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      空気を読むということ   02.02.2020
          山本七平の正論と誤謬



 このところ、日本人論の古典(?)をまとめて読むという作業を始めました。前回は、小松真一著「虜人日記」という戦記ものを取り上げました。なぜ日本軍は勝てなかったか、ということを21項目にまとめたものでした。
 前回にも少々書いたのですが、こんな作業を始めた動機は、特に、気候変動問題に見られるように、現時点の日本の一部の経済界のように国際的な動向をほとんど無視した経済最優先主義的な発想が維持されている根源的理由はどこあるかを探るのが目的なのです。それには、やはり歴史的な記述を読む必要があるのではないか、という仮説に基づいて作業を開始しました。
 古典的といっても、今回目的とする日本人論としては、日本軍の敗因を解析する書籍あたりが、対象とすべきもっとも古いものだという解釈(まことに勝手な個人的なもの)によって「虜人日記」が最初の選択肢だった訳です。
 前回の記事では、2番目の対象として予告したのは、山本七平著、「日本はなぜ敗れるのか」を取り上げる、ということだったのですが、実は、その本を読み始めたところ、ほとんどすべてが小松真一氏の記述の繰り返しで、「なんだこれは!?!」という印象しか受けなかったもので、急遽、別の山本七平氏の著書を取り上げることにしました。
 それは、最近の若者は「空気を読みすぎる」と特に感じていることもあって、『「空気」の研究』としました。読書開始以前の予想としては、日本の経済界を支配している空気というものがあって、それが支配的であるために、地球レベルでの状況を無視しているのだ、という予測で読み始めました。
 しかし、その結果ですが、本書から得られた感覚としては、色々と問題のある著書だなあ、ということになりました。しかし、これと同種の感覚が日本の経済界を支配しているために、地球レベルの環境保全が重要だと言えないのではないか、という結論になりました。さて、その実態は何だったでしょうか。

C先生:まずは、「空気」の研究なる本の概要から説明してくれ。

A君:実は、「空気」の研究は、文春文庫ですと、本そのもののタイトルにもなっているのですが、実際には、p11からp93までしかありません。「水=通常性」の研究日本的根本主義について、という2つの別の文書が一緒になっています。

B君:本のタイトルにはなっているものの、その全部が「空気」の研究だという訳ではない。それほど大量の記述ができるほどのトピックスではないということだったのだね。

A君:現時点で書けば、もっと色々なことが書けるという可能性は高いと思います。例えば、このサイトにも色々と書かれていますが、「正義」という言葉について、「正義は世間が作る」と喝破された阿部謹也先生(1935〜2006)の議論を読んでも、「空気」と「正義」、そして「空気」と「世間」の関係は大きいと思いますし。

B君:今回の議論も、どうも最終的には、「世間」というコンセプトを持ち込んだ方が分かりやすくなる可能性が高いとは思うね。

A君:それでは、最初からご紹介。こんな会話教育雑誌の記者としています。

 記者『道徳教育についてどう思われますか』
 山本『日本社会に道徳という規範があることは事実。この事実を教えることは、子供が社会にでたときには知らなければならないことの一つだと思う』
 記者『では、道徳教育にご賛成ですな。今は、大体そういった空気ですな。どんなことから教えればよいのでしょうか。』
 山本『それは簡単なことです。日本の道徳は差別の道徳であるという現実から教えればよいでしょう』
 記者『それはとんでもない。そんなことを言ったら大変なことになりますよ』


B君:その先に、三菱重工爆破事件(1974年8月30日)のときの話が出てくるのだけれど、今の読者は知る訳もないので、ちょっと説明しよう。

A君:了解。千代田区丸の内の「仲通り」の三菱重工ビルに東アジア反日武装戦線<狼>というグループが爆弾をしかけた重大事件。死者8名、重軽症385名です。その後、同様の爆破事件が、被害の規模は小さく幸いにして死者はでていませんが、翌年の5月まで継続して起きています。

B君:それで、山本氏の主張なのだけれど、この事件のとき、重傷者が倒れていても、一般の人々はそれを助けようともしなかった。介護をしていたのは、怪我した人と同じ会社の人だけだった。

A君:それがどこまで事実なのかは書かれていないのですが、山本氏は、これをもって、日本人には、「人間には知人と非知人という区別がある。非知人には手を出すな。かかわりを持つな。という「差別の道徳」がある、としています。

B君:それに対して、対話では、

 記者「『差別の道徳』などがあるなどととても言えませんよ」。
 山本氏「もしその場にいたらどうします」。
 記者「そう言われると困るなあ」。
 山本氏「困ることは無いと思うけれど。しかし、私なら、それを絶対に言葉にしない。日本の道徳は、現に自分が行っている規範を言葉にすることを禁じており、”口にしたということが不道徳行為”と見なされる。」
 記者「そんなことを言ったら大変なことになります」
 山本氏「皆がそうしていることは、そう教えられているからで、それは事実。事実を書けば良い」
 記者「うちの編集部は、そんなことができる『空気』ではないですよ


