 世界の放射線医学、放射線防護学、あるいは、放射線生物学の権威を集めた組織がICRPだとすれば、現時点で、もっとも権威がある日本人学者は、ICRPの正規メンバーである丹羽太貫京都大学名誉教授だということになるだろう。ICRPの見解は単に科学的に合理的なだけでなく、これ以上安全側に振る必要がないほど、相当に安全サイドの見解を出している。 丹羽太貫名誉教授だが、これまで余り発言を耳にしなかったが、送り火に陸前高田の薪を使用しないという京都市の決定に対して、「仮に表皮を1キロ食べ、全て体に吸収された としても取るに足らない線量」と指摘した上で、「意味のないクリーンさを求めた今回の判断は被災地の方々の 気持ちを踏みにじるものだ」と指摘。 一方、安斎育郎・立命館大名誉教授(放射線防護学)は「五山の送り火は伝統的神事という性格を持つ。放射能がけがれのようにとらえられたのではないか。今回の件は科学の問題ではなく、文化の問題となっている。解決も文化的に行うべきで、犠牲者への追悼のセレモニーをやった方がいい」と提案したそうだ。放射線防護学の専門家としての発言とはとても思えない。専門家としての発言であれば、丹羽名誉教授の最初の発言と同じものになっているはずであるが、それがなされなかった。 安斎氏は、ジャパン・スケプティックスと呼ばれる疑似科学・オカルト現象を批判する会の元会長だったので、著書なども多少持っているが、今回の発言の科学性の無さは、やはり、原子力政策を批判してきた政治的自己主張が勝って、科学性が歪曲され軽視された結果ではないか。 とんでも学者が重用されていることには理由がある。新聞としては中立を装わないと、放射線のリスクを定量的に理解できない日本人ばかりになった現状では、抗議ばかりが来て、自らの存立に関わるリスクが発現してしまう。そのために、メディアとしては、放射線防護学の世界的権威の発言すら認めることができない状況になっている。真実を伝えるのがメディアだとしたら、メディアは死んだ。副作用として、リスク科学も死にかけている。 ついでに、朝日が採用したコメンテータである内海博司京大名誉教授の意見も採録。 「薪の使用中止を決めた京都市の判断を、京都人として恥ずかしく感じる。そもそも薪の表皮を処理してから持ってくる方法もあったうえ、検出された放射性物質の量なら健康には影響しない。市は、「送り火の意味を踏まえ、検出されたが実行する」と言って欲しかった。市は京都の名誉をおとしめるとともに、被災地の風評被害を助長させたと言える」。 (3)正しい報道をできないメディア これは、すでに(2)で記述してしまった。追加が必要なことはただひとつ。現在の状況を作ってしまった責任は、メディア自体にあるということ。 ICRPによる「緊急事態期の対応」の意味をきちんと説明したメディアはあるのか。もし今すぐやってみろと言われたら、それが説明できるだけの自信があるメディアはあるのか。是非、チャレンジすべきである。 (4)正しい報道に対して抗議をする団体あるいは匿名の個人存在 その実体は不明である。想像をするのは止めよう。 ただし、一つだけ言いたいことがある。それは、インターネットにおいて匿名で悪乗りした無責任な発言を繰り返している連中が、状況を悪い方向に引っ張っている。世の中をさらに悪くすることが、匿名発言の一つの目的だから当然ではあるが。 インターネットでも、原則的に匿名の発言を止めるのが良心ある行為というものだが、実名では、自らの鬱積した思いを発散できない状況にある人々の、唯一の発散の場になっているのが、2chやtwitterというものなのだろう。現状、Facebook以外は、何かを変える力を持ち得ないと思える。匿名では誰かの邪魔をする力にしかならない、ということは真理なのではないか。日本の現状がまさに「邪魔と意地悪合戦」なので、ぴったり世情にあっているのが、2chとかtwitterなのだろう。 ちなみに、丹羽名誉教授は、2chでは御用学者扱いになっている。実体は、原発推進派や国にとって、もっとも煙たい存在だったのではないか、と思われるのだが。また、内海博司名誉教授も「立派な御用学者」に分類されることだろう。 (5)責任を取りたくない政治家 最近の例では、京都市長門川大作氏の発言。「燃やすことへの国の基準がない。早急に要望したい」。市長もやはり人気商売。有権者である京都人がゼロリスク思想の持ち主であることを充分に理解している。 ちなみに京都といえば、丹羽名誉教授は京都大学。昔から、放射線医学関係の専門家で信頼できる科学者は、京都大学、それに、広島大学、長崎大学の教授達と決まっていた。さて東大教授は??? 政治家では、他にも枚挙に暇はないが、省略する。民主党は、政治主導を謳ったのだから、政治家がすべての責任をもって決める覚悟だったはずなのだが。 自分の当選だけが重要である政治家は不要。→ 先日、4日に行われたエコプレミアムクラブのシンポジウムで使った、「転生」が必要な政治課題のOHPのコピーを付録2として掲載します。 付録 陸前高田の松の薪、結局京都から締め出し 第一段階 8月4日 大文字保存会が拒否 陸前高田市の松林は、1本を残して、津波で全滅。しかし、その松の木に、被災地の想いを書いて、京都の大文字焼きの火で燃やしてもらおう、という活動をしてきた陸前高田市の鈴木さんの提案に、京都の大文字保存会が、含まれているかもしれない放射線が心配だという市民からの声に押し切られて、拒否の回答をした。 第二段階 8月8日 批判が殺到 8月11日 五山送り火連合会が燃やすことを決定 京都の「五山の送り火」で被災地の松を燃やす計画を中止したことに批判が相次いだことを受けて、京都市などは一転、岩手県から新たな薪を持ち込んで、送り火で燃やすことを決めた。この段階では、放射性セシウムは検出されていなかった。 第三段階 8月12日 セシウムの検出を受けて、京都市長、中止 心からおわび…陸前高田の薪使用断念で京都市長 「せっかく五山の足並みがそろったのに」。「京都五山送り火」で燃やす予定だった岩手県陸前高田市の松で作った薪(まき)から放射性セシウムが検出され、計画の中止が決まった12日、京都市や送り火保存会の関係者は落胆と戸惑いを隠せなかった。 再度の使用中止について、京都市の門川大作市長は「陸前高田市をはじめ、被災地の皆様に悲しい思いをさせてしまい、心を痛めている。尽力頂いた皆様に心からおわびします」と肩を落とした。門川市長は、「(薪は)食品と違って国の基準はなく、国には早く基準を示してほしい」と繰り返した。 検出されたセシウムの量は、樹皮の部分からで、1130Bq/kgと微量だった。ちなみに、日本の暫定基準でも、一般食品で500Bq/kg。 付録2 転生が必要な政治的状況のOHPより ![]() |
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