A君:こんな記述があって、山本氏の感想でまとめられています。「記者が再三口にしていた空気という言葉だが、彼の意思決定が拘束されているのは、なんらかの議論の結果ではなくて、なにやら訳の分からない『空気』である」。

B君:「空気の研究」の主旨は、ほぼこれだけなので、ここまでのロジックを例えば、日本軍の行動に適用したらどうなるか、などは当然のこと、と言えるのだけれど。

A君:まあ、その通りで、やはり「空気に支配されていた」ことは確実な事実でしょうね。

C先生:以上のような記述がp23まで続くけれど、p24から、「自然発生的空気」の話ではなくて、「人工空気醸成法」が述べられている。それは、科学的に事実ではないことを事実として社会に認めさせる方法論で、これが日本ではしばしば使われているという主張なのだ。確かに、その傾向はあるが、ここで引用されていることは、余りにも酷い事例だと思う。

A君:具体的には、2つの事例が取り上げられているのですが、その一つが、『右にならえで米国の基準に飛びついた「日本版マスキー法」』が良かったのか。まず、こちらから。この日本版を強引に法制化したことに対する批判的な記述です。

B君:ちょっと説明すると、米国マスキー法は、米国連邦上院議員であったのマスキー議員が提案した大気浄化法の改正案(1970年)のこと。自動車排気ガスの規制値を10倍厳しくするという内容だった。しかし、結果的には、どの自動車メーカーも達成の見通しがつかなかったため、1974年に廃案になった。

A君:しかし、日本では、本田は1972年にCVCCエンジンを発表し、1973年に生産を開始。これがきっかけとなって、車からの排ガス規制は大きく進展したのは事実。

B君:日本の排気ガス規制は、その後、昭和50年規制、51年規制、53年規制と強化され、この53年規制の数値はマスキー法と同じレベルだったけれど、実は、米国マスキー法の運転のモードは、日本のモードよりも、排ガス処理にとって非常に厳しいものだった。エンジンが冷えた状態からの規制であったり、加速も車速もはるかに厳しかった。また、米国の燃料は、微量の鉛を含んでいたり、硫黄分も多いという現実もあった。

A君:さらに言えば、日本の場合だと、メーカーがしっかり整備した車で実車試験が行われるのですが、米国だと、基準通りのメンテナンスが行われていない車で試験をすることもあるといった、実際に起きるであろう大気汚染を想定した枠組みだった。

B君:日米の思想的な違いというのは、基本的に相当違うのだ。日本流は、理想的に整備された車。米国流は現実社会で動いている車が対象。

C先生:ここまでがイントロだな。「空気の研究」に書かれていることを紹介しよう。

A君:了解です。裁判を仮定した山本氏による架空問答が、書かれています。

大審問官「光化学スモッグは、汝、自動車の排ガスが犯人である」
車さん「どこに証拠があるんですか」
大審問官「何を言うか。大気汚染の元凶が」
車さん「そういわれますが、NOxが人体に有毒であるという証拠が無いでしょう」
大審問官「何を言うか。交通事故の犯人が」
車さん「運転免許証の乱発をしている自治体の責任ですよ」


B君:どうも山本氏は、NOxが人体に有害であることを理解じていないようだ。NOxは、少なくともNOであれば、水に溶けて硝酸あるいは亜硝酸になる可能性がある。肺などに無害であるとはとても言えない。しかも、NOxは酸化されれば、NOになる

A君:どうもそのあたりの知識にバイアスが掛かっていると思うのです。日本政府は、「本来規制しなくてもよいものにも規制を掛けるのだ」、という思い込みが強いのでは。

B君:確かに規制を強化できると、それが政府あるいは官庁側の勝利だという考え方は、かつて強かったし、今でも無いとは言えない。特に、厚労省などの委員会の化学物質への対応などを見ていると、そんな思いがでないこともない。

C先生:しかし、山本氏個人は、不信感のような思いが非常に強いような気がする。それは、時代の影響もあると思うが、いつの時代であっても、経済界は、規制は少ない方が良いと考えているだろう。特に、日本の経済界は、そのような傾向が強いように思うので。

A君:そして、もう一つの話があります。それは、ある人が書いた本で、その人が山本氏にところに持ち込んだもの。その内容は、『イタイイタイ病に、カドミウムは関係ないと、克明に証明した専門書』。山本氏は、この本の内容は専門家ではないから、理解できない、として断ると、その人は、『今の空気では、この本を発表すれば、マスコミに叩かれるだけ。会社も”居直り”だとしてますます不利になるだけ。そのため、この本もトップの判断で全部廃棄することになりましたが、後日、何かあったときの証拠品として、是非、預かっていただきたい』。

B君:これまた、現時点での常識とは違っているようだ。

C先生:実は、環境研究を始めなければならない状況になってしばらくしたころだから、1990年頃のころかと思うけれど、このイタイイタイ病とカドミウムは無関係だという教授の講演を聞いたことがある。しかし、どうも、ご本人がそれを証明したということではなくて、伝聞に類することだったような記憶だ。

A君:カドミウムの有害性は、元素としてはカルシウムに似た性質があって、骨に入りやすいのですが、もしカドミウムが骨に入ると、骨がもろくなって骨折しやすくなるのは事実。明らかに有害性あり

B君:それ以外にも大量のカドミウムを摂取すれば、急性毒性もあるし、腎臓に取り込まれれば、腎不全を起こす可能性もある。急性中毒も、その実害は、肝臓などを損傷するので。

A君:やはり、カドミウムの場合も、有用な金属であるという認識もあり、特に、メッキ、半田、電池などに使われ、顔料としてもカドミウムイエローなどというものが使われていました。その実態は、CdSの混合物が主成分で、ZnSやSeSの量によって、色調が調整できるものでした。

C先生:そろそろまとめに入るか。山本氏のスタンスは、大体分かった。そのもっとも強いように見える性向は、国家権力をもっているような組織はできるだけ信頼しない方が良いということのように思える。特に指摘したいことは、「環境行政はおっちょこちょい」とすら述べていることだ。ある意味で、しかし、この時代だと、このような行政批判を述べることで、人気を得ることが通常の方法論だったと思う。一方、国会議員を信用しないというマインドはなかったのではなかったか、と推測している。まだ、まともな国会議員が居た時代なので。
 そして、現時点に戻れば、地球環境を維持するために、どの程度の速度でCO排出から離脱すべきか、という問題にどう応えるか、そこにこの「空気」の研究に似た選択があるように思える。勿論、温暖化対策の場合には、正義を語るのは、国連であって、各国政府ではない。しかも、パリ協定は、「気候正義」という言葉で、各国を縛ろうとしたが、残念ながら、この正義なる言葉に対しては、一神教の国民(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)とそれ以外の国民とでは、根本的な感覚が違う。すなわち、その言葉の持つ「空気」が違う。

A君:そうですね。東アジアは中国、日本を含めて、「正義」という言葉に全く縛られない国だ。仏教の場合であれば、大乗仏教とテーラワーダ仏教(上座部仏教)では、考え方が全く違う。大乗仏教は、それを宗教だと言うのも難しいのでは。

B君:日本は仏教徒の国だという人もいるけれど、日本での本物の仏教徒は、ほぼ僧侶のみ。しかも、僧侶でもそうだとも言い難いケースもある。一般人の信じる仏教は、宗教というよりも、祭礼の主体なのでは。

A君:正義に縛られない国の企業人が、気候正義という言葉をどのように理解しているのか。

B君:当然、いくつかのレベルがあるが、1.気候正義など知らないことにして無視、2.その仕組みは、日本の仕組みではないから無視、3.経済優先主義こそ、日本の追求すべき道だから無視

A君:まあ、いくらでも書けるけど、そのぐらいにして、日本人のビジネスマンは、どうもスウェーデンのグレタさんが嫌いみたいですね。

B君:感覚的に嫌いというのなら、分かる部分もあるけれど、むしろ、日本人のあの年齢層が、なぜグレタさん的なスタンスを取らないのか、かなり疑問に思う。もっと自己主張をすべきなのではないか。

C先生:その答えは、前回のサマースクールでの院生諸君との会話で分かったことにして、これ以上問わないことにした。『現状は、大人が思っているほど悪い状況ではないと感じていて、結構自由度もあるし、情報もスマホで十分に取れるし、友達との交流もスマホがあると大変に便利。この状況はいつまでも保つことができる訳ではないことを分かっているけれど、将来が暗いのだから、せめて現時点は楽しませて欲しい』。こんな感じ。

A君:しかし、日本の経済界がこのままだと、昨年9月の気候行動サミットで2050年でのNet Zeroを目指すとした国から相手にされなくなる可能性が怖い。まあ、無理な業界は本当に無理なので、それは、ヨーロッパを見てもわかる。特に、製鉄とセメントはCO排出をゼロにせよと言われると、ほぼゼロからの技術開発をしなければならない。そもそもどのような発想で取り組むべきかすら確実ではない。

B君:実のところ、製鉄とセメントの2業種以外の経済界は、積極的にNet Zeroを目指すと宣言した方がビジネス上有利。特に、TCFDに対応しないと、金融からの資金は多分、相当制限されてしまうので。

A君:しかし、TCFDに本気で対応するとなると、相当の時間と知力、それに戦略が不可欠で、簡単ではないですが。

C先生:そろそろ終わりにしよう。山本七平氏の『「空気」の研究』はなかなか面白いが、特に、環境関係の記述に関しては、現代の標準から大きく遅れた時代の常識というか、その当時の産業界の思いが主体となった知識に基づいて記述されているようで、今、見れば、まあ、「とんでもない」としか言いようがない。あるいは、山本氏の方が、環境行政を上回る「おっちょこちょい」だったと言うことは確実だ。
 もし、山本七平氏が現時点で生きていたら、どのような本を書いただろうか、それを想像しながら、自分の考え方を再度チェックしつつこの「空気の研究」を『翻訳してみる』という操作を行うことは、知的な作業として極めて有効だと思う。ちょっとひねくれた活用法ではあるが、当時としては、知的なレベルの高い作家であったこと、特に、市民からの支持を得る表現技術に優れていたことなどをうまく利用していただくのも良いかと思う。